|
リズベールは貴族である。 正確には貴族であったという方が正しいかもしれない。家出をした自分は既に家とは無関係な人間だと、彼自身は思っている。 リズベールは貴族であった。だから、生まれてこの方酒場に足を踏み入れる機会などなかったのだ。 こんなに強い酒の匂いの漂う場所は生まれて初めてだ。顔をしかめる。 篭ったような空気、男達の下卑た笑い声、くたびれた壁も床も、リズベールの目にはこの上なく不衛生に映った。 けれどもこのカルス・バスティードにおいて、食事を摂れる施設はここにしかない。この町にいる限りここへは毎日のように足を運ばなければならないのだろう。リズベールは早くもこの町に来た事を後悔し始めていた。 この町に来たのは気まぐれからだった。家を出、行くあてもなく、どうしようかと考えあぐねた末に思い出したのがアスラ・ファエル・バスティード。おとぎ話のような遺跡に、無法者の巣窟と化した町。一度見てみるのも面白いかもしれないと。 ため息を吐く。こんな所、来るんじゃなかった。少なくともあと半年はこの町に滞在しなければならない。その間どう過ごせばいいのか、リズベールには見当もつかなかった。 しかし腹の虫は如何ともし難い。とりあえずは何か食べようと決め、どこか空いている席はないかと部屋を見回す。 そこに、思いがけないものを見た。 ワイングラスを片手に、女がカウンターに座っていた。 かなりの美人だとリズベールは思う。スタイルも抜群だ。男達の下卑た視線など気にも留めない様子で、気だるげに酒を飲んでいる。 なにより特徴的なのはその銀色の髪色だった。珍しい。 ……珍しいと、この町に来る途中に何度も思った。彼女は自分と同じ町へ来た新入りではなかったか。リズベールは人を覚えるのが苦手……というよりは、積極的に覚える気がなかった。けれどもリズベールは彼女を覚えている。あの銀髪はそれほど印象的だったのだ。 彼女の元へと向かう。酒臭い男の隣に座るより、彼女の隣の方がよっぽどマシだと思ったのだ。 「隣、いいか?」 切れ長の瞳がこちらを向く。冷めた目をした女だとリズベールは思う。 「空いているんだから勝手に座れば?あたしに許可を取る必要なんてないと思うけど」 「……そういうものか?」 酒場のマナーなどよく分からない。これから嫌でも覚えていく事になるのだろうが。 女は肩をすくめた。さも面倒くさそうに、 「さあ、あなたが必要だと思ったなら必要なんじゃない?いちいち確認するのもされるのも、あたしは御免だけど。……それと、ナンパはお断り。今は気分じゃないの」 リズベールは目を丸くし、次いで顔をしかめた。そんな風に取られるとは思っていなかったのだ。 「……そんなつもりで聞いたわけじゃない」 「あらそう」 それ以上、彼女は何も言わなかった。リズベールは少しだけ迷ったが、結局彼女の言う通り勝手に座る事にした。 酒場の主人――確かオイゲンとかいう名前だったか――に声をかけ……そこでリズベールの動きは止まった。 「おいどうした?注文ならさっさとしてくれ」 少し苛立ったような声。リズベールの動きは止まったまま。何を頼めばいいのか分からないのだ。 「パンと水を」 これならば確実にあるのではないか。ただそれだけの理由でリズベールは注文した。 オイゲンが出したパンは硬かった。本当にパンなのか疑うくらいに硬かった。そしてとてつもなく不味かった。この世のものかと疑うくらいに不味かった。庶民はいつもこんなものを食べているのだろうか。 吐き気を催しつつも、ごりごりと噛み砕く。ひたすらに噛み砕く。 「……美味しい?」 不意に彼女に尋ねられた。 「見れば分かるだろう、不味い」 横目で彼女を見ながら、吐き捨てるように告げた。 途端にオイゲンが憮然とした顔になる。けれども何も言わない。そう言われるのに慣れているのかもしれない。 「そうね、見れば分かるわ。あたしはイヴよ」 「は……?」 いきなりの名乗りにリズベールは驚いた。思わず彼女に向き直る。 「ここに来た理由は特にナシ、好きなモノはこれ」 そんなリズベールに構わず、ワイングラスを掲げる。 「趣味は……そうね、相手の感情を逆撫でして喜ぶことかしら。自己紹介はこれくらいでいい?」 「え、ああ」 ……先ほどの質問は自分の神経を逆撫でする為にしたのだろうか。疑問に思いつつも、口の中のものを飲み下す。不味い。 あちらが名乗ったのだからこちらも名乗るべきだろう。 「リズベールだ」 貴族である事は誰にも言うな。面談の時にオイゲンにそう言われた事を思い出し、苗字を名乗るのはやめておいた。……本当は名前の方が口にしたくないのだが。 「あなたルミニアの出?」 「……ああ」 何故分かったのだろう。不思議に思いながらも頷く。 「って事は貴族なのね」 ……即効でバレてしまった。 「何故分かった」 わざわざ否定する事もないだろうと、そう尋ねてみる。 イヴはつまらなそうにワイングラスを傾けている。 「ルミニア以外ではあまり聞かない名前だから。それにリズベールって名前は貴族しかつけないわ。普通は女につける名前だけどね」 その言葉を聞いた瞬間、頭に血が登った。目の前が白く染まる。 「……っ、女みたいな名前で悪かったな!」 気がつけば椅子から立ち上がり、そう叫んでいた。 激昂はいつも一瞬だ。一瞬が過ぎ去れば苦い後悔ばかりが胸に残る。 イヴの少し驚いたような顔が、オイゲンの何事かという声が、周囲の男の好奇の視線が、それを呼び起こす。 「……悪い」 謝罪しながら椅子に座りなおす。喉元が粘つくようだった。 「別にいいわ、気にしてないから」 イヴは本当にどうでもよさそうに酒を飲んでいる。 酷く居心地が悪く、リズベールは水を口に含んだ。 と、不意に肩を叩かれる。何事かと思いながらも振り返り、 「……っ」 いきなり頬に拳が叩き込まれた。口の中に血の味が広がる。たまらず咳き込み、涙目になりながらも殴った相手を確認する。 相手は屈強な男だった。顔に見覚えはない。誰だ。 「……いっ、いきなりなに」 「うるせぇ!」 自分の言葉など聞く気がないのだろう、男は酷く怒っているようだった。 リズベールは彼に何かをした覚えはない。何が起こっているのかさっぱり分からない。 胸倉を掴まれる。 「お前、貴族なんだろっ!?」 ……だからなんでそう簡単にバレるのだ。わけが分からない。 肯定するのは拙い気がするし、かと言って嘘を吐くのもどうかと思う。リズベールは黙り込む事にした。 「何とか言えぇっ!」 が、それが相手の気に障ったようだ。どうすべきかさっぱり見当がつかない。 「おいお前ら、喧嘩なら外でやれ。うるさくてたまらん」 呆れたようなオイゲンの声。どうせならこの男を止めてくれればいいのに、とリズベールは思う。 「親父は黙ってろ!」 男はやはりというか、オイゲンの言葉にも耳を貸さない。 腹に拳が叩き込まれる。目の前が白く霞む。まずい。 その時だった。 「そこまでにしておけ」 聞き覚えのある声がした。 一瞬、胸倉を掴まれていた力が弱まる。その隙をついて、リズベールは男の手から逃れる事に成功した。 「バ、バルデスの兄貴……」 狼狽したような男の声。リズベールが逃れた事にすら気付いていないようだ。 「そいつは新入りだ。勘弁してやれ」 「け、けどよぅ、兄貴、」 二人が会話を交わす間、リズベールは逃げ出すか留まるか迷っていた。 今が逃げ出すチャンスなのは分かる。 ただ、このまま無事に逃げ出せるかどうか自信がないし、逃げ出せば余計に恨みを買うのではないか。そんな考えから動く事が出来ないでいた。 と、不意にバルデスと視線が合った。 早く行け、とでも言いたげに顎で扉を示される。 頷き、走り出そうとし……そこでイヴの存在を思い出した。この場に残して行くのも気が引ける。 彼女が座っていた席を確認し……リズベールは目を瞬いた。 イヴの姿はなかった。店内を見渡すが、銀髪の女などどこにもいない。 ならばこれ以上この場に留まる理由もなくなった。リズベールは脱兎の如く逃げ出した。 宿舎に辿り着き、ベッドに倒れこむ。 そのままリズベール泥のように眠り込んだのだった 翌日。 目覚めたリズベールは痛む頬や腹を押さえながら宿舎を出た。 そこでばったりとバルデスと出会った。 「よう、新入り。昨日は災難だったな」 「……あんた」 「身体は痛むのか?」 しかめっ面で頷くリズベールを見、バルデスはそうかとだけ答えた。 「あいつも悪い奴じゃないんだが、貴族に嫌な思い出があるらしくてな。……あいつだけじゃなく、この町の人間は貴族に悪い感情を持っている奴が殆どだ。気をつけておけ」 それは、昨日オイゲンに言われたのと同じ意味合いの言葉だった。しかし、こうして身を持って体験した後に聞かされると緊張感が違う。渋い顔をし、頷いておく。 「……けど、どうして貴族だとバレたのかが分からない」 そう、それだけが不思議だった。 けれどバルデスはすぐに答えをくれた。 「ああ、イヴ……だったか。あいつとの会話が耳に飛び込んできたそうだ」 それは単純は答えだった。単純すぎて脱力してしまう。思わず手で顔を覆う。 「まあ、あまり落ち込むなよ。……というのも難しいかもしれんが、気にするな」 何を勘違いされたのか、そんな言葉を投げかけられてしまう。 手を顔から離し、しかめっ面をしてバルデスを見る。 「俺はあの時、あんたに助けてくれと頼んだ覚えはない」 リズベールが気にしていたとすればその事だけだった。 「ああ、俺が勝手にやった事だ。気にするな」 「……そう言われると余計に気になるが。……だが、一応礼は言っておく。ありがとう」 そう言うと、バルデスは考え込むような仕草をした。 「……礼を言うなら、俺よりイヴにした方がいいかもしれんぞ」 「は?」 それは想定外の言葉だった。間抜けな声が漏れ出てしまう。 「酒場で喧嘩が起こった事を知らせたのはあいつだからな。……いや、知らせたというわけでもないか……」 「いや、だから、どういう事なんだ?」 ぶつぶつと呟くバルデスに、リズベールは混乱しながらも尋ねる。 「え、ああ、すまん」 バルデスの話によると、昨夜バルデスは酒場に行くつもりはなかったらしい。 遺跡から帰還した彼は、そのまま朝まで宿舎で眠る予定だったらしいのだ。 その宿舎への帰路。イヴと出会った。 彼女は不意にバルデスに言ったらしい。 「酒場がうるさくてかなわないわ」 ……と。 バルデスが何かあったのかと尋ねるも、答える事なく彼女は去ったという。 「それが気になってな。あいつに会わなければ俺は酒場には行かなかったかもしれん」 バルデスと別れた後、リズベールは宿舎へと引き返した。 引き返してどうするつもりかなんて、考えていなかった。 しかし、扉を開けたその瞬間。 「……あら」 そこにイヴがいた。 驚いたなんてものではなかった。その場に立ち尽くしてしまう。 「ねぇ、どいてくれない?外に出られないんだけど」 彼女にそう言われ、はっとする。彼女が出られるように数歩下がる。 「……なあ」 イヴが自分の前を通り過ぎる瞬間、リズベールは声をかけた。 「なに?」 イヴの瞳がこちらを向く。それを見つめながらリズベールは言う。 「あいつ……バルデスに酒場の事を教えたのはお前だって聞いた」 「あら、あの人酒場へ行ったの?」 「ああ」 少しだけ首を傾げ、イヴは答える。 「別に教えたつもりはないわ。あたしはただ感想を言っただけだもの」 それを聞き、リズベールは考え込む。 感想。確かに感想だろう。酒場がうるさいと、ただそれだけの言葉なのだから。 しかし、何故わざわざバルデスに酒場の感想を言う必要があったのだろうか。 「ねぇ、早く行かせてくれないかしら」 「ああ、すまなかったな」 若干苛立ったようなイヴの言葉に、もう行っていいと言葉を続ける。 彼女が外に出るのを待ち、自分も宿舎に入ろうと歩を進める。 一度だけ振り返り、イヴの背を見つめる。 「……妙な女だ」 そう呟いてから、彼は扉を閉めた。 |