あなたの存在



血の匂いに咽せ返りそうになる。
口の中に鉄の味が広がり、ぼんやりと視線を上げる。
向けられる視線はただ紅く、冷たく、



初めてそれを、心から怖いと思った。



足を引き摺りながらも、何とか歩く。
大丈夫、自分は強い。強いのだから。
腕も足も傷だらけで、だけど強いから。
大丈夫だ。
目を瞑り、大きく息を吐く。
大丈夫、大丈夫、大丈夫。
ちゃんと、帰れる。まだ身体は動くから。
だから、大丈夫。
もう一度息を吐き、目を開き、そしてまた足を踏み出す。
帰れる。帰らなければならない。あの場所へ。
あの海へ、帰りたい。
あの風景が懐かしい。あそこが自分の故郷で、ここは、違うから。
帰りたい、帰りたい。



……帰れない。



その事実に泣き出しそうになり、けれど葵は歩みを止めなかった。
今さっき刃を交えた相手の姿、言葉が蘇ってくる。
あれはもう、自分の元へは戻らない。
自分はそれを必要としていたけれど、あちらはそうではなかった。それだけの事だ。
だけど、あれがなければ、帰れない。
違う、自分が帰りたいのは確かにあの故郷だけれど、今帰らなければならないのは、
「葵!」
不意に名を呼ばれ、葵は振り返る。
「アーク……」
まずい奴に見つかったとばかりに、葵は小さく舌打ちをする。
「お前今まで何やってた……!っておい、お前その傷!!」
「やかましい。怒鳴らずとも聞こえておるわ」
本当にまずい奴に見つかってしまった。
葵はひとつ、大きなため息を吐いた。
「お前一体今まで何やってたんだよ!!いつまでたっても帰ってこねぇから心配してたら、そんな傷作って帰って来るなんて!!」
心配してくれたのか、と少しだけ驚いたが、すぐに厳しい表情を作り言い返す。
「……別に、何でもない。ただ転んだだけじゃ」
「転んだだけでそんな傷つくか。どうせ嘘つくならもうちょい上手につけよな」
ぐっと言葉に詰まり、視線を逸らす。
「……何があった」
言うわけには、いかない。
これは自分の問題だから。アークもリュートもマリンもアクアも、誰も巻き込むわけにはいかないのだ。
「何があった」
だから、言えない。
「……何もない。転んだだけじゃと言うておろう」
「お前……!」
また怒鳴られると思ったが、結局アークは何も言わず、代わりに手を差し出された。
「……何じゃ?」
「……とりあえず部屋まで戻る。話はそれからだ」
「一人で戻れる」
それだけ言い、足を踏み出す。
大丈夫、大丈夫。強いから。自分は、強いから。
「お前なぁ……」
呆れたようなアークの声が聞こえた気がしたが、あえて無視をした。
だが次の瞬間、葵の身体は地面から離れ、何故か地面を見つめていた。
「な、な、何じゃ!?」
「うるせぇ、騒ぐな」
恐る恐る横を見ると、アークの顔があった。
「うわぁ!!」
「だから黙れっての」
「な、何じゃ!?何が起こったのだ!?」
「あー、うるせぇ」
葵はアークの肩に担がれていたのだ。
「お、下ろせ!!私は平気じゃ!!」
「そんなふらふらな歩き方して何が平気だっての。いいから静かにしてろ」
「下〜ろ〜せ〜!!」
無茶苦茶に手を振り回すと、アークの頭を殴ってしまった。
「いってぇな!!何すんだよ!!」
「黙れ!!さっさと下ろさんか!!」
「部屋に着けばお望みどおり下ろしてやるよ」
「その前に下ろせ!!」
「嫌だね」
大声で騒ぎながら、アークと葵は騎士院へと入っていった。
「お〜ろ〜せ〜!!」




結局部屋まで運ばれ、葵はすっかり機嫌が悪くなってしまった。
そんな葵の様子を気にも留めず、アークは救急箱を開ける。
「おら、腕出せ」
「じ、自分でやる!!それに治癒魔法はかけた!!平気じゃ!!」
「あのなぁ、血ぃだらだら流してそういう事言うなっての。説得力ゼロ」
「う……」
「おら、腕出せって」
渋々ながらも葵は袖を捲り、腕を出す。
「うし、素直でよろしい。……って、凄い傷だな」
「そうか?」
故郷に居た頃はこのくらいの傷は毎日のように作っていた。そんなに凄いのだろうか?
「うっわ、肉見えてるし。ちょっと染みるけど、我慢しろよ」
「………っ」
その言葉通りに消毒液はよく染み、葵は声を押し殺し耐える。
アークは容赦無く消毒し続け、それが終わるとぐるぐると包帯を巻く。
「……ま、とりあえずこれでいいだろ」
「……すまぬ」
視線を落とし、そう一言呟く。
アークは何も答えず、大きく息を吐き出し、言う。
「……何があった」
言えない。
「何があった」
もう一度、今度は苛立たしげに。
葵は袴を強く握る。
言えない、言わない。
彼を巻き込むわけにはいかない。
「そんな傷作って、夜遅くまで帰ってこなくて、それで何もないなんて通用しないからな。……何があった」
それでも葵は何も答えず、それが余計にアークを苛立たせる。
そこまで葵が口をつぐむ理由。それが分からない。
ふと、彼女が以前口にしていたものの名前が蘇る。
以前は事あるごとにそれの行方を尋ね、必要だと語っていたもの。
だが最近は耳にしなくなったその名。
「……紅丸」
その名を口にした瞬間、明らかに葵の顔色が変わった。
大きく目を見開き、更に強く袴を握り締め、それでもアークと視線を合わせようとはしない。
「……見つかったのか、その刀が」
何故葵がその名を口にしなくなったのか。
それは、見つけたから?捜す必要が無くなったから?
「そう、なのか?」
「………」
葵は語らない。
その名も、その行方も語ろうとはしない。
自分もリュートも紅丸という刀を必死で捜したのに、葵は何も話してはくれない。
見つけたのならそう言ってくれればいいのに、それでも話してはくれない。
自分達は、そんな事も話せない仲だっただろうか?
少なくともアークはそうは思っていない。葵ともリュートとも友達のつもりだった。
だけど。
「……お前にとって」
低く絞り出すような声に、葵は困惑した表情で初めて視線を上げた。
「お前にとって俺たちは何なんだ?大切なものが見つかって、それを教えもしない、その程度の存在だったのか?」
葵は小さく口を開き、しかし結局は閉じ、そして、
「……すまぬ」
その言葉が耳に届き、アークは頭に血が昇る感覚を感じた。
拳を壁へと叩き込む。
「俺たちは」
一旦言葉を切り、葵の目を見つめる。
その瞳には脅えの光が宿っていたが、構わない。今の自分には、そんな事に構う余裕などない。
「俺たちは、そんなに頼りにならないか!?」
今度こそ、葵は何も答えなかった。アークも答えを待たなかった。
その沈黙こそが答えだと、気付いたから。
荒々しく扉を開け、部屋を出て行く。
葵はただ一人部屋へと取り残され、
「……すまぬ」
ぽつりと謝罪の言葉を口にした。



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