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議長の仕事は忙しいと思われがちだが、意外とそうでもない。 では暇なのかと問われれば、マリンは即座に首を横に振るだろう。 忙しくもなく、暇でもない。その理由は議会という制度に起因している。 とにかくムラが多いのだ。毎日毎時間決議を行う時期もあれば、ほぼ一日中書類と向き合っている時期もある。 具体的にどの時期に議会が集中していて、どの時期にデスクワークが集中しているのかという問いに答える事は出来ない。今日はデスクワークの日だなと思いながら出勤しても、朝から緊急議会があると伝えられる事はザラにあるのだ。 制定されたばかりの制度は不備も多く、従って自然とトラブルも多くなる。特に三年前、星読みによる統治を廃止したばかりの頃は、マリンも葵もアクアも、ほぼ毎日のように徹夜をしていたように思う。 しかし、あの頃から既に三年が過ぎたのだ。トラブルは徐々に減り、最近は予定通りに仕事を進められる日が多くなってきた。 マリンは書面から顔を上げると、小さく息を吐く。 窓の外に視線をやれば、夕焼けに染まる木々が見えた。今日も定時に帰れる事を知り、彼女は口許を綻ばせる。 身を包む議長服を脱ぎ去り、私服に着替えれば、そこに居るのは最早議長ではなかった。 どこからどう見ても、普通の街娘。この島に来た頃に散々からかわれた『田舎臭さ』も完全に抜けきってはおらず、とてもこの国のトップに立つ人物だとは思えなかった。 とはいえ『ただの村娘』にしか見えなかったあの頃に比べれば、『普通の街娘』になった分、少しは成長したのかもしれないが。 マリンは手早く帰り支度を終えると、最後に手鏡を覗き込んだ。手櫛で前髪を気持ち程度に整えると、ようやく部屋を後にした。 「マリン殿!」 「わあっ!?」 廊下に出た途端にかけられた声に、マリンは容易く驚いた。びくりと肩を震わせ、恐る恐る振り向く。 「ようやく会えた!いやぁ、ソロイ殿は相変わらず融通が利かない!おかげで部屋を抜け出すだけでこんなにも時間がかかってしまったよ!」 「シ、シリウス様っ!?」 ソロイの監視下で軟禁されている筈のシリウスが大きく腕を広げ、マリンの元へと駆け寄ってくる。彼女は思わず大きく瞳を見開いた。見開くしかなかった。 「へ、部屋を抜け出したって、大丈夫なんですか?」 「大丈夫じゃあないだろうねぇ。部屋に戻るのが怖い!今度こそ本当にソロイ殿に斬られてしまうかもしれない……」 額に手を当て大袈裟に嘆いてみせるシリウスであるが、マリンはその姿を笑えなかった。命を取るまではいかないにせよ、ソロイならば本当に斬りかねない事を知っているからだ。 「そこまで怖いのなら、どうして部屋を抜け出したりするんですか?大人しくしていれば、ソロイさんだって何もしないと思うんですけど……」 「で、一日中あの仏頂面と向き合っていろと?冗談じゃないよ!可愛い女の子ならばともかく、この私が何故あんな男とふたりきりで過ごさなければならないんだい?」 「ムサイシ、ツマラナイシ、ゴウモンダネ!」 何処からか取り出したパペット――名をボビーという――を手にはめて、シリウスは勝手な言い分をペラペラと喋り出す。 「あのぉ、ソロイさんだってお仕事がありますし、一日中シリウス様の監視をするつもりはないんじゃないんでしょうか」 「監視って……はっきり言うね、君」 「え、監視じゃないんですか?」 「いや、監視だけどね。どう言葉を変えても、アレは監視以外の何物でもないさ」 そうされるだけの事を、シリウスは過去にしたのだ。こうしてアロランディアに入国出来た事自体が奇跡と言っても過言ではないし、それは彼自身も理解しているが、だからと言って我慢が出来るほど彼は大人ではなかった。 どれほど歳を重ねても変わらぬ自分の幼児性に、シリウスは自嘲とも呆れともつかぬ微笑を浮かべた。 「確かに、君の言う通り、ソロイ殿には一日中私の監視をするつもりなんてないだろうね。だからこそ、こうして部屋を抜け出せたわけだし」 「ジョウシハユウノウデモ、ブカハムノーウ」 その言葉で、シリウスがどうやって部屋を抜け出したのか、マリンは理解出来た気がした。 要するに、ソロイはシリウスの監視を部下に任せ、一旦席を外したのだろう。それが命取りになったわけだ。 シリウスは王子は王子でも、騎士の階位を持っている。普段のふざけた言動からは想像もつかないが、強さもかなりのものだ。過去には「神童」と呼ばれたこの国の青年騎士を、徹底的に打ち負かした事もある(……もっともこれは、とてもフェアと呼べるような勝負ではなかったのだが)。 そんな彼を監視し、いざという時には押さえつける力を持った騎士が、そうそう居るとは思えない。 シリウスはソロイの代理を勤めた騎士を適当に痛めつけ、悠々と部屋を出てきたのだろう。 (アークさんか葵さんだったら、何とか出来たのかなぁ……) 史上最年少の白煙の騎士と、史上初の女性騎士であり、紫紺の騎士でもあるふたりの姿を脳裏に描きながら、マリンはぼんやりと思う。 アークは先に述べた「神童」と呼ばれ、シリウスに負かされた青年であるが、あの時よりも遙かに力をつけている。葵は力はアークよりも劣るが、なんといっても女性であるのが頼もしい。世の全ての女性を好み、敬うべき存在だと言ってはばからないシリウスにとっては、非常にやりにくい相手だろう。彼女にはシリウスお得意の色仕掛けも効かないだろうし、これほどの適任者もいないだろうに。 とはいえ、このふたりは忙しい身である。日々予定に追われ、葵に至っては副議長としての仕事もこなさなければならないのだ。その上シリウスの相手をするなんて、ボビーの言葉を借りるわけではないが、拷問以外の何物でもないだろう。 「そんな事よりマリン殿!」 「は、はい!?」 大きな声と共に、シリウスはマリンとの距離をずいっと詰めた。 マリンが緊張したように身構えるのは、シリウスが過去にアロランディアに滞在していた頃、毎日のようにこうして絡まれていたからだ。偽りの甘言を囁かれ、過剰なスキンシップを計られる。きっと彼は変わらず同じような態度で自分に接するのだろう――マリンがそう考えるのも、無理からぬ事であった。 「婚約おめでとう!」 「……は、はい?」 満面の笑みで告げられた言葉を、マリンは一瞬理解する事が出来なかった。 「婚約だよ。こ・ん・や・く。結婚式に出席して欲しいからリュートを帰国させろという手紙を出したのは君でしょう。忘れたのかい?」 「い、いえ、忘れてませんけど。ハイ」 リュート宛に出した手紙の返事が、何故かシリウスから届いた事も忘れていない。 「まったく、いつかは再び訪問したいと思ってはいたけれど、まさかこんなに早くに実現するとはなぁ。しかも、その理由が愛しのマイハニーの結婚式に出る為だなんて……」 「シツレン、ツライヨー。ハニー、ボクトノアマイヒビハワスレチャッタノー?」 「ボビーさんと『アマイヒビ』を送った事なんてありましたっけ?……というか、シリウス様!私はハニーでもシュガーでもありませんよっ」 「いーえ、君は私の愛しのシュガーさんですよ。……ああ、これが噂の婚約指輪ですね」 「ひゃあっ!?」 おもむろに手を握られ、マリンはあからさまに狼狽える。こんな場面を目撃されたら、あらぬ噂を立てられてしまうかもしれない。 他の男であれば、そんな噂を立てられない自信がマリンにはあった。それだけの人望を集めるだけの働きは自分なりにしてきたつもりだし、何よりも自分は婚約しているのだ。自分と彼の仲の良さを知る者であれば、無粋な憶測などしないでくれる筈だ。 けれど、相手がシリウスであれば話は別なのだ。 三年前、シリウスはこの国で大きな事件を起こした。幸いと言うべきか、その事件は未遂で終わることとなったのだが、もし完遂していれば取り返しのつかないことになっていただろう。 そして、その事件にはマリンも関わっていたのだ。 何をどう言い繕おうとその事実は消えないし、当時から神殿に勤めている者の中には「他国の王子にたぶらかされて大罪を犯した哀れな娘」として自分を見る者も少なくない。ソロイがシリウスを軟禁状態に置いているのも、そういった事情が多分に関係していた。また同じような事件を起こされるのは困るし、議長に妙な影響を与えられるのも困るとでも考えているのだろう。 「なるほどなるほど、なんとも不思議な石ですねぇ。今まで見てきたどんな宝石とも違う輝きを放っている」 それなのに、これである。 極限まで詰められた距離は、互いの息がかかりそうなほどだ。けれどもシリウスの視線は左手にはめた婚約指輪に注がれていて、マリンは言いようのない居心地の悪さを覚えた。シリウスは自分の立場を理解しているのだろうか、という疑問が彼女の頭に思い浮かぶのも、仕方のない事だろう。 「しかしこの色は君には似合わないなあ!」 「そ、そうですか〜?」 殊更に大きな声で告げられた言葉には、流石のマリンもむっとした。彼から贈られたこの世でたったひとつの指輪。それを似合わないと断じられるなんて、はっきり言って不愉快だった。 「君には寒色よりも暖色の方が似合う。赤とか、ピンクとか、オレンジとか」 「あ、そういう色は私も好きです」 「だろう?なのにどうしてこんな色を選んだのかなぁ、君の彼は。こういう色は、アクア殿とか葵殿の方が似合うだろうに。本当に見る目がない!」 「い、いいんですよ!これはこの色でいいんです!」 「どうして?」 「ブルーさんの色だからです!」 マリンの口から飛び出してきた見知らぬ名に、シリウスは瞳を細めた。 「なるほど、それが君の婚約者の名前ですか」 マリンの唇が「あ」の形に開く。別に悪い事なんて何ひとつ言っていないのに、とんでもない間違いを犯してしまった気になってくる。 それは、目の前のシリウスの顔が、恐ろしいほどの無表情に変化したからだろう。何故彼の名を口にしただけでこんな顔をするのか、マリンにはさっぱり理解出来ない。 しかしここで臆してしまえば負ける。具体的に何に負けるのかは分からないが、とにかく負ける。負けるのだ。 「そ、そうですよ?何かいけませんか?悪いんですか?ブルーさんって名前が気に入らないんですか?」 「いやいや、誰もそんな事は言ってないでしょう。暫く会わない内に被害妄想が激しくなったんじゃないかい?マリン殿」 「う……」 どうしてここで正論で攻めてくるのか。相も変わらず、シリウスという男は人の扱いに長けていると思う。 「いい大人がいたいけな女の子をいじめてる……。いーけないんだ、いけないんだー。ソーロイにいってやろー」 「これ、シリウス殿!このような廊下の真ん中で何をやっておるのだ!」 「あ、アクアさんに葵さん……!」 シリウスの真後ろから現れたふたりの姿に、マリンは心底安堵した。このふたり……特にアクアならば、シリウスをなんとかしてくれるかもしれない。 「こらこらアクア殿、冗談でもそんな事を言わないで下さいよ。私の寿命が縮まってしまうじゃないか」 「わたし、じょうだんなんか言ってないわ……。今みたことは、きっちりソロイにほうこくさせてもらうから」 「……マジですか?」 「マジ」 容赦のない言葉に、シリウスの顔が青ざめる。マリンの手がシリウスから解放され、彼女は慌てて彼との距離を取った。 「勘弁して下さいよ!部屋を抜け出したのもまずいのに、この事を報告されたら本当に殺されてしまうかもしれない!」 「シニタクナイヨー」 「……安心なさい。ボビーはわたしがひきとってあげるわ」 「私は!?」 「……おはかまいりは任せて」 「ノーーーーーーーーーー!!!!」 本気なのか冗談なのか。シリウスと対等に渡り合えるアクアは本当にすごいと、マリンは改めて思う。 「ほれ、マリン殿。今の内に逃げるといい」 ぼんやりとシリウスとアクアのやり取りを見つめているマリンに、葵はそっと耳打ちをする。 「え、でも……いいんですか?」 「ああ、良い良い。今日は久しぶりにブルー殿と一緒に帰れると言うておったではないか。貴重な機会を無駄にするでないぞ」 「あ……はい!」 マリンはぺこりとお辞儀をすると、見送るように手を振る葵に背を向け、走り出した。 「あ!マリン殿!私を置いて何処に行くんですか!?」 「シリウス殿、これ以上マリン殿の邪魔をするようであれば、私達にも考えがあるぞ」 「ちょうど新作まほうが完成したところなのよね……」 (アクアさん、葵さん、本当にありがとうございます……!) 物騒なやり取りを耳にしながら、マリンは心の中で感謝の気持ちを述べていた。 神殿から少しだけ離れた場所に、小さな丘がある。その丘を目指すマリンの目に、不意に青い何かが飛び込んできた。 マリンは確信する。根拠なんて何もなくて、見間違いという可能性だって十分にある。だって待ち合わせ場所はあの丘の上で、ここはまだ丘の途中で、ならばこんな場所に居る筈がなくて。 それでも彼女は口を開く。自分が彼を見間違う事なんてないと知っているから。 自分は、彼だけを求めてきたのだから。 「ブルーさーーーーん!!」 自分でも驚くほど大きな声は、『青』にも届いたようだった。少しだけ動いた『青』が人の形をしている事に、マリンは気付く。 間違いない、彼だ。 彼がこちらに向かって歩いてくる。 「マリン」 アロランディアを囲む海の色をそのまま宿したような髪と瞳。出会った頃と変わらぬ容姿。彼が己の名を呼んでくれる事が、本当に嬉しいと思うのだ。 マリンはより足を速め、あっという間に彼――ブルーの元に辿り着いた。 「あ、あの、遅れてすみ、すみまっ、げほっ」 全速力で走った所為か、言葉の途中で咳き込んでしまう。ブルーは心配そうにマリンの顔を覗き込むと、彼女の背をゆっくりと撫ではじめる。 「……大丈夫?」 「は、はい……っ。ご心配をおかけし、して、すみませ……っ、すみませんっ」 全く大丈夫ではなそうな声に、マリンは自分で自分が情けなくなる。 故郷の村に居た頃は、このくらいの距離を走っても息切れするような事なんてなかったのに。議会の仕事では体力を使わないし、すっかり身体が鈍ってしまったらしかった。 「焦らなくていいよ。息が整うまで、待ってるから」 優しい言葉に、マリンは何度も何度も頷く。深く息を吸い、吐く。 何度かそれを繰り返していく内に、マリンの呼吸は常のそれへと戻っていった。 「もう、大丈夫?」 「はい、今度こそ大丈夫です!心配をかけてしまってごめんなさい、ブルーさん」 ブルーはゆるゆると首を横に振る。 「僕も、今も時々そうなる事があるから。……『人』の身体って、本当に面倒だよね」 「ブルーさんは仕方ないですよ〜。まだ慣れてませんものね」 ブルーの素性を知らぬ者が聞けば不思議に思うであろう言葉に、マリンはごくごく自然な様子で言葉を返す。 「……でも、面倒な事ばかりじゃないですよね?楽しい事も、いっぱいあると思います」 「そうだね、マリンが作ってくれた料理を食べるのは、好きだな」 「えへへ、じゃあ今夜も張り切って作っちゃいますよ〜!ブルーさんは何が食べたいですか?」 「……そうだな、シチューとか」 「ホワイトですか?ビーフですか?」 「ホワイト」 「分かりました!じゃあ、帰りにミルク屋さんに寄って行きましょうね」 「うん。……はい」 ブルーはマリンに手を差し出す。少しだけ照れた様子を見せながらも、彼女は彼の手を取った。 マリンは時々不思議に思う事がある。彼とこうして手を握り合える今が本当に不思議で、夢を見ているのではないかと疑う事すらあるのだ。 ブルーと出会ったのは、本当に偶然だった。幼き頃、己に家族という存在が居ない事を知り、嘆いていたあの日。彼は自分の前に姿を現し、自分は彼の前に姿を現した。 彼は自分を助けてくれたが、決して慰めたりはしてくれなかった。逆に厳しい――けれどもとてもとても現実的な言葉を浴びせられた。 彼女自身も不思議に思うのだが――その時、マリンはブルーに恋をしたのだ。 それは多分、彼もまた孤独だったからだと思う。自分と同じように家族が居ない。それどころか名前すらもないと告げた、温度のない瞳。熱くもなく、冷たくもなく、全てを当たり前の事だと受け入れている、とても悲しい瞳が……自分のちっぽけな胸を締め付けた。 自分には家族が居ない。けれども神父様や、孤児院の仲間達が居てくれた。賑やかな日々を送る事が出来た。 けれども彼にはそれすらない。昔居た『大切な人』は何処かへ行ってしまい、今彼の側に居てくれる人は誰も居ない。 静かな海の底で、毎日をひとりで過ごしているのだ。 だから、自分がなりたいと思った。 家族にはなれないかもしれない。『大切な人』の代わりになるつもりもない。 それでも、彼の側に居たいと思った。 ひとりぼっちで居るよりも、ふたりで居た方が絶対に良い。そして、ふたりよりももっともっと大勢で居た方が孤独が紛れる事を、マリンは知っていた。 最初は私だけで会いに行って、もし仲良くなれたら、孤児院の皆にも会わせてみよう。そうして皆で過ごせば、ブルーさんも寂しくなくなるかもしれない――そう思いながら、マリンはブルーの元へと訪れようとしたが……一度として辿り着けた事はなかった。 幼い頃の、不思議な体験。いくら時を経ても、あの思い出が褪せる事はなかった。 ……恋心が消える事は、なかった。 いつか彼とまた会いたい。あの時助けてくれたお礼を言いたい。……また、言葉を交わしたい。 その願いは、アロランディア本島に来た事で叶うことになったのだ。 同時に知った彼の素性。彼がしようとしている事を知り、マリンは動揺した。悩み、苦しみ、それでも彼女の願いは変わらなかった。 そして今、彼は自分の手を握っている。 何かひとつでも道を違えていたら、今には辿り着けなかった。儚い夢まぼろしとして消えていたに違いない。 知らず、手を握る力を強くする。今が現実であると、信じたかった。 「……マリン」 「えっ、あ、な、なんですか?痛かったですか?」 そこまで強くしたつもりはなかったが、万が一という事もある。慌てて尋ねるも、ブルーは首を振る。 「ううん、違う。前髪、跳ねてるよ」 「えー!?」 慌てて手鏡を取り出し、確認してみると…… 「きゃー!?ほ、本当だー!」 ……見事なまでに跳ね上がっていた! 「あーん!神殿を出る時にちゃんと整えたのに〜!」 走ったのがまずかったのか、それともシリウスに掴まっている時に、何かの拍子で跳ね上がってしまったのか……どちらにせよ、ブルーに間抜けな姿を晒してしまった事に違いはない。マリンはしょんぼりと頭を垂れてしまった。 「どうしたの?……その前髪、そんなに気になるの?」 「そ、そりゃあ気になりますよ〜。……可愛くないですもん」 マリンの髪は全体的に軽く、ふわふわとした、いわゆる『猫っ毛』である。少し手入れを怠っただけで爆発してしまうこの髪を、彼女は昔から疎ましく思っていた。要するに、コンプレックスなのである。 「そうかな……。ぴょこぴょこしてて、可愛いと思うけど」 「そ、そうですか〜?」 可愛いという言葉は嬉しいが、それだけでは治まらないものもある。好きな人には、自分が一番可愛いと思う姿を見て欲しいのだ。 「にゃー」 「あ、クロ助さん」 いつの間にやって来たのか。やけにしゃがれた声で鳴きながら、黒いトラ猫がブルーの足にすり寄っていた。 「クロ助も可愛いって言っているよ」 「そ、そうかな〜。私には『間抜けすぎるにゃー』って言ってるように聞こえましたけど……」 「そう?」 「にゃー」 「ほら!『そうだにゃー、間抜けだにゃー』って言ってます」 「僕には『おぬしは可愛いのだから、そんな些細な事を気にするでない』って聞こえたよ」 「あはは!ブルーさんには、葵さんみたいな口調に聞こえるんですね」 「……え?ああ、言われてみればそうだね……」 「にゃーん」 ふたりの会話を理解しているのかいないのか……クロ助と呼ばれた猫はブルーの身体を登り、器用に肩に立ってしまう。 「クロ助さんも一緒に帰るんですか?もう町で遊ばなくても大丈夫ですか?満足ですか?」 「にゃー」 「満足したって」 「はい!私にもそう聞こえました!」 にこりと笑めば、ブルーも穏やかな笑顔を返してくれる。その笑顔を見るだけで、マリンはとても幸せな気持ちになれる。 「今日はホワイトシチューですよ。だから、クロ助さんには鶏肉をお裾分けしますね!勿論、調理前の新鮮なものです!」 「にゃー!」 「クロ助……あんまり興奮すると、落ちるよ?」 あの海の底。 暗く、ただ青い洞窟の中に居た、名前すらも持たない彼。 あの頃のような寂しさを宿した目をする事は、今はもう殆どない。 (いつか、全くしなくなってくれたら嬉しいんだけど) けれどきっと、それにはもう少しだけ時間がかかるのだろう。 彼に根付いた孤独は深く。 ……絶望は深く。 けれど、いつかその全てを取り除いてあげたい。 (他の誰でもない、私の手で) それが、あの頃の願いを叶えたマリンの、新たな願いだ。 だけど、今は。 (この前髪が元に戻る事が、一番の願いかな……) 無駄だと知りつつも、未練がましく手櫛でいじってしまうマリンなのだった。 |