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魔法院の朝は早い……というわけでもない。 魔導士はその殆どが研究者気質であり、故に己の気が済むまで研究に打ち込む者が多い。己の気が済むまで、という事は、要するに時間を全く気にしない、という事でもあるわけで、家庭を持つ主婦やまだ小さな子供は例外であるが、魔法院では昼夜を問わず妙な音が響いているのが常なのだった。 そして、主婦や子供以外の例外がユニシス・ハーシェルである。 現在彼は魔法院院長であるアクアから院長職務の全てを押しつけられている。彼の元には連日のように人が訪れ、やれ意見を聞かせろやれ書類に判を押せなど、様々な言葉を喚き立てる。 ユニシスは自身の育ての親であり、初代院長であるヨハン・ハーシェルに助けを求めた事もあるのだが、彼は典型的な魔導士であり、つまりは研究者気質の人間である。昼夜逆転の生活を送る彼の助力を得る事は物理的に不可能であった。 今までアクアがサボっていた分、ユニシスがこなさなければならない仕事の量はすさまじいものになっていた。毎日毎日激務を追われながら、しかし彼は院長代理の仕事を放り出したりはしない。元々責任感が強い彼は、例え押しつけられたものであろうと最後までやり遂げなければ気が済まないらしかった。アクアへの呪詛を呟き続けながら、ユニシスは過剰に働き続けているのだ。 が、よせばいいのに、ユニシスは本来ならば院長がこなす必要のない仕事までをも進んで行っていた。掃除に炊事、洗濯に至るまで、家事の一切を取り仕切っているのだ。 大多数の魔導士が研究者気質という事は、つまり生活能力に問題がある者が多いという事でもある。ユニシスは彼らの事を『先生みたいな奴ら』を呼んでいる。 部屋を全く片付けない着たきりスズメ、声をかけなければ平気で何日も食事をとらない……そんな不健康な輩が大多数を占める現状を思えば、ユニシスのように率先して家事を行う者は絶対に必要だ。しかしながらそれがユニシスである必要がないのも事実である。一部の魔導士達は彼の身体を心配し、「家事は自分達に任せて休む時間を作ってくれ」と進言する事もあるのだが、本人はその言葉を聞くつもりが全くないようだった。 だからユニシスは今日も魔法院を駆け回る。秒刻みで詰め込まれたスケジュールを消化する為、全力を尽くすのだ。 「おいそこ!火の通りが甘い!半分以上生焼けだぞ!もっと火力上げろ」 「す、すみません!」 魔法院の台所。広さに対して調理をする人数が多すぎるその場所に、ユニシスの怒声が響く。怒鳴りつけられた魔導士は、慌てた様子で風の魔法を発動させ、炎の威力を上げた。 ユニシスは手慣れた様子でジャガイモの皮を剥きながら、魔導士達の調理に目を光らせる。その表情はどことなく不機嫌そうであった。 それもその筈。普段食事の準備を手伝ってくれている主婦達が、今日に限って軒並み休んでいるのである。今この場に居る魔導士達の殆どが、包丁すらも握った事のない初心者ばかりなのだ。危なっかしい手つきで調理を続ける魔導士達を見つめながら、ユニシスは大きなため息を吐いた。 (……こりゃ、今日の飯の味は期待出来ないな……) 手伝って貰えるだけありがたくはあるのだが、それはあくまでユニシス個人の感情だ。手伝いもせずに食べるだけの者達は、好き勝手に文句を言ってくるに違いない。 例えば、アクアとか。 (あいつは散々ケチをつけた挙げ句に、自分に作らせろー、とか言ってくるんだろうな……) アクアの趣味は料理である。が、その腕前は下手の横好きと言う他になく、ユニシスをはじめとした魔導士達に全面的に禁止を言い渡されていたりする。 しかしながら本人に禁を守るつもりは全くないらしく、暇さえあれば台所に侵入し、ユニシスが購入してきた食材を勝手に切り刻み、煮たり焼いたり蒸したりして灰塵に変えていた。その度にアクアとユニシスは激しい喧嘩を繰り返すのだが……まぁ、それは今は横に置いておこう。 少しだけ先の憂鬱な未来を思い、ユニシスは再び大きくため息を吐くのだった。 「あ、あの……ユニシスさん?」 「……ん?」 呼び声に顔を上げれば、まだ年若い少女がこちらを覗き込んでいた。 「リーシャか、どうした?」 「あ、えっと、その……ぼーっとしていらしたから、どうしたのかなって思って……」 視線を逸らしながら返された答えに、ユニシスは渋い顔を作る。 リーシャという名のこの少女は、最近魔法院に通いはじめた見習い魔導士である。アクアに憧れて魔法院の門を叩いたという彼女は、少し臆病な面があるもののとても素直な性格をしており、加えて魔法を勉強する姿勢も真面目そのもので、なかなかに好感を持てる娘だった。 が、彼女は未だに呪文のひとつも覚えていない。その理由は才能がないとか魔力が足りないとか、そういった根本的な問題があるわけではなく、ただ単に勉強する時間がないだけなのだ。 では何故勉強する時間がないのかと問われれば、ユニシスはこう答えるしかない。 (……俺の所為、なんだよなぁ) 素直で真面目なリーシャは、毎日毎日忙しく走り回るユニシスの姿を気にかけていたらしい。他の魔導士達にその理由を聞いた彼女は、ある日から家事を手伝い始めたのだ。 見習いは魔法を勉強するのが仕事であるし、お前が手伝う必要はないと断った事もあるのだが、何故か普段家事を手伝ってくれている主婦達の大ブーイングがまき起こってしまった。わけも分からぬまま、ユニシスはなし崩し的にリーシャの手伝いを受け入れるしかなくなってしまったのだ。 自分の所為で魔法の修得が遅れている相手に、つまらない心配までかけてしまった。その事実が申し訳なくて情けなくて、ユニシスは渋い顔をしたのである。 「あ、あの……ごめんなさい、余計な心配でしたね……」 「え?」 リーシャは暗い顔で俯いてしまった。どうやらユニシスが渋い顔を作った理由を、彼女の言葉を迷惑に感じたからだと思ってしまったらしい。 「や、別に迷惑なんかじゃないって。こっちこそ、ぼーっとしてて悪かったな。ちゃんと集中して作業するよ」 「い、いえ、そんな……」 リーシャは大きな鍋をお玉でぐるぐるとかき混ぜる。その頬が僅かに赤く染まっている事に、ユニシスは最後まで気付く事はなかった。 昼食の調理が終わると、ユニシスは院長代理の仕事をこなす為に自室へと戻ろうとしていた。大きく腕を振りながら肩を鳴らし、これからの予定に思いを巡らせる。 「あ、あの!」 その背にかけられた声に、ユニシスは顔だけを振り返らせた。 そこには、顔を真っ赤に染めたリーシャが立っていた。 「どうした?なんかあったか?」 調理は終えたし、掃除か洗濯を行う前に何か問題が起きたのだろうか。そう思い声をかけてみるも、返事はない。リーシャは何も言わず、自らの胸に手を当てていた。 「リーシャ?どっか具合でも悪いのか?」 そういえば随分と顔が赤いし、熱でもあるのかもしれない。もしそうであるのならば、早く帰宅した方がいい。リーシャが抜けるのは家事的に考えれば大打撃だが、彼女の健康を第一に考えるべきだろう。 が、リーシャは泣きそうな顔をしてふるふると首を横に振った。 ユニシスは困惑する。彼女の顔は変わらず赤いままだし、明らかに様子がおかしいのだ。こちらに気を遣って嘘を吐いているのかもしれない。 「あの!あの……あの、あのっ」 「リーシャ?」 やはり熱があるのかと思い、ユニシスはようやく身体を反転させた。一歩足を踏み出し、リーシャに近付こうとした瞬間。 「好きですっ!!」 ユニシス・ハーシェル17歳。 人生で初めて告白された瞬間であった。 「……ど、どうすりゃいいんだ……」 その日の夜。 ユニシスは自室で頭を抱えていた。整った顔を悲痛に歪め、掠れた声で嘆いている。 告白。秘めた事柄を相手に伝えること。 秘めた事柄とは、昨今では『恋心』を示すことが多い。告白=愛の告白と見なされるのが一般的であろう。 そして、本日ユニシスは初めて『告白』されたのである。 その瞬間の事を思い出すだけで、ユニシスの顔は赤くなる。今の自分のように……いや、おそらくはそれ以上に赤く染まっていた少女の頬。決意と羞恥に満ちた表情。震える声。 好きという、言葉。 はじめ、ユニシスは一体何を言われているのか理解出来なかった。リーシャの口から出てきたその言葉を正しく認識する為に、暫しの時間を要したのである。 (……だ、だって、あんなトーンで言われたの、初めてだったし……) 知識としては知っていたが、今まで聞いた事のなかった『好き』。小さな子供や、ヨハンから告げられる言葉とは違う感情が込められたそれが、ユニシスを混乱に陥れた。 何も答えを返せずにいると、リーシャの顔が歪んでいった。つぶらな瞳には僅かに涙が浮かび上がり、眉尻は悲しげに下げられ、唇は強く引き結ばれる。 ――泣いてしまう。 ユニシスは咄嗟に口を開く。何か、何かを言わなければ彼女を傷つけてしまうと思ったら、自然と声が出ていたのだ。 「あ、ありがとうっ」 「あ……」 リーシャの口許が綻んだ瞬間、ユニシスはしまったと思った。心底幸福そうな笑みを見れば、彼女が自分の言葉をどう解釈したのか、分かりたくなくても理解してしまったから。 「ち、違うんだっ」 「え?」 目を丸くするリーシャから視線を逸らし、ユニシスは言葉を続ける。 「い、今のは違うっ。その、今のは返事とか、そういうのじゃなくて、」 今、リーシャはどんな顔をしているのだろう。確認してしまったが最後、それ以上何も言えなくなる気がして、ユニシスはただ口を動かし続けた。 「だからな、ちょ、ちょっと時間が欲しいっていうか、あの、考えさせてくれ!」 「………」 リーシャの答えはない。視線を上げたくて、彼女の様子を確認したくて、けれど実際にそうする事がとても恐ろしくて、ユニシスは床を見つめながら彼女の答えを待つしかなかった。 やがて。 「……はい」 ……静かに返された言葉は、涙に濡れていたように思う。 「待ってます。ずっと」 彼女の顔を見る勇気は、最後まで持てなかった。 「どうすりゃいいんだ……」 ユニシスは再度同じ言葉を呟くと、机に突っ伏してしまった。 リーシャはずっと待つと言ってくれた。しかし出来るだけ早く返事をしないとまずいと思う。そうしないと彼女に無駄な心労を与えてしまうだろうし、こちらの心だってどんどん疲弊してゆく気がした。 だが返事をするという事は答えを出すという事であり、答えを出すという事は自分の彼女への思いを見極める必要があるわけで。 (……思いって何だよ……) ユニシスはまずそこから躓いていた。 リーシャは自分が好きだ。友情でも親愛でもなく、恋愛的な意味で彼女に好かれている。 (……恋愛的な好きって、どんな『好き』だよ……) 分からない。 知識としては知ってはいるが、ユニシスは恋愛というものをした事がなかった。異性を(人によっては同性を)特別に好きになる事。それは知っているが、具体的にどんな感情なのかはさっぱり分からない。 それは彼が『アンヘル種族』である事が多分に関係しているのかもしれない。性を持たずに生まれ落ち、思春期を目安にして性別が分かたれる、神秘の種族。その特異性から『ヒト』からは好奇の目で見られ、見せ物や奴隷として働かされる事も少なくない。 ユニシスもまた、かつては見せ物小屋に捕らえられていた過去がある。ヨハンに助け出され、彼に付き従うように『外』の世界に出てからも、奇異の目で見られる事は日常茶飯時だった。 それは、彼に『アンヘル』という種を恨ませるに足る視線であったのだろう。 整いすぎた容姿も、蜂蜜のようだと形容される髪も、宝石よりも美しい輝きを放っていると言われる瞳も、ユニシスにとっては忌むべきものだった。そんなものがなければ自分はもっとマシな人生を歩めていた……そう思うのも無理からぬ事なのだろう。 そして、アンヘルの子供の最大の特徴は、中性である事にあった。 将来どちらの性になるつもりなのか。どんな風に分化するのか。見知らぬ他人にそんな質問を投げかけられる事は多々あったし、その度にユニシスはうんざりとしていた。 故に彼は思ったのだ。 絶対に、ヨハン先生以外の人を好きになったりはしない――と。 自分を助け出し、はじめて優しくしてくれたひと。彼以外の人間を好きになる事はないし、彼以外の人間を求めたりはしない。そう自分に誓った。 (……あの頃は、どっちかというと男よりも女になりたかったんだよな……) その理由はとても単純なもので、『女になれば先生とずっと一緒にいられる』と思っていたからだ。 男に分化すれば、いつか先生の元を巣立って、独り立ちしなければならない時がくる。でも、女に分化すれば、そんな事をしないで済む可能性があるのだ。 女になれば、先生と結婚出来る可能性が生まれるのだから。 (……でも、それが恋愛感情だったのかって聞かれると……微妙だよなぁ……) ヨハンの事が好きだったし、今でも大好きだ。だが、それはあくまでも『親愛』の類なのだと思う。 彼と結婚したいと思ったのだって、別に彼に恋をしていたからではない。それが彼と離れずに済む唯一の方法だったからだ。 (ってか、そこまで真剣に結婚したいと思ってたわけでもないしなぁ……) 本当にヨハンに恋をしていたのであれば、多分『俺』なんて一人称は使っていなかったと思う。もっと大人しくして、己を少しでも良い子に見せようとしていたのではないだろうか。ヨハンに恋愛対象として見て貰えるよう、女の子らしくなろうと努力していた筈なのだ。 けれど自分はそうしなかった。粗雑な言葉を使って周囲の人間を威嚇し、薄汚れた格好を好んでいた。 結局のところ自分は、雛鳥が人間を親だと思い込み、ひたすらに後に着いて離れないように、ヨハンという『親』から離れたくなかっただけなのだと思う。 だからユニシスには分からない。リーシャの気持ちも。自分のリーシャへの気持ちも。 (……リーシャは、良い子だよな) 働き者だし、素直だし。少し臆病な面もあるものの、それだって見る人が見れば可愛らしく、守ってあげたい『オンナノコらしさ』として映るのだろう。 では、自分は彼女が好きなのか。恋愛感情を抱いているのか。 (……多分、違うと思う) 彼女の事は好意的には思っているが、それが恋愛感情に繋がる気持ちだとは到底思えない。 が、それは自分がそう思うだけで、もしかすると僅かでも恋愛感情が含まれているのかもしれない。 しかしながらそれを確かめる術もまた、ユニシスは持ち得ていなかった。確信が全く持てないまま、彼は眠れぬ夜を過ごすのだった。 Xデーから一日が過ぎ、三日が過ぎ、一週間が過ぎた。 だがユニシスは未だにリーシャに答えを返せていなかった。彼女とは家事をこなす度に顔を合わせるのだが、目を合わせる事すら出来ないままだ。随分と失礼な態度を取っている事は自覚していたが、ユニシス本人にもどうすることも出来なかった。 リーシャだって不自然な態度を取られている事に気付いていないわけがないのに、具体的な文句を言ってきた事は一度だってなかった。本当に良い子だと思う。 けれど答えはまだ出ない。 どこから聞きつけてきたのか、家事仲間の主婦達は早く答えを返してやれと急かしてくる。余計なお世話だと言葉を返すが、彼女達は口を閉ざすつもりは全くないようだった。 「貴方ね、告白したのに返事を貰えないだなんて、リーシャちゃんがどれだけ辛い毎日を過ごしているか分かってるの?」 「そうそう!毎日毎日院長代理の姿を見ては切なそ〜うにため息吐いてるのよ!?本っ当にもう見てるこっちが苦しくなってくるんだから!」 「……っ」 懸念していた通り、返事を先送りにすればするほどにリーシャに心労を与えている事を自覚し、ユニシスの心に陰りが落ちる。それを敏感に感じ取った主婦達は、更にきゃあきゃあと騒ぎ出した。 「ほらほら、落ち込んでる暇があるならさっさと返事してあげなさいよ!駄目なら駄目で、早くそう言ってあげるのが優しさってもんなのよ!?」 「でも羨ましいわよね〜。青春よね〜。私も昔に戻りたいわ〜。こう見えてもね、私と旦那は大恋愛だったのよ〜。そりゃもう吟遊詩人のサーガのようなロマンスを繰り広げ、」 「誰もあんたの話なんて聞きたくないわよ!院長代理!あんたの気持ちなんてどうでもいいから、さっさとOKを出してあげなさい!気持ちなんてものはね、後からいくらでもついてくるの!あんな可愛い彼女が出来るならそれで良いじゃない!」 ……そうなのだろうか。 ユニシスには「気持ちなんていくらでもついてくる」という言葉が信じられない。恋愛感情とは、そんなにも容易く抱ける気持ちなのだろうか。 仮にそうだとしても、ユニシスには今の気持ちのままOKを出す事は不誠実に思えてならないのだ。勇気を出して告白してくれたであろうリーシャの為にも、それだけはしてはいけないと思った。 尚も甲高い声でまくし立てる主婦達に耐えかね、ユニシスは逃れるように廊下へと飛び出した。 「うわっ」 「えっ!?」 ……飛び出した途端、誰かにぶつかってしまった。 慌てて相手の顔を確認すれば、眼鏡姿の見慣れた男が確認出来た。 「先生!」 「あ、ああ、ユニでしたか。元気なのも良いですが、部屋を出る時はきちんと前を確認するようにしましょうね」 なんだか小さな子供を相手にしているような物言いであるが、ユニシスは不思議な安らぎを覚えた。やはりこの人は自分の『親』なのだな、とぼんやりと思う。 「先生、こんな時間に起きてるなんて珍しいですね」 「そうですか?」 「そうですよ。いくら俺が昼夜逆転の生活を改めて下さいって言っても、全然聞き入れてくれなかったのに」 少しだけ拗ねたような声音を出してみても、ヨハンは困ったように微笑むだけだ。その目の下に隈が出来ている事に気付き、ユニシスは顔を険しくさせた。 「……先生。もしかして寝てないんですか?」 ヨハンの身体がびくりと震える。分かりやすすぎる反応に、ユニシスは呆れを覚えた。 「いつから寝てないんですか?」 「え、えーっと、いつからでしたっけねぇ」 「とぼけないでちゃんと答えて下さいっ」 厳しい声で追求すれば、ヨハンは眉尻はますます下がっていく。 「……お、一昨日からだったような気がします……」 「一昨日!?二日も寝てないんですか!?」 呆れたものである。毎日ハードスケジュールをこなしているユニシスやアクアも、どれだけ短くても睡眠時間だけは取るようにしている。そうしないと睡魔に襲われ、思考が鈍り、作業効率が落ちる事を知っているからだ。 だというのに、ヨハンはそれをしていない。別に彼は国や魔法院の重要な仕事を任されているわけではないし、寝る間を惜しんで行っている事など、魔法の研究以外に考えられない。 要するに、ヨハンは自己満足の為に睡眠時間を削っているのである。別にユニシスはそれを否定する気はないが、しかしいくらなんでも二日も起きっぱなしというのは流石に問題だと思う。 「先生、徹夜なんてやめて下さいよ!絶対身体壊しますって!」 「ははは、そうですねぇ。全く貴方の言う通りです」 誠意の欠片もない口調に、ユニシスの呆れは更に深まる。相変わらず、ヨハンはこちらの言う事を聞いてくれる気はないようだった。 ユニシスはひとつため息を吐くと、ヨハンの腕をがっしりと掴んだ。 「な、何をしているんですか、ユニ」 「先生の腕を掴んでます」 「何の為に」 「先生を部屋に連行する為にです!」 言うや否や、ユニシスは渾身の力でヨハンを引き摺りだした。向こうがこちらの言う事を聞いてくれないのであれば、もはや強行手段に出るしかない。 「うわ!や、やめて下さいユニ!まだ研究の続きが残ってるんですっ」 「そんなの、寝て起きてからも出来るじゃないですか。先生は仕事なんて何もないし、差し迫った事情だってないんですから、睡眠くらいはちゃんと取って下さいよ」 「仕事がないからこそ、心行くまで研究に没頭出来るんじゃないですか!」 「それで倒れたらどうするんですか!」 「その時はその時で考えますから、離して下さい!」 (……だ、駄目だこりゃ……) 三年前から全く変わっていない研究一筋の思考。己の体調すらも省みないその姿勢に、ユニシスは思わず遠い目をしてしまう。 その間にもヨハンはユニシスの手から逃れようと身を捩る。しかし研究一筋で生きてきた彼の身体に筋力や体力なんてものがあるわけがなく、アロランディアを出た後には一時サバイバルのような生活を送っていた事もあるユニシスから逃れることなど出来るわけがなかった。 だが流石にここまで激しく抵抗されるとユニシスひとりの手には余るのも事実である。大人しくしろと言ったところでヨハンが従ってくれる筈もなく、さてどうしたものかとユニシスは思案をはじめた。 「……ユニシス?何してるの?」 魔導士達の私室が立ち並ぶ一角まで引きずってきたところで、聞きなれた声に名を呼ばれた。抵抗するヨハンを押さえつけながら、ユニシスは声が聞こえた方向へと顔だけを向ける。 「ブルー!丁度良い所に!ちょっと手伝ってくれよ!」 「え?」 魔法院随一の問題人物に、ユニシスは助けを求めたのだった。 「いやー、助かったよ。お前が通りかかってくれなきゃ、ひとりで連れてこなきゃならなかったんだもんな。考えただけでぞっとするよ」 「そう。役に立てのなら良かったよ。……ユニシスに褒められたの、初めてだな」 抵抗するヨハンをブルーとふたりがかりで部屋に連行する事に成功し、ユニシスはご機嫌だった。 「あ、あのー……私の事を小さな子供か何かのように言うのは、やめて頂けませんか……?」 ……連行された張本人であるヨハンは、微妙に凹んでいるようだが。 「あ、そっか。それは流石に失礼ですよね」 「わ、分かってくれて良かったです」 「先生はもっと性質が悪いですから!小さな子供に失礼です!」 「そ、そっちですか!?」 ぐっと拳を握り込んで力説するユニシスに、ヨハンはショックを受けたようである。幾分か傷ついたような顔をしている。 「……そうだね。小さな子供は、あんな性質の悪い装置を作ったりしないしね」 「う……」 ぽつりと零されたブルーの呟きに、ヨハンは顔を引き攣らせる。 性質の悪い装置とは、言わずもがな、多くの人間……いや、ヒト以外の存在の運命をもねじ曲げた、あの魔法装置の事である。 ブルーのヨハンを見る目は厳しい。彼があの装置の作り手を未だに恨んでいる事は明白であった。 「ブルー、そんな目で先生を見るなよ。先生だってあの頃の事は反省してるんだしさ、もうちょっと優しく接してあげてくれよ」 「……反省?そうなの?」 ブルーの目つきが僅かに変わる。厳しいものから、胡散臭そうなものへと。どうやらユニシスの言葉を信じかねているらしい。 「反省……ですか。そう呼べるほどの心境の変化は、ないように思いますが……」 全く悪びれる様子も見せずに放たれた言葉に、ブルーの目つきが元に戻り、ユニシスはがっくりとうなだれてしまった。 「先生〜……。そこは嘘でも反省したって言って下さいよ〜……」 「口先で嘘を述べても、己の心までは偽れませんよ。私はあの研究にも、装置にも、誇りを持っています。今でもね」 ユニシスは更なる脱力感に襲われる。そこまではっきりと言われてしまうと、三年前の自分の行動が馬鹿みたいに思えてくるではないか。 あれほどの覚悟を伴って行動しても、彼の気持ちを変える事は出来なかったのか。自分の、アクアの、世界の痛みを言葉に変えてぶつけても、彼の心には全く響かなかったのか。 ……自分が『先生』として慕ってきた男は、そこまで他者の気持ちに鈍感だったのか。 「……ですが」 ……続く言葉に、ユニシスは少しだけ頭をもたげた。 「もっと他に方法があったのではないか。そう考える事は、多くなった気がします。……子供を巻き込み、世界の何かを削り取る以外に、私の目指すものを完成させる術はなかったのか、と」 「先生……」 ……ヨハンは鈍感だ。 ユニシスが具体的な行動に出るまで、彼の痛みに全く気付いていなかった。『夢』以外の何も見ようとせず、周囲の人間を省みなかった。ヨハンにとって、研究と装置以外のものなんてどうでも良かったのだ。本人はその事に気付いていなかったのだろうし、おそらくは装置以外のものも大切にしたいと思っていたのも本当なのだと思う。 けれど実際のヨハンの行動を見れば、彼が一番大切に思っていたものが何であるかははっきりとしている。 彼の世界は、研究と装置しか存在していなかったのだ。 それでも、それは過去の事だとユニシスは思う。今のヨハンはあの頃の彼とは違う。 「……気付くのが遅すぎましたけどね」 今の『先生』は、ちゃんと自分を見てくれている。この顔を、瞳を、心までをも。 それが本当に、心の底から嬉しかった。 「……本当に、人って馬鹿だよね」 「ブルーさん……」 無感情な言葉に、ヨハンは困ったように微笑んだ。いつもの笑み。先生らしい、表情。 「でも、今はお前も人だろ」 「うん」 事実を指摘してやれば、ブルーは素直に頷いた。 「だから、今は僕も馬鹿なんだと思う」 ブルーの顔に表情は乗せられていない。彼にしては珍しい無感情なその顔は、アクアを思い起こさせるものだった。 (……やっぱ、こいつらって兄妹なんだな。姉弟かもしんないけど) いくらその出自が到底信じられないものであろうと、彼と彼女が何かしらの繋がりを持っていることは事実なのだ。ユニシスはそれを痛感した。 「……ヨハン・ハーシェル」 「は、はい?」 「またアクアやマリンを悲しませるような事をしたら、許さないから」 「……はい」 ヨハンの返事を聞き遂げると、ブルーは部屋から去って行った。 扉が閉まる時を待ってから、ヨハンは大きくため息を吐く。 「……『元』神様と話すのは緊張しますねぇ。シリウス様とお話しする時と同じくらいに疲れました」 「あいつ、先生の事嫌ってますからね。緊張するのも疲れるのも当然です」 嫌っている、という言葉に、ヨハンは力のない笑みを浮かべた。 ブルーがヨハンを嫌っているとアクアに聞いた時、ユニシスは何故だと彼を問い詰めた。会った事もない相手を(しかもユニシスが尊敬する相手であるヨハンを)嫌うなんて、失礼極まりないと思った。彼の考えを正さなければならないと思った。 しかし彼がヨハンを嫌う理由を知れば、ユニシスは何も言えなくなってしまったのだ。 (……あいつは、あの装置で一番苦しんだ奴なんだ) あの装置の被害を受けた世界の声を間接的に聞いただけのユニシスですら、その悲鳴のすさまじさに耳を塞ぎたくなった。世界に漂う『何か』が受けた痛みがどれほどのものであったのか……彼には正確なところは何も分からないが、とてつもなく深い傷であった事は確かなのだと思う。 ……ブルーは、その傷を負ったのだ。 被害者なのだ。 被害者に加害者を好きになれとは言えなかった。ユニシスはその言葉の残酷さを知っていたから。 幼い頃の記憶。自分をあの檻に閉じ込めた人間を好きになるなんて――絶対に無理だ。それをブルーに強制するような事は、絶対に言ってはならないと思った。 だからブルーは今もヨハンの事を嫌っているし、ユニシスやアクアもそのことに関して何も言わない。 「……でも、今後は分からないですけど」 「はい?」 顔も名前も覚えていない、憎い相手。自分はもう二度とそいつに会う事はないだろうし、もし会う機会があったとしても、相手がそいつであると気付く事もないだろう。 だが、ブルーは違う。 ブルーは今、憎むべき相手であるヨハンと同じ職場で働いている。その気になれば顔を付き合わせ、言葉を交わせる環境に身を置いている。 ならば、もしもは起きるかもしれない。 ヨハンの人となりを知り、彼の事を少しでも知れば、その心に宿る憎悪を消し去る事は出来なくとも、小さくなる事はあるかもしれない。 ヨハンを慕う人間――自分やアクア、マリンや葵の助力があれば、或いは。 「……しかしあんなに嫌われてしまうと、アクアさんやマリンさんに対してどう接したものか、迷ってしまいますね」 「?どうしてですか?」 「ど、どうしてって、アクアさんは彼の妹……いや姉?ですし、マリンさんに至っては婚約者ですよ?下手に親しげに接したら、余計ブルーさんの恨みを買ってしまうかもしれないじゃないですか」 「……それはないと思いますけど」 過剰とも思えるヨハンの言葉を、ユニシスはあっさりと否定した。 「あいつ、そこまで馬鹿じゃないですよ。姉妹や婚約者の交友関係に腹を立てたり、口を出したりはしないと思います」 「そうなんですか?」 「ええ」 人の世界で暮らしてきた時間は、ブルーよりもアクアの方が長い。それ故なのかどうかは知らないが、どうも彼らの関係性において主導権を握っているのはアクアのようなのだ。 アクアが強く言えばブルーは逆らわないし、彼女の言いつけは本当によく守る。だから、ヨハンが懸念するような事は起きないと思う。 「……それならいいんですけど。結婚式に出席するな、なんて言われたらどうしようと思っていましたから」 「先生、心配性ですね」 「……そうならざるを得ない事をしましたからね」 ヨハンは反省していない。けれど己のしでかしたことがどれだけ大事であったのかは、きちんと理解している。ユニシスにとって、それを知れただけでも収穫だった。 (先生はやっぱり先生だ) かつてのように盲目的に彼を崇拝する事はもう出来ない。『先生』が自分の思うほど完璧な人間ではないと、知ってしまったから。 それでも彼は永遠に先生で、彼以外の人間を先生と呼ぶ事は絶対にあり得ないと思った。 だから。 「せ、先生」 「はい、なんですか?」 ……悩み事を打ち明けられるのも、この人だけなのだ。 「あの、さ……ちょっと、そ、相談したい事が、あるんだけど……」 不自然にどもりながら話を切り出せば、ヨハンは少しだけ目を丸くした。けれどそれも一瞬の事で、すぐに常の微笑みを浮かべてくれた。 「はい、構いませんよ。魔法の事ですか?ユニは今どんな研究をしていたんでしたっけ?」 「ち、違います!ま、魔法じゃなくて、その……」 「はい?」 ユニシスはその先を紡ぐ事がどうしても出来ない。意識せずに頬が赤くなってゆく。そんな彼の様子に、ヨハンはいくらか困惑したようだった。 「な、なんですか?そんなに言いにくい事なんですか?」 「う……は、はい……」 「……分かりました。焦らなくて良いので、ゆっくり、ユニのペースで言って下さい」 「はい……」 優しい言葉にユニシスの緊張も徐々にほぐれていく。大きく深呼吸をし、なんとか気分を落ち着かせようと努力する。 「あ、あのですね、」 「はい」 「お、俺、」 「はい」 「こ、」 「こ?」 「こ……こ、告白されたんだ!」 「…………………………………」 やっとの思いで言えたというのに、ヨハンは何も反応しない。ユニシスは不安と恥ずかしさと居心地の悪さでどうにかなりそうだった。 「こ……こくはく……ですか?」 「う、うん……」 ようやく返された言葉は、何故だかとても掠れていた。 「そ、それはつまり、その……あ、あ、愛の告白……ですか?」 「う……うん」 羞恥心に苛まれながらも頷けば、ヨハンの身体が僅かに傾いだ。彼は指先を額に添え、嘆くような体勢を取っている。その額に汗が滲んでいる事に、ユニシスは気付く。 「せ、先生?大丈夫ですか?」 「だ、大丈夫です……。まさかユニからそんな相談をされるとは思わなくて、少しびっくりしただけですから……」 それはそうだろうなぁ、とユニシスは思う。自分が先生に相談してきた事と言えば、魔法のことや家事のこと、それにアクアのことくらいだ。それ以外の悩みは、常に自分だけで処理してきた。先生に研究のことだけ考えて貰えるように、ユニシスなりに気を遣ってきたのだ。まさかこんな相談をする事になるなんて、彼自身も思っていなかった。 「だ、誰に告白されたんですか?アクアさんですか?葵さんですか?」 「……なんでそこでそのふたりの名前が出てくるんですか?」 アクアは家族のようなものだし、葵に至ってはあのアークが玉砕した人物である。ふたりとも自分のような者に恋焦がれたり、告白してくるような人物ではないと、ユニシスは思う。そんな発想をしたヨハンが不思議でたまらなかった。 「え、いやだって、ユニが親しくしている女性は、このふたりくらいしか……」 ヨハンは不自然に言葉を切ると、何故か丸い眼鏡の向こうからユニシスを凝視してきた。 「な、なんですか?そんなにじーっと見つめて……」 「ま、まさかマリンさんですか……!?あ、だからこうして相談してきたんですね!?」 ……思考がものすごく飛躍していた! 「ち、違います!マリンにはブルーがいるでしょ、ブルーが!」 あんなにブルーと仲が良く、アクア曰く『らぶらぶ』なマリンが自分に告白してくるなんて、それこそ絶対にあり得ない事だ。 慌てて否定すれば、ヨハンは安堵したように大きく息を吐いた。 「よ、良かった……そんな事になったら、ユニまでブルーさんに恨まれてしまう所でしたよ」 ブルーどころかアクアにまで恨まれる……というか、むしろ命を狙われそうだなぁ、などと思いながら、ユニシスは口を開く。 「……俺が告白されたのは、アクアでも葵でも、勿論マリンでもありません」 「で、では誰に?」 「……………………………………リーシャ、です」 その名を口にするだけで、ユニシスは顔から火が出そうになる。ヨハンは少しだけ顔を上向けて、遠い目をした。 「……あー、あの子ですか。よくユニのお手伝いをしているとかいう」 「……はい。先生、リーシャの事知ってたんですね」 「ええ」 ヨハンは魔法院に戻ってきてからまだ日が浅い。もしかしたら彼女の存在自体を知らないかもしれないと懸念していたのだが、どうやら無駄な心配だったらしい。 「アクアさんがね、教えてくれたんですよ」 「アクアが?」 思いがけない人物の名に、ユニシスは眉根を寄せた。 「議会のお仕事が終わると私の部屋にやってきて、色々お話ししてくれるんです」 「へぇ……」 それは知らなかった。アクアも多忙な身であるが、久しぶりに会った師に甘えたいのかもしれない。 「……しかしユニが告白されるなんて……時が過ぎるのは本当に早い。お祝いしなくてはいけませんね」 「い、いいですよそんなの!恥ずかしい!」 「そうですか?」 「そうですか、って、ちょっと考えたら分かるでしょう!?自分がやられたらどう思うか、考えてみて下さいよ!」 ヨハンは再び遠い目をする。暫くすると、その顔が思いっきり引き攣った。 「……すみません、ユニ。大変無神経な提案をしてしまいました……」 「わ、分かって貰えればいいんです……」 マリンや葵やブルーほどではないが、ヨハンも大概天然である事をユニシスは痛感していた。 「それで、その……どう返事をしたんですか?リーシャさんとつ……付き合うんですか?」 ……天然故なのか唐突に核心を突かれ、ユニシスはびくりと身を震わせた。 「ユニ?」 「……分かりません」 「はい?」 「分からないんです。どう返事をしたらいいのか」 ユニシスはそっと顔を俯かせ、両の手の平をぎゅっと握り締めた。 「分からないって、何故ですか?」 「……俺の気持ちが、分からないから」 ユニシスは吐露する。己の気持ち。『恋愛感情』というものがよく分からず、彼女の事をどう思っているのかすら把握出来ない、自分の思いを。 「……早く返事をしなきゃいけないって事は分かってるんです。でも、本当に分からなくて。……どうすればいいのか、本当に分からなくて」 ヨハンの返事はない。ユニシスもまた、返事を急かす事はしなかった。返答を聞く事が怖かったのかもしれない。ユニシスは口を閉ざし、床に視線を投じ続けた。 「あ、あのですね、ユニ」 「……はい」 ようやく返された、静かな言葉。ユニシスはそっと顔を上げ、『先生』の顔を見た。 「私にはそういう事柄に関してアドバイス出来ることは何もありません」 「………」 それはある意味で予測していた答えだ。研究一筋の朴念仁であるヨハンが恋愛問題に対してすらすらとアドバイスを返してきたら、逆に驚いていたと思う。 が、それでも残念に思う気持ちは止められない。『先生』ならば素晴らしい解決方法を導き出してくれるのではないかという淡い期待を抱いていたのも事実だったから。 「人には向き不向きというものがあります。貴方が相談してきた内容は、私にはとても不向きなものなのです。分かりますね?」 「……はい」 「ですから、こういった事柄に長けた人に相談するのが良いと思います。そうですね……シリウス様か、アークさん辺りが良いのではないでしょうか」 「ぶっ」 ユニシスは思わず吹き出していた。よりによってそのふたりを勧めてくるなんて、天然にも程があると思う。 「い、嫌ですよ絶対!」 「な、何故ですか?おふたりは恋愛のプロフェッショナルと言っても過言ではないと思うのですが」 「プロフェッショナルはプロフェッショナルかもしれませんけど、そのふたりは遊びの恋愛のプロフェッショナルですよ、絶対!」 本人達が聞いたら怒りそうな事を言うユニシスであるが、まぁその言葉もあながち間違ってはいないのが厄介な所である。 「遊びって……まぁそれはそうかもしれませんが、私よりもよっぽど実になる意見を聞かせて頂けるかもしれませんよ?おふたりとも、経験だけは多いでしょうし」 「絶対嫌です!断固拒否します!いくら経験が少なくて不向きだとしても、先生にアドバイスして貰った方が断然マシです!」 「そ、そうですか?」 「そうです!だから先生、何でもいいから意見を言って下さい!俺、どうすればいいんですか!?」 ユニシスは切羽詰まった様子でヨハンに詰め寄る。『先生』が二日眠っていない事実など、最早彼の頭の中から消えているに違いなかった。 ヨハンは弟子の勢いに若干気圧されたようだが、それでもその瞳は考え込むように伏せられた。 「……ユニ」 「はい!」 「でしたら、考えてみなさい」 「何をですか?」 「貴方が分化したきっかけを」 「え」 ユニシスは驚きに目を見開く。それは、今この時に考えなければならない事なのだろうか。 「男という性を、何故選んだのか。何を望み、何を手にしたかったのか。よく考えてみなさい」 「………」 「そうすればきっと、何かの糸口が掴めると思います」 何故そんな事を考える必要があるのかは分からない。それでも、ヨハンが――『先生』がそう言うから。 「……はい」 ユニシスは、素直に頷いていた。 (……分化、分化ねぇ……) 店頭に並べられた玉ねぎを吟味しながら、ユニシスは思索に耽っていた。 彼が男に分化したのは、三年前の事になる。多くの人間が岐路に立ったあの頃、ユニシスもまた大きな決断を迫られた。 (……先生のしている研究が、間違ったものだと知ったから) アクアが魔法院で暮らすようになってから、いつしかユニシスの身体は不調を訴えるようになっていた。それが分化のはじまりであると気付いたのは、『世界』の声が聞こえるようになってからだった。 苦しいという声。痛いという声。悲しいという声。神殿で何か、恐ろしい事が行われているという声。 (……先生を殺せという、声) ユニシスはそれらの声に耳を塞いだ。先生が間違った事なんてする筈がない。先生はいつだって正しくて、ユニシスの世界の中心に居る人だ。先生を殺すなんて、そんな事は絶対にしたくない。 ……けれど結局、その思いは揺らぐようになった。 (……アクアが、先生の実験の手伝いをしている事を知ったから) 小さな銀色の彼女は、いつからか先生と一緒に神殿に出かけるようになっていた。そして、帰ってくるといつも疲れた様子を見せるのだ。 その疲れは日が経つにつれて酷くなる一方で、気付けば毎日毎日青い顔をするようになった。 何を食べさせてもその疲労が回復する様子はない。どれだけ眠らせても顔色は元に戻らず、ユニシスはただただ焦った。 ……その原因が『先生』にある事は、明白だったから。 (……多分、その頃だよな。完全に男に分化したのは) その事実に思い至った瞬間、ユニシスは玉ねぎを落としそうになった。 (……アクアだ) 自分が男に分化したのは、アクアの為だったのだ。 彼女が魔法院にやってきてから、この身体は静かに、ゆっくりと性を持ちはじめた。先生の愛情を奪われた気がして、はじめは気に食わなくて仕方がなかった。随分とキツい態度で彼女に当たったし、意地悪だってたくさんした。 アクアの方も黙ってやられているようなタマではなく、報復や口喧嘩、果ては取っ組み合いに至るまで、一通りの衝突はこなしたと思う。 けれども、どうしてだろう。 時が経つにつれて、苛立ちは徐々に消えていった。文句を言いながら彼女の為にオムライスを作る事が楽しくなった。彼女の姿が魔法院に見当たらないと、つまらないと感じるようになった。 この手で偽りの星を授けた人。こいつを星の娘に仕立て上げれば、魔法院の立場は今とは比べものにならないほどに良くなる――たったそれだけの理由で、利用しようとした少女。 はじめはそれだけだった筈なのに――いつの間にか、彼女は『大切な人』になっていた。 アクア以上に大切だった筈の人の願いを絶えさせる事になると知っていながら、それでも自分は彼女を助けた。 これ以上苦しい思いをさせない為に。……生き続けて欲しいと願った。 アクアを守りたいと思ったから、自分の身体は男へと分化したのだ。 そうしたのは、彼女を家族だと思っていたから。 先生以外の、はじめての家族だと思っていたから。 (……そう、思っていたけど) 本当にそうなのだろうか。 山ほど買い込んだ野菜が入った紙袋を抱えながら、ユニシスは夕暮れに染まる道を行く。 (……分化っていうのは、大体が恋がきっかけで始まるらしいんだよな……) 好きになった人の性と反対の性を持つ為に、身体はゆっくりと変化してゆく。けれどユニシスは自身のそれが恋が理由であったとは思っていない。 分化のきっかけにはもうひとつ、恋と二分する理由が存在するのだ。 (環境の、変化) 著しい環境の変化は、アンヘル族の身体に分化を促す。何かの本にそう書いてあった事を思い出しながら、ユニシスは足を動かし続ける。 (アクアが魔法院に来た事がきっかけだったから、ずっと環境の変化で分化したんだと思ってた、けど……) 何故だか胸がもやもやする。心の何処かでこれ以上考えてはいけないという声がする。これ以上考えたら、非常に面倒臭い事になるぞ、と。 ユニシスはその声を無視した。何か、もう少しで答えを得られそうなのだ。面倒臭い事であろうが、自分には考える義務があると思った。 これ以上、リーシャを苦しめない為に。 「……あ」 港に差し掛かった時、ユニシスの足は自然と止まっていた。 海風になびく銀糸の髪。その上には黒い猫耳帽子が乗せられており、それもまたぱたぱたと風に揺れている。いつもの白いローブと胸元を飾る真っ青なリボンも風に煽られているのに、彼女はそれに気を向ける素振りも見せない。 ぼんやりと突っ立ちながら、彼女はただ海を眺めていた。 ユニシスの足は動かない。凍り付いたように、その場から動く事が出来なくなっていた。 あの頃とは全く違う、成長した彼女。自分よりも小さい背。触れれば折れそうなほどに華奢な身体。儚げな外見とは裏腹に、口を開けば妙に図太い言葉ばかりを吐き出していた。飄々とした態度は、いつだって掴み所がなかった。なのに食欲だけは旺盛で、何かを頼めば見返りとしてオムライスを要求される事が多かった。 家族。大切な人。守るべき存在。 そう、思っていたのに。 (……なんで) どうして彼女から目を逸らす事が出来ない。 ユニシスの胸に思い出が去来する。 細い髪をふたつに纏めて、このリボンはオムライスの色だと誇らしげにしている彼女。共に遊覧船に乗り、必死に話題を繋げようとしている彼女。マリンに対する嫌がらせを淡々と提案する彼女。葵に叱られている最中、面倒な事になったわねと耳打ちしてくる彼女。青い顔をして魔法院に帰ってくる彼女。倒れた彼女を抱き締めた、細すぎる背中の感触。 アクアという、小さな女の子。 「……あら」 彼女がこちらに顔を向け、ユニシスは息も出来なくなる。 ようやく理解した。 自分は、自分でも気付かぬ間に、 「ユニシスじゃない」 彼女に、恋をしていたのだ。 「ごめん!」 翌日。ユニシスはリーシャに頭を下げていた。 「俺、俺さ……他に好きな奴がいるんだ」 「………」 「だからリーシャの気持ちには応えられない。本当にごめん」 リーシャは暫く無言でいた。ユニシスは彼女が何かを言うまで頭を下げ続けるつもりでいた。 一分が過ぎ二分が過ぎる。それでもリーシャは何も言わない。ユニシスは頭を上げない。 「……ありがとう、ございます」 ……やがてぽつりと返された言葉に、ユニシスは耳を疑った。 彼女の望む返事を告げる事が出来なかったのに、何故感謝されているのだろう。 「ちゃんと答えを出して下さって。……ちゃんと振って下さって、ありがとうございます」 「そんな……」 礼を言われるような事じゃない。そう言いたかったが、ユニシスはそっと口を閉ざした。今自分が何を言ったところで、彼女を傷つけてしまうだけだと思ったのだ。 「あの……頑張って下さいね」 「え?」 「……ユニシスさんも、頑張って下さい」 それが『恋』を示した言葉である事に気付くまでに、ユニシスは数秒の時を要した。 「……ああ」 力強く頷いてみせれば、リーシャの瞳が泣きそうに歪んだ。それを隠すように顔を俯かせると、彼女は「じゃあ、私はこれで」とだけ言って背を向けた。 その背に声をかける事などしない。ユニシスはただ、天を仰いだ。 青く広がる空。世界は何処までも広大で、自分の存在なんて本当にちっぽけなものだ。 ……三年前の自分は、そんな事は知らなかった。世界はヨハン先生の形をしていて、自分はその中に居られればそれで満足だった。 だけど、今は違う。 世界の広さ。世界に溢れる大勢の人。自分とヨハン先生以外の存在。繋がる思い。 それを知らしめてくれた、最初のひと。 (……本当、面倒な奴に惚れたよな) きっとこれから自分は苦労するだろう。恋なんてするのは初めてで、戸惑う事ばかりだと思う。 それでも、諦めはしない。 すぐには無理だと思う。何年もの時がかかるかもしれない。 けれどいつか。いつかの日には。 (……告白、してみせる) 勇気を振り絞って思いを告げてくれた、リーシャのように。 鮮やかな青を仰ぐユニシスの唇の端は、僅かに上向いていた。 |