M.Q.I 3話


 こうなる事は、分かっていたと思う。


 気が強くて口うるさくて、少し反論しようものなら手が出る足も出る。身を包む服も髪や瞳や肌の色もこの辺りでは全く見かけないもので、それは彼女が見た事も聞いた事もない国からやって来たからだと言う。
 その国の生活習慣はアロランディアとは全く違うものらしく、彼女はいつも些細な事で驚いたり、面倒な騒ぎを起こしたりしていた。
 自分にとって最も厄介だったのは、彼女が『恋愛』というものに全く興味を持っていない点にあった。
 いや、興味を持っていない、などという生やさしい言葉では足りない。彼女は『恋愛』というものと己を結びつけて考える事が、全く出来ないのだ。
 それは彼女が巫女だから、という理由らしいが、自分にはその理屈がさっぱり理解出来なかった。理解出来るのは、彼女がとんでもなく鈍いという事実だけだ。
 ……彼女が『恋』を、しかも自分にする事など、永遠に有り得ないという事実だけだ。
 それでも、自分は彼女が好きで。
 ……リュートも、彼女が好きで。
 だからこんな所まで来てしまった。
 気持ちを伝える気などなかった。アプローチは何度も何度もしてきたが、彼女がその真意に気付く事など有り得ないと思っていた。鈍い鈍いと不満を口にしながらも、彼女の鈍さに安心し、疼く恋心を抱えながら変わらぬ日々を望んでいた。
 今更ながらに気付く。


 ……気持ちを伝える事が、どうしようもなく怖かった。


 何故なら、こうなる事は分かっていたのだから。


「……友達では、いかんのか?」


 彼女に……葵に友達としてしか見られていないなんて――認めたくはなかったのだ。


「覚悟ってなんですか覚悟って!あ、アレですか?甘い抱擁に対する覚悟とかですか?」
 曲がり角の向こうから聞こえてきた不快な声に、アークは顔を引きつらせる。『あの男』が再びこの地に足を踏み入れた事はつい先ほど知ったばかりだが、まさかこんなに早くに遭遇するとは思っていなかった。
 触らぬ神に祟りなし。『あの男』に見つかる前にさっさとこの場を離れるべきだと、アークは判断した。身を翻し、退散しようと足を踏み出し、
「そのまま締め潰されても構わないのであれば、それも良いかもしれぬな」
(……って、おい!)
 続けて耳に飛び込んできた声に、アークは足を止めた。止めざるを得なかった。
「おお!葵殿も遂に私の愛を受け入れてくれる気になったのですね!」
「ダキシメテー、ソノママ、チュー!」
(冗っ談じゃない!)
 アークは顔を青くし、小走りで角を曲がる。その先には、整った顔を驚きに染めたふたつの声の主が居た。
「アーク?なんじゃ、おぬし今日は非番ではなかったのか?」
「ん?おお!アークじゃないですか!久しぶりだね!」
 即ち、葵とシリウスである。
「どーも、シリウス様。本当に入国なされていたのですね。貴方は二度とこの国の国境を跨げないと思っていたのですが……いやはや、我らが議長は本当にお優しい事で」
 苛立ちを隠しもせずに、アークは剣呑な目つきでシリウスを睨みつける。だというのに、当のシリウスは本当に楽しげな笑みを浮かべるのだ。ああどこまで腹の立つ男なのだろう。
「本当ですよねぇ。ここまで甘い処遇をする国を、私は他に知らない。許された身でこんな事を言うのはなんですが、おかしな国に付け込まれなければ良いのですが」
 どの口でそれを言うか、と返したくなる衝動を、アークは必死で押さえつける。本人が既に認めている事を繰り返せば、シリウスはすかさず反撃してくることを分かっていたからだ。
「これ、おぬしらマリン殿をそう馬鹿にするでないぞ。あやつはあれで物の道理というものを理解しておる。おぬしらの言う通り甘い部分がある事は否定せぬが、善悪を見抜く目も持っておるのだ、そんな心配はせずとも大丈夫じゃ」
「そうかぁ?そんなもんがあるのなら、三年前の事件なんて起こらなかったと思うけど?」
 議長の唯一の汚点を指摘すれば、葵も流石に返す言葉をなくしてしまったようだった。「そ、それは」だの「あれはマリン殿が優しすぎるから」だの、聞き取りづらい言葉をごにょごにょと口にしたかと思ったら、唐突にシリウスに鋭い視線を向けた。
「お、おぬしが悪いのじゃ!純粋なマリン殿をたぶらかしおって!」
「ええ、そうですね。それに関しては本当に悪かったと思っています」
「ゴメーン、ハンセイシテルヨー」
「先ほどからの言動を省みるに、全く反省しているようには思えぬぞ!アクア殿に蹴られ足りなかったのか?それとも本当にソロイ殿に斬られなければ理解出来ぬのか!?」
 ソロイ、という名が葵の口から飛び出した途端、アークは己の眉がぴくりと動いた事を自覚した。それを目撃したシリウスは、一瞬だけ意外そうな顔を作る。が、その顔はすぐに楽しげな笑顔に変わってしまった。
 ……まるで、新しいおもちゃを見つけた子供のような笑顔だった。
「おやぁ、葵殿はソロイ殿と随分親しいようですね」
「は?い、今の話の流れで一体何故そんな言葉が出てくるのだ!?おぬし、本当に反省しておらぬので、」
「いやいやいや隠さなくても良いのですよ!結構結構、私もね、貴方とソロイ殿はお似合いだと思っていたのですよ!マリン殿とアクア殿もあなた方の仲を応援していましたし、あんな仏頂面とこんなに素敵なレディがただならぬ仲になるなんて私としてはすこぶる残念に思う気持ちもありますが、そこに愛があるのなら私は応援しますよ!ま、何処かの騎士や私の部下は可哀想な事になるかもしれませんが、男にはそういう経験も必要ですしね!」
(こ、こいつ……っ)
 ぺらぺらぺらぺら、一気にまくし立てられる言葉に、アークは強く拳を握り締める。三年前に抱いた殺意が、胸の内に再びふつふつと沸き上がってくる。
 心底愉快そうな口調に腹が立つ。お前の心の内など全てお見通しだと言いたげな瞳が気に食わない。
 思わず剣の柄に手を伸ばしかけるが、寸でのところで思い留まる。ここでシリウスを斬ればすっきりとするかもしれないが、『あいつ』に迷惑をかける恐れがあるのだ。それは避けねばならなかった。
「……私が何ですか、シリウス様」
「うわあっ!?」
 ……アークが葛藤している間に、第四の人物がシリウスの背後から現れていた。
「なんじゃ、ソロイ殿か。相変わらず気配を感じさせぬ登場だのぅ」
 顔を綻ばせる葵の姿に、アークは自然と眉間に皺を寄せていた。しかしながら、今度はシリウスがその様子を目撃する事はなかった。
「昼に続いて再度部屋を抜け出すとは……お戯れが過ぎます、シリウス様」
「そ、そうだねぇ、過ぎてはいるが所詮は戯れ!だからそんなに怖い顔をする必要はないんじゃないかなソロイ殿!」
「ソンナカオシテタラ、オンナノコニモテナイヨー?」
「………」
「うわっ、無反応ですか。相当怒ってますね、これ」
「コワイヨー」
 シリウスもソロイも、互いの姿しか目に入っていないようだった。アクア辺りがこの場に居たら、「ふたりだけの世界ね……」などと揶揄しているかもしれない光景である。
「お部屋にお戻り下さい。従って頂けなければ斬ります」
「うわっ、はっきり言いましたね……。良いんですか?今のアロランディアには、ダリスとの衝突に費やしている時間などないように思いますが」
「その言葉、そっくりそのままお返しします。現王が即位して三年ほど経過したとはいえ、陛下はまだ幼くていらっしゃる。今貴方が死ねば、ダリスは混乱を極めるのではありませんか?」
「………」
「………」
 ふたりは暫し見つめ合う。張り巡らされた緊張感が、アークと葵の首筋をぴりぴりと焼いていた。
「……分かった、従いましょう。君の言う通り、私はまだ死ねませんからね」
「ご理解頂き感謝します。ではこちらへ。……少しでも妙な動きをされれば、私は迷いなく剣を抜きますよ」
「はいはい、そんなに脅かさなくても大丈夫。昼の一件もありましたからね、ちゃんと理解しているつもりですよ。暫くは大人しくしておいてあげましょう」
「ツマンナイケドネー」
「……それでは、失礼致しました。葵殿」
(あ、一応シリウス以外の人間も認識してたのか)
 その相手が葵である事に、アークは少しだけ苛立った。
「うむ、しっかりとシリウス殿を見張るのだぞ!またマリン殿に絡まれたらたまらぬからな!」
 ……彼女が笑顔で返答しているからこそ、尚更に。
「アーク」
「えっ、あ、俺っ?」
 低い声で名を呼ばれ、彼は慌てる。まさか自分も認識されているとは思わなかったのだ。
「つまらぬ些事に関わっている暇があるのなら、己の為すべき事を為せ」
「ちょっと!つまらぬ些事って私のことですか!?こんなにもビューティフルでワンダフォーな王子に向かって、なんて言い種ですか!」
「時間を無駄にするような真似はするな。以上だ」
 喚くシリウスを完全に無視しながら、ソロイは王子の首根っこを掴んで去って行った。
「……なんじゃありゃ。ちょっとシリウスと関わっただけでアレかよ。まぁ、あいつがつまらぬ些事ってのは同意するけどさ」
 首元をゆるめながら、アークは思わず愚痴っぽい言葉を零してしまう。疲れた。ものすごく疲れた。色々な意味で。
「まぁそう言うな、ソロイ殿はおぬしを評価しておるのだ。でなければ、あんな事をわざわざ言ったりはしまい。あやつは目のかけておらぬ者以外には、あんな言葉をかけたりはしないのじゃぞ?」
「……ふーん」
「なんじゃ、不満そうな顔をしおって。そんなにソロイ殿が気に食わぬのか?」
 当たり前だ、という言葉を飲み込んで、アークは別の言葉を舌先に上らせる。
「別に。ただ、やけにソロイ様の事に詳しいなーと思っただけ」
「詳しいも詳しくないもなかろう。顔を合わせる回数が多ければそれだけ相手の事を知る機会が多くなり、故に理解も深まるだけの話じゃ」
「じゃ、なにか?お前がこの国で一番理解してるのは俺って事になるのか?」
「は?」
「お前と一番多く顔を合わせてるのって、俺だと思うんだけど」
 葵は三年前、『日本』という国からアロランディアに流れ着いた。海辺で気を失っている彼女を発見したのは、アークともう一人の騎士であった。
 それから彼女は騎士院に保護され、毎日を彼らと過ごした。アークではないもう一人の騎士は島を出て行ってしまったので、なるほど確かにアークの言う通り、この島で葵と一番付き合いが長く、一番多く顔を合わせているのは、彼という事になる。
「……言われてみればそうじゃな。だが、私が一番理解している者はおぬしというわけでもない気がするぞ」
「なんじゃそりゃ。顔を合わせる機会が多ければ理解が深まるって言ったのは、お前の方じゃねぇか」
「何事にも例外というものはあろう?」
 それはアークが例外という事なのか。それとも、『葵が一番理解している人間』が例外なのか。
 問おうとした唇を、アークは無理矢理に閉ざす。そんな質問の答えなど知りたくなかったのだ。
「そんな事より、おぬし一体どうしたのだ?先ほども問うたが、今日は非番であろう?実家でゆっくり過ごすと聞いておったが、何故こんな所に居るのだ。何か用事でも出来たのか?」
 ……その言葉に、アークは己が何故神殿に来たのか、その本来の目的を思い出した。
「ああそうだな、ゆっくり過ごすつもりだったよ。けど、それも全部パーになった」
「なんじゃ?何があったのか早く言うが良い。勿体ぶるでない」
 相変わらずの偉そうな口振りに、アークは内心苦笑した。彼女と共に三年の月日を過ごしたからこそ慣れたものの、出会ったばかりの頃は、この口調に随分と苛立ったものだ。
「あいつが来た」
「あいつ?」
 わざと個人名を出さずに答えれば、葵は怪訝そうに眉根を寄せた。が、それも一瞬の事だった。
「……ああ、リュートか」
 葵の口から出てきたかつての親友の名前に、アークは驚かなかった。それが正解であった事も理由の一端だったが、大部分は別の理由が占めている。
「……お前、やっぱ知ってたんだな」
「何をじゃ?」
「あいつが帰ってくる事をだよ!」
「うわっ」
 アークは思わず葵の肩を掴んでいた。予想していた事であるからこそ、彼女がリュートの名を出した事に腹が立つ。何故今の今までその名を口にしなかったのか。
「あのな、知ってたのならちゃんと教えろよ!俺がどれだけ驚いたのか、お前分かってんのか!?心臓止まるかと思ったんだぞ!」
 本当に、心の準備なんて何もしていなかったのだ。三年前に島を去ったかつての親友。大陸の連中に騙され、多くの人間を傷つけた男。
 ……何年もの時をかけ、己のこの手で数え切れないほどの傷を刻んでいた、幼なじみ。
 二度と会えない覚悟をしていた。それでもいつか、自分が大人になれば会いに来てくれるかもしれない。そう考えて、この三年はひらすらに真面目に過ごした。周囲の反感を買わないように口を慎み、訓練も毎日行って、慣れない勉強もたくさんして、出世もして、史上最年少の白煙の騎士になった。『元』星の娘候補の少女達には、まるで別人のように真面目になったと驚かれた。
 それでも足りないと思っていた。リュートに会うには、もっともっと偉くならないといけないと信じていた。地位だけの話ではない。心を磨いて、誰からも尊敬されるような人間にならなければ、彼には会えないと思っていたのだ。
 ……思っていたのに、リュートは何の前触れもなく自分の前に現れた。仰天するなと言う方が無理な状況だった。
「知ってたらさ、もっとマシな格好で応対してたぜ絶対に!昼寝中の馬鹿みてーな格好であいつに会っちまったじゃねーか!」
「こ、これこれ、そう興奮するでない。おぬしとリュートの仲ではないか。どんな格好であろうと関係なかろう?」
「ある!三年ぶりだぞ!?それがあんな、寝癖も直さないままで……!」
 これまでの努力など全く伝わらなかったであろう己の姿を思い、アークは頭を抱えた。
「一生の不覚だ……!」
「なんじゃ、そこまで後悔しているという事は、リュートに笑われでもしたのか?あやつも肝が据わっているというか、なんと言うか……」
「んなわけあるかっ!」
 そんな事をする男であれば、アークはリュートの為にここまでの努力を重ねなかったのに。それを葵も分かっていない筈がないのだが、彼女の言葉が本気なのかボケているのか、アークには判断出来なかった。
「俺の心の問題だっての!分かんねーのかな、この俺の繊細な心がさ!」
「分からぬなぁ」
「っとにこの女は〜……!」
 アークは大きく息を吐くと、葵の肩から手をどける。これ以上何を言おうが彼女に自分の気持ちは伝わらないと、匙を投げてしまったのだ。
「それで、リュートとは何を話したのじゃ?」
「何って……色々だよ」
「その色々の内容を訊いているのではないか。積もる話もあったのであろう?夜が更けるまで共に居れば良かったのに、何故おぬしはこんな場所におるのだ。話の途中で誰かに用事でも言付けられたのか?気の利かん奴もいたものだな」
「………」
 どうやら葵は、アークがやむにやまれぬ事情でリュートと別れ、神殿にやって来たのだと思い込んでいるらしい。
 だが、実際は彼女の想像とはかけ離れていた。
 アークは思い出す。玄関を開けた途端に飛び込んできたリュートの顔。彼が紡ぐ謝罪の言葉。共に向かったテニスコート。共に追いかけたテニスボール。汗に濡れた身体を拭うタオルの感触。食道を伝うジュースの冷たさ。
 そして、驚きに彩られたリュートの顔を。


「葵さんに振られた!?」
 馬鹿でかい声で告げられた言葉に、アークはあからさまに顔をしかめた。何もそんな大きな声で言わなくとも、この距離ならばきちんと耳に届くのに。
「え、嘘でしょ!?なんで!?僕は君達はとっくの昔に結ばれたものだと思ってたのに、振られた!?」
「嫌味かよ」
「なんで僕が嫌味なんて言わないといけないんだよ!特にこの件に関しては、そんな事を言える立場じゃないって、ちゃんと分かってるよ」
「あ、そ」
 言葉少なに返事をすると、アークはジュースの瓶に口をつけようとする。
 が、リュートの手がにゅっと伸びてきて、瓶の口を握られてしまった。
「あ、おい何すんだよ!飲めねーじゃん!」
「そうだね、飲めなくしたんだから」
 アークは憤慨したが、リュートは全く悪びれる様子がなかった。
「ね、本当にどういう事なの?君と葵さんは好きあってたんじゃなかったの?」
 リュート自身にそのつもりがなくとも、その言葉はアークにとっては本当に嫌味にしか聞こえない。無様に振られた自分に対する、最上級の。
「あのな、お前の目にどういう風に映ってたかは知らないが、俺はともかく、あいつの方にはそんな気持ちなんて全くなかったの。だから振られた。それだけの話だよ」
 思い出したくもない。リュートと決別したあの日の事。情けない姿でベッドに転がり、壊れた関係を完膚なきまでに砕こうとした、あの日の自分の思考。
 ……僅かな期待を粉々に叩き潰した、葵の返事。
 生まれてはじめて、心底から欲しいと願った女が発した残酷な言葉が、彼の脳裏に蘇ってしまう。
 苦々しい表情を作るアークの顔を見ながら、リュートは呆気に取られたように口を開いていた。
「お前、すげー間抜け面晒してるぞ」
「え、いや、だって……アークが認めるとは思わなかったから」
「はぁ?振られた事実を認めないなんて、そんなだっせーことをこの俺がするわけないだろ」
「いや、そっちじゃなくて。君が葵さんの事を好きだってことをさ」
「………」
 アークを思わず黙り込む。なるほど、「俺はともかくあいつは違うという」という言葉は、自分が彼女へ恋心を抱いていた事を認めるものだ。リュートの前で……というか葵以外の人間の前で彼女への気持ちを言葉にしたのは、これが初めてかもしれなかった。
「……ひとつだけ間違ってるけどな」
「え、何が?」
「俺はあいつを好きな事を認めたじゃない。好き『だった』ことを認めたんだ」
 ……そう、過去形だ。
 未練がましい事はしないと、彼女自身にも告げた。手に入らないものに焦がれ続けるほど惨めな事はないと、アークは知っていた。過去アークと付き合った女性の中には、そうした惨めな姿を晒し、彼に付き纏う者が少なくなかった。そんな姿を見るにつけ、あんな風にはなるまいと己を戒めてきたのだ。
「……もう、諦めたって事?」
「……ああ」
 アークは強く瓶を握り締める。
 諦める。諦めた。『友達』でいられるよう、最大限の努力をした。騎士院内で葵の姿を見かける度に、明るい笑顔を作って話しかけた。彼女が騎士試験を受けると聞いた時には、傾向と対策を叩き込んでやった。彼女に食事に誘われる度に、無駄な期待をするなと言い聞かせた。
「……それ、嘘でしょ」
「………」
 アークは何も答えない。答えられない。
 諦める。諦めた。『友達』でいられるよう、最大限の努力をした。騎士院内で葵の姿を見かける度に、明るい笑顔を作って話しかけた。彼女が騎士試験を受けると聞いた時には、傾向と対策を叩き込んでやった。彼女に食事に誘われる度に、無駄な期待をするなと言い聞かせた。
 ……それでも、彼女が笑う度に。
 彼女の声を聞く度に。彼女の髪を見る度に。彼女の手に触れる度に。
 己の努力が無に帰していく事を、確かに感じていた。
 未練がましい事はしないと、彼女自身にも告げたのに。手に入らないものに焦がれ続ける事ほど惨めなことはないと、知っていたのに。
 どうしても消え去らないのだ。
 騎士院内を歩く度に葵の姿を探していた。明るい笑顔を作る度に、胸の何処かが痛むのを自覚していた。騎士試験を受ける彼女に傾向と対策を叩き込んでやったのは、他の誰かに教えを乞う姿を見るのが嫌だったからだ。彼女に食事に誘われる度に無駄な期待をするなと言い聞かせたのは――まだ、彼女に恋をしているからだ。
 リュートに嘘は吐けない事を、アークは痛感していた。本当に、幼馴染というものは厄介だ。こちらの心の内など全て見通されてしまっている。
 けれど。……けれど。
「……どうしようもないだろ」
「え?何が?」
「こっちがどう思っていたって、向こうにその気がなけりゃどうしようもない」
 そう、恋愛はひとりでするものではない。何より大事なのは互いの思いが一致することだ。そうして初めて幸せを手に入れる事が出来るのだから。
「……俺は、振られたんだ」
 ……彼女に友情以上の感情を抱かせる事が、自分には出来なかった。
 それが唯一であり、絶対の真実だった。
 アークは知っている。己が葵を手に入れられない事を、友達以上の関係になれない事を、嫌と言うほどに――思い知っているのだ。
「……そっか」
 リュートの手が瓶から離れる。初夏の風はまだ少しだけ涼やかで、熱を湛えた身体を冷やしてくれる。
「……じゃあ、僕にもまだチャンスはあるのかな」
「はあ!?」
 アークは目を見張る。驚きのあまり瓶を落としそうになる。隣に座るリュートの目は空に向けられており、こちらを見ようとはしていない。遠い瞳に、アークは何故だか眩暈を覚えた。
「僕は君と葵さんが好きあってると思ってたから、彼女を諦めようとしたんだ。でも、そうじゃないのなら挑戦する価値はあるよね」
 横顔から伺えるリュートの表情は何処までも真面目なもので、冗談を言っている気配は少しもなかった。
「お、お前な!あんなじゃじゃ馬娘の何処がいいんだよ!?やめとけって、絶対後悔するぞ!」
「じゃじゃ馬でもなんでも、僕は葵さんが好きだし」
 三年前のリュートならば絶対に口にしなかったであろう言葉を、今の彼はいとも簡単に口にする。
「君に遠慮なんかして、真っ向から勝負しようとせずに……僕は取り返しのつかない過ちを犯した。だから、今度は絶対にそんな事はしないよ。今度こそ、自分の気持ちを葵さんに伝えてみせる」
 唖然とするアークに向き直り、リュートは晴れやかで伸びやかな、それはそれは見事な笑みを浮かべた。
「君も、心にもない事を言うのはやめた方がいいよ」
 アークは最早言葉もなかった。先ほどのリュートを笑えない顔で、立ち上がる幼馴染を見上げる事しか出来なかった。
「じゃ、僕はこれで。お互い頑張ろうね、アーク」
 リュートが立ち去った後も、アークはその場から動く事が出来なかった。


 アークは知る。三年前に最悪の結果をもたらした三角関係。三人が三人とも苦い思いを抱え、後悔を抱えながら過ごした日々。
 あの日々が、未だに終わりを迎えてはいなかった事を。


「どうした、アーク。ぼーっとして」
 長く艶やかな髪。騎士として仕事をこなす時以外は常に身に纏っている異国の服。整った顔立ち。日野平葵という、ひとりの女。
 彼女に会う為に、アークは神殿へとやって来たのだ。
 今日は一日のんびりする予定だった実家から騎士院へとって返し、汗にまみれた私服から騎士の制服にわざわざ着替え、用事など何もないのに神殿に赴き、葵の姿を探していた。
 その理由は明白だ。
(リュートの言葉に、焦ったから)
 未練がましい以外の言葉が見つからない。ださくて惨めで格好悪い事この上ない行動をしていると、自分でも分かっていた。
「なんでもねーよ」
 だからアークは何も言わない。お前を探しに来たのだと。未だにお前を諦めきれていないから、リュートに取られたくない……そんな言葉は、絶対に口にしない。
「それよりお前、仕事はもう終わったのか?」
「ん?ああ、そうじゃな、もう少しだけかかりそうかの」
「後どれくらいで終わりそうなんだ?」
「そうさの、2時間もあれば片付けられると思うぞ」
「分かった。それまで待ってるから、一緒に帰ろうぜ」
 アークが提案すれば、葵は目を丸くした。
「なんじゃ、おぬし今日は実家に泊まるのではなかったのか?久々に羽が伸ばせると言って、随分と楽しみにしておったではないか」
「そのつもりだったけど、気が変わった。泊まるのは止めだ」
「何故じゃ?お父上かお母上と喧嘩でもしたのか?」
「ちげーよ」
「では何故じゃ」
(俺の居ない間にお前とリュートが接触するのが嫌だから)
 ……などと正直に言えるわけもない。
「なんとなくだよ、なんとなく。いいからお前、さっさと仕事片付けろよ。2時間以上は待てねーぞ」
 だからアークはそう言って、葵の背を軽く叩いた。
 葵は怪訝そうな表情をしていたが、アークがこれ以上何も言う気がない事を察したのか、それとも今は彼の話を聞くよりも仕事をするべきだと判断したのか……そのどちらが理由であるのかは定かではないが、とりあえずは頷いてくれた。
「2時間以上かかるようであれば、ひとりで帰るが良い。おぬしにぐちぐち文句を言われるのは御免じゃからな」
「ああ、分かってるよ」
 去りゆく背中を見送りながら、アークは盛大なため息を吐く。今日は精神的に疲れる日だった。
 いきなりリュートが現れて、葵が好きだとはっきりと言われて、シリウスなんぞと話す葵を目撃して、嬉しそうにソロイと話す葵も目撃して……。
(厄日なのか吉日なのか、よく分かんねーな)
 全体的に見れば前者だったと思うが、リュートと再び会えた事に限って言えば後者である。彼と遊べたのも嬉しかったが、しかし明日からの日々を思えば否が応にも気分が重くなってしまう。
 リュートに葵を取られたくない。
 いや、彼に限らず、他のどんな男であろうと葵を取られたくはない。
 けれど、再び葵に告白する勇気も持てない。ほぼ毎日彼女と顔を突き合わせているからこそ理解出来る事もあり、それがアークの行動を制限させていた。
 ……葵は、心の底から、自分の事をただの友人だとしか思っていないのだ。
 そんな状態で告白をしても、あの日の再現になるだけだ。そうなればいっそ諦めもつくのかもしれないが、しかしどうしても躊躇してしまう。またあんな言葉を投げかけられたら、再起不能になってしまうかもしれない。
(本っ当、情けねーよなぁ……)
 己が第三者の立場であれば、はっきりしろ、男らしく行動してみせろと怒鳴りつけていると思う。ぐだぐだと悩み続けても活路など切り開けない事は、自分でも分かっているのだが。
 アークは再度ため息を吐くと、風に当たる為に神殿の外へと向かいはじめた。
(……何時間だって待ってやるよ。考える事は、いくらだって出来そうだからな)
 橙色に染まる夕空が、やけに目に沁みた。

もどろ 帰ろ 進も