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故郷を忘れた事は、一度たりともない。 アロランディアとは比べものにならないほどに暗い海。控え目な色を湛えながら咲き誇る花々。木造の家々。四季が巡る度に様々な姿を見せる山々。 ……日本という、国。 忘れた事はない。彼の国はいつもこの胸に在り、けれども月日が経つほどに思い出す頻度が少なくなっている事も確かだ。 『今』が続けば、その頻度は更に少なくなっていくのか。 ……あの風景を思い出せなくなる日が、いつか来るのか。 帰りたい、と思う。 帰れない、と思う。 帰る方法は既に失われてしまった。紅の式はもはや永遠にこの手に戻りはしないだろう。 ……彼の国で民を守る為に磨いた力も、二度とこの手に戻る事はない気がする。 アロランディアは好きだ。友人も大勢出来たし、生きる術も手に入れた。鮮やかで美しいこの国を、愛おしいと思っている。 ……それでも、違うのだ。 この国は己が生きるべき国ではない。その思いは未だに消え去ってはいない。 使命から逃げる事は、絶対に許されないのだから。 「ソロイ殿」 「はい」 呼びかければ、いつも通りの仏頂面が葵に向けられる。彼女は苦笑すると、騎士服の袖を捲り上げた。 「そう不服そうな顔をするな、これはおぬしにとって必要な事じゃ。諦めて大人しく受け入れるのだな」 「……この顔は生まれつきです。別に不服には思っておりません」 「……そうか?」 前者の言葉も後者の言葉も、葵には信じ難いものだった。しかし彼女はそれ以上は何も言わず、懐に手を入れた。 こんな事で押し問答している場合ではない。葵もソロイも忙しい身なのだから、こんな事はさっさと終わらせるべきなのだ。 葵は懐から小刀を取り出すと、躊躇する事なく自らの腕に刃を走らせた。盛り上がる血の玉を、ソロイが鋭い目つきで凝視する。 (……まったく、いざ目の前にするとこれじゃ。ギリギリになるまで我慢せずに、早めに言ってくれれば良いのになぁ) 葵は腕を上げ、ソロイの目の前に掲げて見せた。 「ほれ、はよう済ませろ」 「……申し訳ありません」 「謝罪は要らぬ。このような事、故郷に居た頃は毎日行っておったわ」 「……そうですか」 こんなやり取りをしている間も、ソロイの視線は血に向けられ続けている。 (……本当に、こんな所は全く変わっておらぬのだがな) 故郷で掴まれていたものよりも大きく、ゴツゴツとした手の平が葵の手首を捕らえる。かさついた唇が腕に寄せられ、 「……っ」 ……傷を舐める、舌の感触。 いや、正確に言えばソロイが舐めているのは傷ではない。 血だ。 巫女の力が宿る日野平の血を、彼は求めていた。 一心不乱に血を貪るソロイの姿を、葵はぼんやりと眺める。黒い髪。浅黒い肌。鍛え上げられた肉体。 その全てが、葵の知る『彼』の姿とはかけ離れている。『人』以外の何者でもない容貌を、今更のように不思議に思う。 けれど葵は知っている。ソロイの額に『彼』と同じ傷跡が残っている事を。 ……その本質が、『魔』以外の何物でもない事を。 かつて葵が故郷で暮らしていた頃、彼女の側には一体の式の姿があった。 過去人を殺し、人を食らっていた妖。遠い昔、日野平の巫女によって刀に封じられた、紅の化け物。 規格外の強さを誇り、常に人を小馬鹿にしたような態度を取っていたその式は、名を『紅丸』といった。 紅丸は千の妖を屠るまで日野平の為に戦い続ける契約を結び、彼らの守り手となったのだ。 とは言っても、所詮妖は妖だ。日野平がひと時でも気を抜けば、彼は躊躇う事なく巫女の身を食らっていたに違いない。 先祖代々受け継がれてきたその刀は、いつしか日野平の長……即ち頭領姫の証となっていた。 そして、今代の頭領姫は日野平葵であった。 人を守る為に、葵は紅丸と共に戦い続けた。紅丸の同類を殺し続けた。 けれども葵と紅丸の運命は決する事となった。アロランディアという名の、神の国で。 突如目の前に現れた『渦』に飲み込まれ、気付かぬ内に異国に流れ着いていた葵の手には、紅丸が封じられたあの小刀の姿がなかった。幾度名を呼ぼうと燃えるようなあの赤い髪の持ち主は目の前に現れてはくれず、更にあれだけ磨きに磨いていた巫女の力も全く使う事が出来なくなっており、彼女は途方に暮れるしかなかった。 アークやリュート、マリンやアクアをはじめとした島の人間の助けを受けながら、葵は新たな力を得ようと努力した。紅丸の行方を探し続けた。 ……そして、その先に待っていたのが、ソロイ・ブラーエだったのだ。 ソロイは過去……プルートが生まれて間もない頃に、プルートの先代の星読みであり、彼の父であるカロンの取り計らいによって神殿に勤める事となった。『人』としてプルートを守る使命を与えられたのだ。 けれどもカロンは知っていた。彼が『人』ではない事を。 人知を越えた力を操る、紅の化け物である事を。 知っていながら……否、知っていたからこそ、彼はプルートの守り手に『化け物』を選んだ。それがアロランディアを救う道なのだと信じながら、全てを『化け物』に託したのだ。 ソロイは己が『化け物』である事を忘れ、『人』に擬態し、生き続けた。人を食らわず、日野平の血も摂取しないままに。 そのまま時は流れ、ある日突然『日野平』が再びソロイの目の前に現れた。 長い時間を隔ててふたりが辿り着いた、アロランディアという国。『人』として生きてきたソロイは忌まわしき『日野平』を疎んだ。他者に対して苛烈な対応をしがちなソロイであったが、葵に対しては殊更に厳しい態度で接したのだ。 それはおそらく、『日野平』の血によって自らに眠る『化け物』が目覚める事を恐れていたからだろう。 ……『人』であり続けたかったからなのだろう。 けれども結局、ソロイは知る事となった。 自らの出自を。己の本当の名前を。 ……『紅丸』という名の『化け物』が、かつての自分であった事を。 そして今、ソロイは葵の血を貪っている。 いくら人に擬態しようと、彼の本質は『妖』だ。人を食らうか、日野平の血を摂取せねば生きてはいけない。事実、何年もの時を『人』として過ごし、葵と再会したソロイは、その逞しい外見とは裏腹に衰弱しきっていた。 だからこそ葵は『紅丸』を取り戻し、彼と共に故郷に帰る手掛かりを得る事を望んだ。 このまま彼を放置しておけば、そう遠くない未来にその命は潰えてしまう。それどころか血に飢えた『魔』としての本能が目覚め、取り返しのつかない惨劇を引き起こす可能性すらもあった。ふたつの可能性を潰す為に、葵は紅丸が封じられた小刀を持つ者――プルートに対し、返却を願い出た。 けれどもプルートはそれを跳ね退けた。小刀は自分のものだと主張し、『ソロイ』はこの国に必要な『人間』なのだと訴えた。彼が居なくなれば、アロランディアは滅びを迎えるだろう、と。 ……そしてソロイは、プルートの望みを叶える事を選んだ。 『紅丸』の名を捨て、『ソロイ・ブラーエ』として生き続ける事を選んだのだ。 葵はその選択を受け入れた。 悲しくなかった……などと言ってしまえば嘘になる。紅丸を取り戻せば巫女の力も蘇り、故郷に帰る手段も分かるだろうと固く信じていた。それが永遠に叶わなくなってしまったのだ。絶望にも似た虚無感を覚えた事も認めよう。 それでも、それが『彼』の願いであるのならば……受け入れるしかないと思った。 それが、長きに渡り日野平を守り続けてくれた『彼』に対しての礼なのだと。 ……長きに渡り『彼』を縛り続けてきた日野平としての贖罪なのだと信じて。 けれどたったひとつ。葵はソロイに対して条件を突きつけた。 日野平の血を定期的に摂取しろ、と。 そうしなければ『彼』は生きてはいけない。『紅丸』としても『ソロイ』としても。『ソロイ』やプルートが嫌がるであろう事を承知しながら、それでも彼女はこの条件だけは譲らなかったのだ。 結局ソロイとプルートが折れ、『今』がある。 腕を這う舌の感触は、やはり紅丸のものとは僅かに感触が違う気がする。その事実に、葵は少なからず寂しさを覚えた。 日野平の当主となった時に先代からはじめて教わった事は、傷が残らないように自らの腕を傷つける方法だった。 ……紅丸に血を与える為に必要な事だと言われたことを、よく覚えている。 紅丸は鋭い牙を持っている。わざわざ自分で傷をつけなくとも、奴の手を借りれば出血させる事は十分可能なのに、何故こんな事をせねばならないのか――そんな疑問をぶつければ、先代は厳しい目で葵を見た。 ……そんな事をさせれば、奴は際限なく血を求めるだろう。そう言いながら。 その言葉の意味を、葵はすぐに知る事となった。 はじめて紅丸に血を与えた時、彼はこちらの様子を伺いながら、傷口に歯を立てようとしたのだ。すぐさま異変を察し腕を引いて難を逃れれば、紅丸は酷薄な笑みを浮かべ、言った。 「なんじゃ、つまらん。戯れに痛めつけてやろうとしたのに、すぐに気付きおったか」 紅丸。式。魔。妖。 彼が人とは違う存在である事に、はじめて気付いた瞬間だった。 けれど今目の前に居る『彼』はあくまでも舌を這わせるだけで、それ以外の事は何もしてこなかった。歯を立てるなど、想像すらもしていないのかもしれない。 (……こやつは紅丸ではない) 思い知る。誰よりも葵の側に居た紅丸という名の妖は、最早この世の何処にも存在してはいないのだ。 彼について残っているものといえば、今もプルートが手にしている紅の小刀と、己の頭に眠る記憶と、ソロイに見出す僅かな面影だけであろう。 (……日本を知る者は、最早私だけしか残っていない) 葵はそっと瞳を伏せる。 何よりも愛する土地。何よりも愛すべき人々。それらに対する思いを共有出来る者はこの国の何処を探しても見つからないのだろうし、これから先自分の目の前に現れる事もないのだろう。 帰りたい、と思う。 帰れない、と思う。 いくら望んでも叶う事はない。場所すらも分からぬ国に、どうして帰る事が出来るのだろう。ブルーですらも知らない国に、どうやって。 葵は時々怖くなる。故郷の事を思う度に、抗いようのない恐怖に襲われるのだ。 何よりも恐ろしいのは、この思いを共有出来る者が存在しない事実ではない。いつかの未来、己が抱くかもしれない思いが心底から恐ろしかった。 ……帰れなくとも構わない。 いつか自分は、そう思うのかもしれない。 アークやリュート、それにマリンやアクア。ヨハンにユニシスにプルートにシリウスにブルー。 ソロイ・ブラーエ。 この島で出会った人々は、多かれ少なかれ葵の心に影響を与えた。長い間離れていた者も居るが、今は全員がこの島に揃っている。 ……全員が、葵をひとりの『人間』として扱ってくれた。 それを心地良いと感じている自分が恐ろしい。『巫女』として扱われないという事は、『巫女』としての自分が消え去るという事なのに。 ……16年の間、己が歩んできた道のりを消し去るという事なのに。 『巫女』でなくなった自分に残るものは何なのだろう。この3年、アロランディアの住人として生きた自分は、一体何を残せたのだろう。 (……何も残せてはいまい) 自分はずっと、アロランディアに溶け込もうとはしていなかった。いつか去る国、いつか別れねばならない人々と親しくなっても意味はない。そんな事をすれば別れが辛くなるだけだ……そう思い、必要以上に深入りする事を避けてきた。 仕事の時以外はいつも身に纏っている巫女服は、その思いの表明のようなものだった。アークやリュート、マリンやアクアに連れられて服屋を訪れた事もあったが、この国の服を購入した事は一度だってなかった。 ……この国に染まる事が、本当に恐ろしかった。 だからきっと、帰れなくとも構わない――いつか本当にそう思う時が来たとしたら、残るものは何もないに違いなかった。 ……それが本当に、心の底から恐ろしいと思う。 生きる指針が欲しい。使命が欲しい。自分にしか出来ない事がしたい。 それをこの国で求めれば、『巫女』の自分を捨て去る事になる。求めなければ、これから先どれだけ時が経とうと『巫女』以外の自分は残らない。 葵は岐路に立っていた。『巫女』を捨てるか、『巫女』以外の存在意義を見つけるか。 それは『日本』を捨てるか、『日本』を思い続けるかのニ択でもある。 (……私には、選べぬよ) 帰りたい、と思う。 帰れない、と思う。 (……帰れなくとも構わないとは、思いたくない) 「葵殿」 呼び声にはっとし、葵は顔を上げる。 ソロイの唇は既に腕から離れ、手首も解放されていた。いつの間にかソロイの『食事』は終了していたようだった。 「……もう、良いのか?」 「ええ。……申し訳ありませんでした」 「だから、謝罪はいらぬと申したであろう?」 葵は思わず苦笑した。ソロイの顔に浮かんでいるのは謝罪の意志ではない。嫌悪にも等しい、不快そうな感情だ。 「やはりまだ血の味には慣れぬか?」 「……慣れる者などいないと思いますが」 「……そうじゃな。『人』であれば、そうなのだろうな」 伏せ目がちに呟いた言葉に、ソロイの眉がぴくりと反応した。 「私は人です」 「ああ、分かっておる。すまぬな、失言じゃった」 そう、人だ。ソロイは人として生きてきた。『紅丸』を捨てても残っているものはたくさんある。 仕事も、使命も、守るべき者――プルートも。 それが少しだけ羨ましいと、葵は思う。自分も記憶を失えば、『巫女』以外の自分を残す事が出来るのだろうか。迷う事などなくなるのだろうか。 (……失いたいとは、思わぬがな) ……日本の記憶を、ずっと保ち続けていたいと思うから。 だから葵は笑みを浮かべる。自らの恐怖を打ち消すように、ソロイに対し精一杯に微笑みかける。 「では、用も済んだ事だし、私はもう行くぞ」 「ええ。お疲れ様でした」 ……例えば。 ここに居るのが紅丸であれば、もう少しだけ言葉を交わしてくれただろうか。意地悪な笑みを湛えながら、迂遠な言葉で自分を引き留めてくれただろうか。 (……詮無い事じゃ。こんな事を考えても無意味だというのに) 葵は小さく頭を振ると、部屋を後にした。 「葵さーん!」 廊下を歩いていると、懐かしい声に名を呼ばれた。声の主が誰であるのか半ば以上確信しながら、葵は振り返る。 「あ、やっぱり葵さんだ!久しぶり!」 「リュート!」 肩口まで伸びた茶の髪。葡萄酒の色を宿した瞳に、人好きのする笑みを浮かべた口許。 かつて海辺で気を失っていた自分を発見してくれた人物が、こちらに向かって駆けてきていた。 「ほんに久しぶりじゃのう!ようやくおぬしの顔が見られて嬉しいぞ!」 「僕もだよ!お互い忙しくて、なかなか時間が取れなかったものね」 リュートが島に戻ってきて二週間ほど経つが、葵は今この瞬間まで彼に会う事が出来ていなかった。暇を持て余しているシリウスとは嫌と言うほど遭遇するし、リュートに会わせろと直談判した事もあるのだが、あちらにはそうするつもりは全くないようだった。のらりくらりと言い逃れ、果ては『リュートに会わせて欲しいのなら、私とデートして下さい!』などと言い出してくる始末であった(勿論、この条件は拳と共に丁重にお断りさせて頂いた)。 「おぬし、毎日のようにシリウス殿に無理難題を突きつけられているらしいな。あまりに無茶苦茶な事を言うようであれば、一発殴ってやるが良いぞ」 「う、うーん……そうしたいのは山々なんだけど、流石に出来ないよ。一応僕の上司だし、王族の方でもあるしね」 「なんじゃ、弱気だのぉ」 「葵さんが強気すぎるだけだと思うけど。……そういう所、変わってないね」 「……そうか?」 その顔に僅かな郷愁を宿しながら、リュートは大きく頷いた。 「……アークとは、上手くやってる?」 「うん?上手くというか、接し方は三年前と比べてもさして変わってはおらぬぞ。出会ったばかりの頃のように、本気で喧嘩をする事はなくなったが」 言い争いはしょっちゅうしてはいるが、あれは殆どじゃれあいのようなものだ。この国で出会った人間の中で一番付き合いが長い分、アークの言動には良くも悪くも慣れてしまった。彼に対して本気で怒りを覚える事など、ニ、三ヶ月に一回くらいだ。 が、リュートは葵の言葉に、困ったような笑顔を浮かべてしまった。 「……えーと、僕が聞きたいのは、そういう事じゃないんだけどな」 「うん?ではどういう事じゃ?」 全く意図が読めずに尋ね返せば、リュートは困ったよう笑みをますます深めてしまった。 「……葵さんさ、」 「うむ」 「アークを振ったって聞いたんだけど」 「……うむ?」 葵は沈黙する。 振った。ふった。フッタ。 言葉の意味がさっぱり理解出来ない。振った、という事はつまり、アークの身体をぶんぶんと振り回したとか、そういう意味なのだろうか。 「……私はアークを振ってなどおらぬぞ?」 「え!?いや、でもアークが……」 「アーク?アークがそう言ったのか?」 「う、うん……」 リュートの返答に、葵は眉間に皺を寄せた。 アークはふざけた男ではあるが、なんだかんだで根は真っ直ぐな男でもある。正義に対しては誠実な人間である事も知っているし、リュートが島を去ってからは見違えるほど真面目になった。 だというのに、こんなわけの分からない嘘を、よりにもよってリュートに吹き込んだのか。曲がりなりにも信頼を寄せていた人間に裏切られた気がして、葵は少しばかり腹が立った。 「私にはあやつの身体を振り回すほどの筋力などない。そこまでの強さは得られておらぬからな」 「は……?」 「うむ?」 リュートはぽかりと口を開けて絶句してしまった。不可解な反応に、葵の眉間の皺は数を増やす。 もしかすると、リュートは自分にアークを振り回すほどの力がない事に驚いているのかもしれない。だとすれば彼は自分に絶大なる評価を下してくれている事になり、その評価を裏切ってしまった事に少しばかりの罪悪感が募った。 (しかし、嘘を吐くわけにもいかぬからなぁ。どれだけ酷であろうと、真実以外を口にする事は出来ぬ) ……それが出来なかったからこそ、アークとリュートの仲はあそこまでこじれてしまったのだ。葵は元々素直で正直な性質であったが、彼らの一件以来は余計にその傾向が強くなっていた。 「あー……そっか。そういう意味に解釈するのか。……葵さん、相変わらず天然だね」 「な、なんじゃ?私は何かおかしな事を言ってしまったのか?」 「うん、すっごくおかしな事を言ったよ」 「な、なんと!」 葵は仰天した。この国に染まる事は怖かったが、常識くらいは会得せねばと積極的に勉強してきたのに、どうやらまたズレた事を言ってしまったらしい。自分が情けなくて恥ずかしくて、顔から火が出そうだった。 そんな葵の様子に、リュートは眩しそうに瞳を細める。 「要するにね、アークの告白に対して、拒絶の返事をしたんでしょう?……って聞いたんだ」 「……こくはく?」 「うん、告白」 その言葉の意味は理解出来る。告白。秘した事柄を伝える事。 しかしながら、葵にはアークの『告白』を拒絶した覚えなど全くなかった。というより、そもそも…… 「……私はアークに『告白』された事などないぞ」 「え」 リュートはまたしてもぽかりと口を開けて絶句してしまった。先ほどと同じ反応に、葵の眉間の皺は増えたりしない。 「アークに隠し事を告白された事など、一度だってない。そもそもあやつは隠し事が少ない男だしな、言いたい事があればさっさと言ってくると思うぞ」 「………」 リュートは何も答えない。先ほどよりも長い沈黙に、葵は戸惑いを覚えた。 「おい、リュート?どうかしたのか?」 「はあぁ〜〜〜……」 額に手を当てながらこぼされた、大きくて長いため息。色濃い疲労の色が滲んだそれに、葵は「リュートは相当疲れておるのだなぁ」などと思う。 「まさかとは思っていたけど、本っ当に認識されてなかったのか……アーク……不憫すぎる……」 「は?」 誰が何を認識せずにアークの何が不憫なのか。葵に理解出来る事など何ひとつなく、顔いっぱいに疑問符を浮かべる事しか出来ない。 「……葵さん、鈍すぎるよ……」 「に、鈍い?そんな事はないと思うが……反射神経には自信があるぞ」 「いや、僕が言ってるのはそういう事じゃなくてね……」 「では、どういう事なのじゃ?」 問えばリュートはもう一度、先ほどと同じ大きさのため息を吐いた。 「……うん、でもちょっと安心したかも。葵さん、本当に全然変わってないんだね」 「それは成長しておらぬという事か?」 「ある一点においては、そうかもね」 「むぅ……」 ある一点、というのが具体的にどの一点であるのかは分からないが、成長出来ていないと指摘されたのは若干心外であった。 (……とは言っても、この国に染まらず、何も為そうとしなかったのは私自身であるしなぁ……) それがリュートの評価に繋がっているのなら、いた仕方のない事なのかもしれない。 「葵さん、今から時間ある?」 気を取り直すように告げられた提案に、葵は今日の予定に思いを巡らせる。 「……今は無理じゃな。夕方くらいになれば、身体が空くと思うが」 「うん、なら僕も大丈夫だと思う。晩ご飯、一緒に食べない?」 「おお、良いのぅ!積もる話もある事だし、存分に語り明かそうではないか!」 笑顔で快諾した葵に、リュートもまた嬉しそうな笑みを浮かべた。 「うん!……あ、でもアークには内緒でね」 「ん?何故じゃ?あやつも誘えば良いではないか」 三人で食事を共にすれば、三年前の気持ちが蘇るかもしれない。いつもいつも一緒に居て、つまらない事で喧嘩したり、笑い合ったりしていたあの頃の気持ちが。それは葵にとって歓迎すべき事であり、早急に思い出したい事でもあった。それはリュートも同じだろうと思っていたのだが、意外にも彼は困ったような顔を作ってしまった。 「うーん……でもほら、あいつ忙しいでしょ?なんだかすごい出世しちゃったみたいだし」 「ああ。私にはよく分からぬが、すごいらしいな。史上最年少の白煙の騎士、らしいからな」 「本当、すごいよね。もっと早くに本気を出してくれていれば、僕もあんなに悩まなかったのになぁ……」 ぼやくような呟きに、葵の顔が険しくなる。 「これ。そんな事はおぬしが言って良い事ではないと思うぞ。……動機はどうであれ、おぬしはやってはならぬ事をしたのじゃ。アークを責めるような事は、言うべきではない」 「あ……うん、ごめんね」 咎めるような言葉に、リュートは沈痛な面持ちで葵に頭を下げた。 彼だって己の犯した罪がどれほど大きなものであるか、理解しているのだろう。それでもあんな発言をしてしまったのは、久しぶりに葵に会った事で気分が高揚してしまったか、はたまたその逆で気が抜けてしまったのか……葵には判断がつかなかった。 「私に謝られても困るな。……まぁでも、おぬしの気持ちも分からぬでもないぞ」 「……そう?」 顔を上げ、尋ねるリュートに、葵は大きく頷いて見せる。 「本気を出し、真面目に過ごせば『史上最年少』などという大層な事を成し遂げられる能力を持っていたとは、出会った頃のアークからは想像もつかなかった。けれどおぬしはその能力をきちんと見抜き、あやつに真面目にやれと注意し続けていた。それを無視して怠け続けるあやつの姿を見続けておれば、腹が立つのも当然じゃ。おぬしの気持ちは察するに余りあるわ」 「葵さん……」 アークとリュートと過ごす内に、葵もアークの『天才』ぶりが理解出来るようになっていた。しかし、まさかこれほどとは思っていなかったのだ。この島でアークの才能を誰よりも見抜いていたのは、リュートに他ならなかったのだろう。あの頃はリュートの行動が少しも理解出来なかったが、今は僅かではあるが理解出来るような気がした。 「だからと言って、おぬしの行いを擁護するつもりもないが」 「うん、分かってる。……ありがとう、葵さん」 「感謝されるような事を言った覚えはないが」 「ううん、言ってくれたよ。ありがとう」 「……そうか」 なんだかよく分からなかったが、リュートが感謝したいのならばその気持ちは大人しく受け取っておくべきだと思った。 「それじゃあ、用事が済んだら広場で待ち合わせってことで」 「ああ、了解じゃ」 「楽しみだなぁ。葵さんとふたりっきりで食事をするなんて、あの時の釣り以来だよ」 「ああ、そういえばそうじゃったな……」 あの頃はいつもアークとリュートと一緒に居たので、どちらか一方とふたりきりになる機会はとても少なかった。リュートが言う『あの時の釣り』も、本来ならば三人で行く予定だったのだが、土壇場になってアークが欠席したのである。 ……懐かしい思い出だ。あの頃の葵は『日本に帰る事が出来る』と、本気で信じていた。 「じゃあ、僕もう行くね。また後でね」 「ああ。また後で、じゃな」 リュートが手を振りながら去って行く。それを見送ると、葵もまた足を踏み出した。 本来ならば居るべきではない国。やるべき必要のない仕事をこなす為に。 |