安眠にはほど遠く、けれど


 草木も眠る丑三つ時。夜の帳に覆われた世界に灯りはなく、闇を住処とする生き物達が静かに動き回る。
 光の中で生きる者達はその殆どが夢の中に旅立っており、太陽が再び顔を出す時まで静かに眠り続けるのだ。
「だー!お前いい加減にしろよっ!?」
 ……極一部の人間を除いて。

「アーク!声を控えぬか!近所迷惑になるであろう!?」
 とある家のとある一室。
 ベッドの上でこの上なく不機嫌そうな顔を見せるアーク・ハリントンを、日野平葵は眉を吊り上げて叱りつける。
 が、叱られた張本人は反省する素振りを全く見せていないのだから困ったものだ。むしろ更に機嫌が悪くなってしまったようで、葵に負けないくらいに眉を吊り上げる始末である。
「誰の所為でこんな大声を出してると思ってるんだよっ。何度も何度も同じ事を繰り返されてるんだから、キレるのも無理ねーっての!」
「開き直るな!」
「開き直ってねーよこれは正当な怒りだ!婚約者が毎晩毎晩ベッドから抜け出して、床で寝るって言い出すんだぞ!?大声でも出さなきゃやってらんねーよ!」
 ……そう。それがアークが怒っている理由である。
 幼馴染の親友――リュート・ウィルソンとの痛みを伴う別れを経て、アーク・ハリントンは日野平葵というかけがえのない恋人を手に入れた。
 あれから今日(こんにち)に至るまで交際を続けてきたふたりは、この度遂に婚約する運びとなったのだ。
 アークの両親にはふたり揃って挨拶を済ませたし、知人や友人達に対する報告も終わらせている。式の準備も順調に進む中で、ふたりは騎士院の部屋を引き払い、小さな家を借りる事にした。
 誰よりも大切な相手と、新しい家族の形を作ってゆく為に。
 ……しかし、そこで大きな問題が持ち上がったのである。
「仕方なかろう!?私は『べっど』というもので眠り慣れておらぬのだ!寝不足で明日の仕事に支障をきたしたくはないし、であればよく眠れることが分かっている場所で寝直すしかないではないか!」
「仕方ないわけねーだろこの馬鹿!つーか俺じゃなくてお前の方が開き直ってるじゃねーか!」
 葵曰く。
 彼女の故郷である『日本』という国では、ベッドという寝具は存在していなかったらしい。
 床に直接『敷き布団』なるものを敷いてその上に寝転がり、更に身体の上に『かけ布団』をかけて眠るのが一般的であったとか。
 騎士院で暮らしていた頃も、葵はその寝方を貫いていた。ソロイが用意させたという『日本』の品に似たものに囲まれて、『日本』の伝統を守りながら生きていたのだ。
 『日本』という国の文化とアロランディアの文化が似ても似つかない事は、アークだってよく理解している。彼女が説明してくれる『日本』のそれは複雑怪奇で、聞けば聞くほどに「わけの分からん国だな」という失礼な感想しか抱けなかった。
 そしてそれは、葵の目から見たこの国も同じようなものであるのだと思う。
 それでも彼女はこの国で生きる事を選んでくれた。
 ……自分と生きる事を、選んでくれた。
 それはとてもありがたい事で、アークの人生で一、二を争うほどの幸運なことでもあると思っている。
 だが。
「折角同棲をはじめたってのに、何が悲しくて同じベッドで眠る事を拒否されなきゃなんねーんだよ!倦怠期の夫婦でもあるまいし……!」
 ……問題は、そこである。
 同棲する事が決まった時、アークはそれはそれは舞い上がっていた。
 恋人……それも数ヶ月後には人生の伴侶となる事が決まっている相手と、同じ屋根の下で暮らす事が出来るのだ。
 騎士院で暮らしていた時でも『同じ屋根の下』である事に変わりはなかったのだが、あそこには自分達以外の人間が多すぎた。
 アークはそれほど人目を気にする方ではないが、葵は違う。故に恋人同士のコミュニケーションを控える必要があったのだけれど、ふたりきりで暮らすこの家ではそんな事をする必要はないわけだ。
 人目がなくとも葵は恋人同士の触れ合いに照れを覚える事が多いし、『甘い生活』なんてものが送れるとは少しも思っていなかったのだが、それでも騎士院よりはマシになると考えていたのは事実であった。
(それなのにこんな問題が持ち上がるなんて、誰が想像出来るか……!)
 軽い頭痛を覚えて額に手を添えても、葵の表情はちっとも変わらない。眉を吊り上げ苛立ちに満ちた顔でこちらを見つめるその顔を、しかしアークは魅力的に思う。
 それはつまり己が彼女にそれほど強い思いを向けている証明に他ならず、アークは少しだけ自分に呆れを覚えた。口喧嘩をしている最中にこんな事を思い知らされるなんて、なんだか負けた気分になってくる。
「だから、私は『べっど』ではよく眠れぬのだから、これは仕方のない事なのじゃ!別におぬしと一緒に寝るのが嫌だからという理由で拒否しているわけではないし、我慢してくれ!」
「それが人にものを頼む態度かよ!」
 殆ど反射的に言葉を返せば、意外にも葵は口ごもった。
「……う、うむ。流石に少し傲慢であったかもしれぬな。どうも頭に血が上りすぎていたようじゃ。すまなかったな、反省しよう」
「え」
 まさかそのような返答をされるとは思っていなかったアークは、目を丸くする。
「……私とてこの件についてはいつも悪いと思っておるのじゃ。夫婦が床(とこ)を共にするのは当然で、アロランディアでは婚約者同士がそうするのも当然なのであろう?」
 当然ではない。
 それは「正式に婚姻関係を結んでいない者が床を共にするのは非常識すぎる」と眉をひそめる葵を説き伏せる為に、アークが適当に吐いた嘘である。
 葵はそれをすっかり信じ込んでいて、『私はこの国で生きてゆくと決めたのだから』という理由で、同じベッドで眠る事を了承してくれたのだ。
「しかしこちらの事情でその『当然』のことを完遂出来ずにいるのは、私の不徳のいたすところ。おぬしに迷惑をかけている事も、本当に申し訳ないと思っておる」
「じゃあちゃんと朝までベッドにいろよ」
 同じベッドで眠る最大の目的は、きちんと行う事が出来ている。
 しかしその数時間後には自分の腕の中から抜け出し、そのまま床に敷いた布団で眠られてしまうのは、流石に寂しすぎる。
 しかし葵はアークの言葉に首を横に振るのだ。
「先ほども言ったであろう?寝不足で明日の仕事に支障をきたしたくないのじゃ。私も今はおぬしと同じく、この国を守る騎士なのだから。……万全の状態で、その使命を果たしてゆきたい」
「使命、ね……」
 かつて葵は、その言葉を故郷での彼女の役割を表す時にのみ口にしていた。
 だが今は違う。
 今は、この国での彼女の立場を表す時にも使うようになった。
 ……それを知っているからこそ、アークは小さなため息を吐いたのだ。
「……分かったよ。とりあえず今日のところは好きにしろ」
「すまぬな、アーク。いつもおぬしに折れて貰ってばかりいる事も、悪いと思っておるのじゃぞ」
 そう思うのならお前もたまには妥協してくれよ、という言葉が喉元まで出かかったが、アークはそれを寸でのところで呑み込んだ。そんな事を口にすれば、ようやくおさまりかけた口喧嘩が再開されてしまうと知っていたから。
(ほーんと、俺も随分我慢強くなったもんだよなぁ)
 リュートが自分達の側に居た頃は、葵の反応なんてお構いなしで言いたい事をズバズバ口にしまくっていたというのに、今は己の意思で歯止めをかけることが出来ている。
 アークは葵が怒る顔も、怒鳴りつける声も好いている……などと言えば変態趣味を持っているのかとあらぬ誤解を受けそうであるが、別にそういう意味ではない。
 アークはあくまで自分の言葉に反応し、感情を露わにする葵を見るのが好きなのだ。
 それ以外の人間……例えばシリウスとかソロイとかヨハンとかユニシスとか、そういう相手に怒り狂う葵を見ていると、ものすごく機嫌が悪くなる。
 怒りだけならまだマシで、笑顔なんて向ける姿を見た日には、一日中機嫌を損ねたままでいるのが常だった。
 ……例えそれが、リュートであっても。
 彼女に自分の事を一番に意識して欲しかった。何をするにも自分を優先して、他の男なんて歯牙にもかけて欲しくなかった。
 だからアークは葵をいつもからかっていた。怒りだろうが何だろうが、彼女に相手をして貰える事が本当に嬉しかったのだ。
 だから、あの頃の自分であれば、もしかするとこの言い争いは別の地点に着地していたのかもしれない。
 けれど今の自分達はこうして穏やかに喧嘩を終える事が出来た。
 大人になると決めたから。
 今の葵が自分を一番意識してくれている事を、知っているから。
 ……あの頃よりも良い関係を築く事が、出来ているのだ。

 葵は床に布団を敷き、就寝の準備を進めてゆく。
 この寝具を使わなければ眠れない事など分かりきっているのに、それでも彼女はアークと共にベッドに潜り込む前にこれを敷きはじめたことは一度もない。
 それが彼女なりに努力をしてくれている証である事は、アークだってよく理解していた。
 ……ならば、こちらも同じ事をする必要があるのだろう。
「今日は俺もそっちで寝る」
「なに!?」
 葵は切れ長の瞳を大きく見開き、驚きに満ちた顔をこちらに向けた。
「俺ひとりだけこっちで寝るのも寂しいからな。そっちに入れてくれ」
「し、しかしだな、私が『べっど』で眠るのが難しいように、おぬしがここで眠ろうとしても全く寝付けぬかもしれぬぞ?おぬしの方が明日の仕事に差し支えてしまうかもしれぬのだ。やめておいた方が良い気がするが……」
「俺、明日非番だし。眠れなかったら昼に寝れば良いだけの話だし、そんな心配すんなよ」
「それでは体内時計が狂ってしまうではないかっ」
「狂っても元に戻すのは慣れてるよ。お前、俺がどれだけ夜遊びしてたのか忘れたのか?」
「それは、覚えているが……」
 騎士院の門限などなんのその。かつてアークは上やリュートに怒られる事などお構いなしで、夜の町を遊び回っていた過去がある。
 だから本当に、多少体内時計が狂ったとしても元に戻す術はよーく心得ているのだ。葵が心配するような事態にはならないと、アークは自信を持って断言出来る。
「つーか、もっと早くにこの方法を思いつけば良かったな。これなら倦怠期の夫婦状態をばっちり解決出来るじゃねーか」
「あ、おい、アーク!?」
 葵の了承も得ないまま、アークは無遠慮に布団の中に潜り込む。焦ったような彼女の声を気にも留めず、細い手首を掴み取ってこの世界で一番愛おしい相手を胸元に引き寄せた。
「うわっ」
「お前、明日早いんだろ?ぐだぐだ言い争ってたら寝付くのが更に遅くなるぞ。大人しく寝ろ」
「そ、それは、そうかもしれぬが……」
「つーかお前こんな所でなきゃ眠れないって、マジで言ってんのかよ。寝心地悪すぎ。眠れる気が全然しねーんだけど」
「な、ならばおぬしだけでも『べっど』に戻、」
「やだ」
 聞き分けのない事を言いはじめる葵の頭を抱え込み、アークはそっと瞼を閉ざす。
「……お前が色々と努力してくれている事は、俺だってちゃんと分かってる。だから、俺にも努力させてくれよ。……これからずっと一緒に居るって、決めたんだからさ」
「……アーク」
 腕の中の身体から、ゆっくりと力が抜けてゆく。そろそろと背中に回されたふたつの腕の感触に、アークは己の口許がゆるむのを自覚した。
 葵に一番に意識して欲しかった。
 何をするにも自分を優先して、他の男なんて歯牙にもかけて欲しくなかった。
 その願いが叶った自分は、きっとこの世界で一番の幸せ者だ。
 ……リュートの気持ちが誰に向いていたのかを知っていたからこそ、そう思うのだ。
(お前が俺を選んでくれて、本当に良かった)
 だからこそ、自分もまた努力する必要がある。
 リュートに誇れる自分になれるように。
 ……葵に相応しい自分になれるように。
 育った文化があまりに違う自分達は、きっとこれから共に暮らす上で数え切れないほどの問題が出てくるのだろう。
 それでも大丈夫だと、胸を張れる『夫婦』になりたいと思う。
 考えている事を正直に話して、けれども余計な怒りを煽る言葉は出来るだけ控えるように気をつけて。
 自分も彼女も気性が激しい方だから、喧嘩をする事は決して避けられないかもしれないけれど。
 そこで思考を停止させるのではなく、多くの言葉を交わしながら……妥協点を、探してゆこう。
 幸福な幼少時代を与えてくれた己の両親のように……素晴らしい家庭を、作っていきたいと思うから。
「……これからも、『べっど』で眠れるように努力はしていく。上手くいくかどうかは、正直自分でも自信はないのだが……」
「ああ、分かってる」
 ……こう言ってくれる彼女を何よりも大事にしていきたい、と。
 誓いを新たにしながら、アークは静かに瞼を持ち上げた。
 ……そのまま、暗闇の中で尚白い彼女の額に口付けた。
「な……っ」
「おやすみ、葵」
「あ……ああ。おやすみ、アーク」
 少し前までの葵は、こんな何気ない口づけにすら怒り狂っていた。
 しかし今は照れ臭そうな様子を見せながらも、こうして眠りの挨拶を返してくれる。
 だからきっと、大丈夫。
 草木も眠る丑三つ時。夜の帳が落ちる世界の中で、寄り添いながら眠りに落ちる事が出来る未来が、いつかきっと訪れる筈だから。
 互いのぬくりもりを感じながら、アークと葵は今度こそ瞼を閉ざした。


 静寂の中に残されたものは、たったひとつ。
 ありふれた恋人同士の、ありふれた寝姿だけだ。



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