M.Q.I 9話


 星読みとは一族の誇りであり、自らを縛り付ける鎖の名だった。
 先祖代々、この島が国という形を成してから延々と伝えられてきた、予言の力。星読みという、最高位の役職の名。
 ……それが自分という子供に授かっていないと知った時、父と母はどれだけ嘆いた事だろう。
 申し訳ないと思う。……どれほど謝罪しても許されない事を知っていながら、それでも「ごめんなさい」を言いたくなる。
 父に対して。母に対して。
 ……国民に、対して。
 全てを偽り、ひとりの人外の男に国を託した。それは国民に対する紛れもない裏切りだ。
 それでも本当に謝罪するわけにはいかなかった。それをしたが最後、ダリスをはじめとした大陸の国々は、諸手を上げてこの地を蹂躙しただろう。
 だから自分は偽り続けた。偽りの予言を発し、偽りの星読みであり続けた。
 けれどもそれにも限界が訪れた。偽りは所詮偽りに過ぎず、『本当』を求める民や大陸の国々を誤魔化す事が難しくなってきたのだ。
 故に欲した。星の娘を。
 エーベ神の生まれ変わりの少女。そんなものが本当に存在しない事を知っていながら、その手に星を宿す者がそうであると決定づけた。
 そして現れた少女は、ひとりではなかった。
 辺境の村娘。記憶喪失の少女。聞いた事のない異国からやって来たと主張する少女。
 ……彼女達は星の娘などではない。自分はそれを知っていた。
 けれどきっと、救い主であった事は確かなのだ。
 彼女達は三人が三人、それぞれの方法で救い上げた。
 国を。神殿を。魔法院を。
 ……プルート・アルタス・アロランディアを。


 書類から目を上げると、プルートは大きく息を吐いた。途端、目の前に立っている神官の身体に緊張が走る。
 その様に苦笑しながら、プルートは口を開いた。
「よく出来ていると思います。ここまで詰めるのは大変だったでしょう?お疲れ様です」
「あ……ありがとうございます!プルート様!」
 労いの言葉をかければ、神官は頬を紅潮させながら大きく頭を下げた。様付けはしなくて結構だと何度も何度も言っているのに、彼は未だにその言葉に従ってはくれない。
(……議長であるマリンさんですらも、まだ完璧ではないからなぁ……。仕方ないのかもしれませんが……)
 だからといって大人しく認めるわけにもいかない。そんな事をすれば、いつまで経っても自分は『プルート様』のままだ。
「様は要りませんよ。……それより、この案にはまだ改善する余地があります。もう少しだけ手を入れてから、議会に提出しましょう」
「は、はい!」
「けれど、もう遅い時間です。今日の仕事はこれくらいにして、帰って頂いても大丈夫ですよ」
 夕暮れに染まる政務室。プルートの眼前に立つ男は、しかし首を横に振った。
「いえ、今から取りかかりましょう!」
「え、ですが……」
「私はなんとしてでもこの案を議会に通したいのです!一分一秒でも時間が惜しい!」
 熱意に満ちた彼の瞳に、プルートはいささか怯んだ。ここまで仕事熱心であるのは心強いが、だからといって残業をさせるわけにはいかないと思う。
「……貴方は確か、数日前に子供が生まれたのではありませんでしたか?」
 問えば男は虚を突かれたように目を丸くした。
「は、はい……」
「でしたら、時間外の仕事をこなしている場合ではないでしょう。早く帰宅して、奥さんとお子さんに顔を見せてあげて下さい」
「し、しかし……」
 男は迷うように瞳を泳がせる。それを見つめながら、プルートは最後のダメを押した。
「議会はいつでも門を開いていますし、仕事をする時間だって後でいくらでも作れます。ですが、子供は待ってはくれない。少し目を離している内に、あっという間に成長してしまいます」
「あ……」
「帰ってあげなさい。それが貴方のすべき事です」
 男の目が真っ直ぐにプルートに向けられる。そこには最早迷いは存在していなかった。
「……分かりました。明日はなるべく早く出勤するようにします」
「定時までに来て頂ければそれで構いませんよ。奥さんとお子さんによろしくお伝え下さい」
「は、はい!それは勿論!」
 力強く頷く男。彼のプルートを見る目は、『星読み』に対するものに他ならなかった。それを敏感に感じ取ったプルートは僅かに顔を曇らせるが、男はその事に気付かなかったようだ。大袈裟に頭を下げながら、扉の外へと消えていった。
 プルートは瞳を伏せ、眼下に広げられた書類に再度目を通す。けれどもその内容が頭に入る事はなく、思考は憂鬱な気持ちに支配されていた。
(……星読みは、もう何処にもいないのですけどね)
 自分は父や先祖達のような、威厳と優しさと神秘を兼ね備えた星読みには遂になれなかった。それはきっと自分が生まれ落ちた時から定められていた事であり、抗えない運命だったのだろう。
 けれども父も母も、それを認めなかった。世継ぎに予言の力がないという事は、アルタス家の没落を意味していた。
 そしてアルタス家の没落とは即ち、アロランディアの滅亡と同義であった。
 認めなかったのではない。認められなかったのだろう。この国を、この国に住まう民を愛しているからこそ、彼らは国を存続させる方法を探し求めたのだ。
(……ごめんなさい)
 プルートは胸中でそっと謝罪の言葉を呟いた。
 父の思いも、母の思いも、結局自分は無に帰した。全てを明かす事など彼らは望んでいなかった筈なのに、自分はその道を選んでしまった。
 全てを偽る事が苦しかった。尊敬と喜びに輝く民達の瞳を真っ直ぐに見る事が、本当に辛かった。いつもいつも、心の内で謝罪の言葉を述べていた。
 ごめんなさいごめんなさい、騙していてごめんなさい、力がなくてごめんなさい、神の声など、私には全く聞こえないのです――と。
 彼女達は……星の娘候補達は、そんな自分の味方でいてくれた。
 マリンはいつだって優しく微笑みかけてくれた。『星読み』を尊敬し、けれども窮屈な容れ物で暮らすプルートという存在を気遣ってくれていた。「大丈夫ですよ、皆プルート様が大好きなんですから!」……そんな根拠のない事を言いながら、この胸に巣食う不安を溶かそうとしてくれた。
 日野平葵は、紛れもない自分の敵だった。紅丸の本来の主である彼女は、この国に滅びを呼ぶ込む象徴的な存在に思えてならなかった。
 彼女の存在に怯え、その命を狩り取ろうとした事もあった。他の少女達に対するものよりも厳しく、酷い態度を取っていた自覚もある。
 それでも、彼女は決して自分を嫌ってはくれなかった。むしろマリンと同じように、こちらを気遣ってくれていた節すらある。「ソロイ殿ももっと柔軟になれば良いのになぁ。こんな窮屈な暮らしを続けていたら、おぬしはいつか潰れてしまうぞ」……端正な顔を心配そうに歪めながら、そう言ってくれた。
 ……そして、あれだけ欲していた『紅丸』を、諦めてくれた。
 己が国に帰る可能性が潰える事を知っていながら、「それはおぬしのものだ」と、そう言ってくれた。
 どれだけの葛藤を経て、どれだけの未練を断ち切ったのだろう。彼女を敵と認識していた自分を、彼女は「ただの子供」として見てくれた。……敵として、見てくれなかった。
 その事がただ、苦しくて悲しい。せめてあちらも自分を敵と見なしてくれれば、もっと非情になれたかもしれないのに。
 ……こんなにも苦しい思いは、抱えずに済んだのかもしれないのに。
「プルートー……」
 突然の声に驚き視線を上げれば、僅かに開いた扉から、銀髪の彼女が顔を覗かせていた。
「ア、アクアさん!どうしたんですか?」
 プルートは慌てて腰を上げると、アクアの元へと小走りで駆け寄る。三年前は殆ど身長が変わらなかったのに、今では彼女の方が僅かに背が高い。少しだけではあるが顔を上向かせなければ彼女の瞳を見つめられないのは、プルートにとって悲しみを覚える事実であった。
「プルート……たすけて……」
「た、助けるって、どうしたんですか?何かあったんですか!?」
 憔悴しきったアクアの様子に、プルートの胸に不安と焦りが募る。いつも飄々としていてマイペースな彼女がこんなにも疲れた様子で自分に助けを求めるなんて、とんでもない事があったに違いない。ソロイと相談して対策を練る必要がある。ああその前にアクアを保護して事情を聞くのが先、
「わっ」
 つらつらと考えているプルートの目の前に、アクアは紙を突き出してきた。
「な、なんですか、これ」
「しごと」
「は、はい?」
 眼鏡の位置を調節し、プルートは紙に記された文字を追う。丸っこく、可愛らしい文字が記しているのは……
「……入国審査方法の、改案……?」
「うん」
 長らく他国との交流を絶ってきたアロランディアではあるが、議会制度の発足により入出国制限が大幅に緩められた。港には外国人が溢れ、輸出も輸入も活性化したのである。
 が、それと同時に問題化しているのは、外国人による犯罪だ。人が増えればその分悪人が国に足を踏み入れる確率もまた高くなる。もっと制限や検査を徹底化すべきだという意見が、騎士院を中心として寄せられていた。
 となれば、これはその改善案なのだろう。しかし何故アクアがこんなものを持ち出してきたのかは分からない。
「マリンと葵がね、みんなのいけんを纏めたの」
「ええっ?」
 議長と副議長自ら議題を作成するなんて、今までになかった事である。前代未聞だ。
「で、書記のわたしが清書することになったんだけど……」
 アクアは紙を翻すと、じっと文字を見つめだす。
「……どうまとめればいいのか、全然わかんなーい……」
「分かんなーい、って……」
 プルートはアクアの横合いから紙を覗き込む。先ほどは少ししか頭に入らなかったその内容を追う内に、彼は彼女が何を悩んでいるのかを悟った。
 散文。ものすごく散文である。
 文章同士の繋がりは皆無。とても実現出来そうにない案の隣に、現実的ではあるがものすごく手間がかかりそうな案が書かれている。子供の夢物語のような抽象的な案もあれば、具体的な方法が事細かに記された案もある。
「ぜ、全然纏まってませんね……」
「うん……」
 プルートは若干の頭痛を覚えた。マリンも葵もおおらか……と言えば聞こえはいいが、どうにも大雑把すぎるきらいがある(……まぁ、アクアにもそういった傾向はあるのだが)。プライベートな事であればそれはそれで構わないのだが、仕事にまでそうした気質を持ち込まれると困ってしまう。三年ものあいだ議長と副議長を勤めたのだから、そろそろきっちりとした仕事ぶりを見せてくれても良いと思うのだが、彼女達にはそのつもりは全くないらしい。この紙切れ一枚に、その意志が凝縮されていた。
「いちおう、まともに使えそうなあんだけを書き起こしたって言ってたんだけど……ぜんぜんダメダメだと思うの……」
「そ、そうですね……」
「これじゃ、詐欺だわ……うったえてやるー……」
 覇気のない口調で告げられた言葉に、プルートは「一体誰に訴えるつもりなのだろうか」と、若干ズレた事を考える。
「だから、ね。プルート、手伝って」
「え?マリンさんと葵さんを訴えるのをですか?」
 やはりソロイ辺りに訴えるつもりなのだろうか、と思いながら問えば、アクアはふるふると首を横に振った。
「そうじゃなくて、清書。手伝って」
「あ、ああ、そちらでしたか……構いませんよ。これは流石にひとりで纏めるのは難しそうだ」
「やった。みちづれ、げっと」
「み、道連れ……?」
 怪しい笑みを浮かべるアクアの姿に、プルートの頬に一筋の汗が流れていった。


 机に向かい合い、プルートとアクアはああでもないこうでもないと意見を交わし合う。そんな事を繰り返していると、ふとプルートの脳裏に三年前の思い出が蘇ってきた。
「……懐かしいですね」
 小さな呟きにアクアが顔を上げる。なにが?と言いたげに首を傾げながら。
「ほら、昔もこうやってアクアさんの宿題をお手伝いした事があったでしょう?」
「ああ、そういえば……」
 星の娘候補であった時代、アクアは様々な人物に教えを請うていた。彼らから出された宿題の締め切りが近付く中、彼女はプルートに助けを求めたのである。
「……あの時はめいわくをかけてごめんね……」
「いえ、私も楽しかったですから」
 それは気遣いではなく、本心から出た言葉だった。幼い、自分と同じ年頃の少女。自分という『星読み』に対して敬語を使わない、数少ない人物のひとり。遠慮なんて全くなく、気後れする事なく訪ねてきてくれる唯一のひと。あの頃の自分は、彼女と話をする事を一番の楽しみにしていた。
「それに、あの時の事がなければ、私は魔法に触れることが出来ませんでしたから」
「……そう」
 机の上に置かれているランプは、魔法の力で明かりを灯している。儚く、けれど確かな光を頂くそれは、プルートが自ら作り上げた魔法装置なのだ。
「……間違いを犯した事もありますけど、私は魔法を覚える事が出来て良かったと、心から思っているんです」
 己の身を守る力が欲しかった。大切なものを、人を、守る力が欲しかった。
 けれども『星読み』は戒律により刃物に触れる事を禁じられていた。その身が穢れるとして、ペーパーナイフに触れる事すら許されなかったのだ。
 そんなプルートにとって、魔法はうってつけの『力』だった。呪文を唱え、指先で陣を描けば、『敵』を排除する力が発動する。彼が欲していたものに違いなかった。
「……そうね。葵をおそったことを知ったときは、あなたに魔法をおぼえさせたことを後悔したけど……かいしんしてくれて、本当に良かったわ……」
「か、改心、ですか……」
「なにかまちがってる?」
「……いえ。その通りです。あの時の私は、確かに悪であった気がします」
 何の罪もない、故郷へ帰る術を探しているだけの少女を、この手で殺そうとした。そこにどんな事情があったにせよ、事実はそれだけなのだ。
 ……アクアの愛する魔法を、人殺しの道具にしようとした。事実はそれだけなのだ。
「……魔法は本当に面白いですね」
 だからプルートはそんな言葉を口先に上らせた。今の彼は魔法を『力』としては見てはいない。攻撃の手段でもない。
 人の生活を豊かにさせる、『叡知』として認識していた。
 故にもう魔法をあんな事に使ったりはしないと、己に誓ってもいる。それがアクアや葵に対する謝罪であると、プルートは固く信じているのだ。
「アクアさんの言う通り、治癒魔法や創造魔法も、もっと早くに覚えておけば良かったな」
「後悔したって、じかんは巻きもどらないわ……。大丈夫よ、あなたはまだまだ若いんだし、もっと色々な魔法をおぼえられるわ」
 若いって、アクアさんも私と同じくらいの歳じゃないですか――そう告げようと開いた口を、プルートはすぐに閉ざした。
 どれだけ若く見えても、自分とそう違わない容姿をしていようと、彼女は『かつて神であったもの』だ。自分のようなただの人間とは違う存在であり、人の年齢で測れるような存在でもないのだ。
(……あの頃は、そんな事は想像すらもしていませんでしたけど)
 神の生まれ変わりなんて何処にも居ないと思っていた。星の娘なんてものは父がでっち上げたデタラメで、この世に存在しないのだと。
 アクアはある意味では存在する筈のない、本物の『星の娘』だ。その前世はエーベ神ではないものの、遙か過去からこの星に在り続けた、人知を超えた存在である事は確かなのだから。
 それでも彼女は『神』として人の上に立つ事を嫌がった。あくまでも『人』として、人が暮らす世界を守りたいと願ったのだ。
 その思いが、決意が、プルートには尊いものに思えてならない。今も昔も、彼にとってアクアは尊敬すべき存在であり、また焦がれ続けている存在でもあった。
(……神であろうとなかろうと、アクアさんは、私の……)
 そこから先を考えたくなくて、プルートはそっと窓の外に視線を投じた。そこから見える景色は既に薄暗闇に覆われており、夜のはじまりを告げている。
「……アクアさん、今日はそろそろ帰った方がいいですよ。もう暗くなってきましたから」
 アクアはまだ年若い少女であるし、見目麗しくもある。彼女の魔法の腕を考えれば並大抵の男ならば撃退出来ると思われたが、万が一という事もある。あまり遅くに出歩かせない方が良いと思い提案したのだが、しかし当の本人はゆるゆると首を横に振った。
「どうしてですか?いつもなら、喜んで帰る所なのに」
「しつれいね。ひとをサボり魔かなにかみたいに」
「ええっ、アクアさんは実際にサボり魔じゃないですか」
「……そういえばそうだったわね」
 アクアが本気で言っているのかボケているだけなのか、プルートには判別がつかない。元星の娘候補達はそれぞれ個性が強いが、プルートから見ればアクアが一番際立っているように思う。
「あのね、わたしね、先生のへやにあった石をね、こわしちゃったの……」
「は、はぁ」
「怒られるの、いやだから。あんまり帰りたくないの……」
 アクアらしいと言えばらしい理由に、プルートは苦笑した。
「駄目ですよ、アクアさん。人のものを壊してしまったのなら、きちんと謝らないと」
「それは、そうなんだけど……でも、早いうちにこの案をまとめなきゃいけないのも、本当でしょう?だから、今日はもうちょっとだけのこるわ」
「それとこれとは話が別ですよ。早い内と言っても、今日明日中に纏める必要がある書類ではありません」
「むー……」
 アクアはむっつりと頬を膨らませる。背は伸びたし、綺麗に成長したのに、こんな仕草は昔と全く変わらない。
「早めに謝っておかないと、どんどん謝りづらくなりますよ?」
「……それは、わかってるんだけど……」
「なら、今日はもう帰りましょう?アクアさんももう子供ではないのですから、自分でした事の始末は自分でつけた方がいいですよ」
「………」
 アクアは暫く無言でいた。迷うように瞳を伏せながら、考え込んでいるようだった。
「……わかったわ」
 やがてアクアはそう言った。
「ちゃんと、先生にあやまってくる」
「ええ。そうした方がいいと思います」
「あした、暇があったら清書てつだってね」
「ええ、分かっています。……さようなら、アクアさん」
「うん。また明日」
 扉を開け、アクアがとことこと去ってゆく。
 それを見届けてから、プルートは長いため息を吐いた。
(……楽しかった)
 胸に浮かんだ感情を、彼は即座に打ち消した。
(……私は、そんな事を思って良い人間ではないんだ)
 『星読み』の能力を持たず、民を騙し続けてきたプルート・アルタスは、そんな思いを抱いてはいけない。この身は民に捧げる為に存在しているのだ。女の子と話して楽しく思うなんて、許されない事だと思う。
 そんな感情を抱いている暇があるのなら、民の為に何かをしろ。何をして良いのか分からないのであれば、精一杯考えろ。それが彼らに対する贖罪だと知れ。
 そう、思うのに。
 プルートの脳裏からアクアの姿が消えてくれない。アクアの声が消えてくれない。言葉が、匂いが、彼女の全てが脳裏を支配している。
 思い知る。
(私は、やっぱりアクアさんの事が……)
 そこから先は考えない。考えてはいけないと思う。
 考えてしまえば、取り返しのつかない事になる気がした。認めてしまえば、きっともう後戻り出来なくなる。
 ……消し去る事が出来ないのなら、せめて見ない振りをするべきなのだ。
(……それが、私に出来る唯一の防御策だから)
 それでもいつか、消し去らねばならない時が来るのだろう。彼女は自分の事をなんとも思っていないのだろうし、成就することなど絶対に有り得ない。……絶対に許されない事でもあるのだから。
(……それでも、もう少しだけ)
 もう少しだけこのままでいたいと願うのは、紛れもない我儘なのだろう。それを知っていながら、それでもプルートは願わずにはいられなかった。
(もう少しだけ、このままで……)
 魔法の力で光るランプが、プルートの顔を優しく照らし出していた。


 彼の話を耳にしたのは、その矢先の事だった。
 早急に議長に確認して貰わねばならない案件が出たので、プルートはマリンの政務室へと向かった。扉の前に辿り着き、手の甲を軽く叩きつけようとした瞬間。
「そういえば、聞きました?ユニシスさんが魔法院の女の子に告白されたらしいですよ!」
「……告白?何をじゃ?」
「何をって……やだなぁ、葵さん。そんなの愛の告白に決まってるじゃないですか!」
「あ、愛……!?あのユニシスがか!?」
「はい、あのユニシスさんがです!」
 ……扉の向こうから、マリンと葵の声が聞こえてきたのだ。
 今がお昼休憩の時間である事に、プルートはその時はじめて気付いた。仕事に没頭するあまり、すっかり忘れていたらしい。
 プルートはユニシスの顔を思い浮かべた。ヨハンの元従者。魔法装置を破壊した張本人だった筈だ。
(もっとも、その罪はヨハンが被ったので、彼には何のお咎めもなかったんでしたよね……)
 そのユニシスは、最近アロランディアに戻ってきたと聞いている。魔法院に所属するアクアとは仲が良かったのだと聞いているし、実際に彼女本人の口から彼の名が出る事は多かった。
(……確か、私と同い年だったような……)
 自分と同じ年齢の少年が、告白される。なんだか別世界の出来事のように思えて、全く現実味がなかった。けれどもおそらくそれはこの島のいたる所で行われている、日常風景なのだろう。自分には縁遠いその光景を夢想ながら、プルートは自然と遠い目をしていた。
「そうか、あの小さなかったユニシスも、もうそんな年頃になったのじゃなぁ……。アクア殿、アクア殿は何か聞いておらぬのか?」
「……しらない」
 ……常ならば殆ど感情が込められていないその声が、どこか不機嫌そうに聞こえたのは自分の気の所為だろうか。
「ユニシスさんとか相手の女の子とかに、相談とかされていないんですか?」
「されてないわ。……そんなこと、いま初めてしったもの」
 ……この時にはもう、なんとなく気付いていたのだ。
 それでも、それから数時間後に部屋にやって来たアクアは、いつもと変わらない態度をしていたから。
「……とりあえず、つかえそうな案と、具体的なほうほうが書かれた案をぬきだしましょうか……」
「はい、そうですね。なかなか骨の折れそうな作業ですが、頑張りましょう」
「めんどい事この上ないわね……」
 プルートは疑念を胸の隅へと追いやった。何も考えないようにしながら、ただひたすらに作業を進めた。

 ……けれど結局、プルートはその目で直接確かめる事となったのだ。


 その日、プルートはソロイを伴って港の市へと出かけていた。
「ソロイ、私はひとりで行けると言った筈です。なのに何故お前が着いてくるのですか」
「おひとりでは危険だからです」
「危険なんてありませんよ。周りの人達をご覧なさい、皆安全に買い物を楽しんでいる。なのに、一体何の危険があると言うのです」
「あります。プルート様は退役したとはいえ、最後の星読み様であらせられます。御身を狙う不埒な輩は、まだまだ存在しているのです。アロランディアの名は捨てたとはいえ、アルタスの名を継ぐ者は貴方ひとりだけ。それだけで一般人とは立場が違う事をご自覚下さい」
 また始まった、とプルートは思う。こんな話は星読みを退役してから何度も何度も聞いてきた。流石に耳にタコが出来そうだ。プルートは分かりやすく顔をしかめた。
「私にだって自分を守る術くらいはありますよ。攻撃魔法だって、もう結構な数を覚えたのですから」
「その自信が不安なのです。プルート様以上の魔法の使い手に狙われたらどうするのです。詠唱の最中に攻撃されたら?魔法を使う前に身体を拘束される可能性だってゼロではない」
「それは……」
 ソロイの言う事も尤もだ。プルートだってそれは分かっているし、ソロイという国内最強の騎士を護衛につけるのが一番安全である事も、きちんと理解しているのだが……。
「それに、プルート様は武術が苦手でいらっしゃる。並の騎士相手にも勝てないのですから、屈強な男にでも狙われたらひとたまりもないと思われますが?」
「ぐ……」
 ……これだ。本当の事とはいえ、ソロイは痛い所を全くの遠慮なしで突いてくる。以前は「それがソロイだから」と流せていたこういった発言を、最近のプルートは疎ましく思いはじめていた。
 別にソロイの発言が以前と比べてキツくなったとか、そういう事が理由ではない。事実はもっと単純だ。
 即ち、反抗期である。
 ソロイはプルートにとって最も信頼出来る部下(一応、今は『元』という事になるが)であり、教師であり、騎士であり、兄代わりであり、親代わりでもある。本当の親兄弟が居らず、同年代の友達も少ないプルートにとって一番距離が近く、一番一緒に居た年月が長い相手なのだ。
 そんな相手に反抗したくなるのは、思春期の少年ならば致仕方ない事であろう。
「わ、私だって成長期なんですから、身体がもうちょっと大きくなれば武術だって上手くやれるようになります!」
「失礼ですが、いくら身体が大きくなろうと、運動神経が悪いままでは全く意味がないように思うのですが」
「う」
 ……正論を突かれるとすぐに怯んでしまうのは、プルートが純粋すぎるからだろう。今まで反抗らしい反抗をしてこなかった為、どう返せばいいのか迷ってしまうのだ。同年代の少年達に比べれば、プルートの反抗期は非常に穏やかなものであった。
「とにかく、護衛はつけさせて頂きます。プルート様に何かあれば悲しむ者が大勢居る事をご理解下さい」
「……はぁ。分かりましたよ……」
 わざとらしくため息を吐いてみせてから、プルートは足を踏み出した。どれだけ反抗してもソロイは何処までも着いてくるのだろうし、諦める以外に道はない事をプルートはよく知っていた。
(……ソロイは今の私とは比べものにならないほど忙しい筈なのですが……)
 今や一介の文官であるプルートと、騎士達を束ね、神殿の仕事を取り仕切るソロイ。比べるまでもなく、どちらがより忙しい日々を送っているのかは明白だ。
 だというのに、ソロイはこうしてプルートの護衛を願い出ている。一介の文官の護衛なんて銀円の騎士の仕事に含まれているわけがないのに、それでも黙って後に着いてきている。
(……駄目だなぁ)
 せめて自分がもっと強ければ、ソロイに余計な仕事をさせないで済むのに。自分の身を守る術を魔法に求めたけれど、やはりソロイの言う通り武術も得意にならなければひとりで出歩く事も難しい現実。
 落ち込んでしまう。『星読み』を退役しても、周りはそうは見てはくれない。
 ……類稀なる神秘の力を持つ一族の末裔としてしか、見てはくれないのだ。
 その証拠に、ほら。
 『プル』を名乗り、変装した姿で何度も訪れた場所。けれど今は一般人も皆、自分が『プルート・アルタス』である事を知っている。道行く人々のざわめきが、それを教えてくれていた。老人の中にはこちらに向かって手を合わせ、拝む者まで居た。
(……神秘の鎧を捨て去る事を、決めたのに)
 民達にはその自覚はないのか。或いは未だ薄いだけなのか。プルートには見極められそうになかった。
(……それでも)
 マリンは懸命に自分を呼び捨てようとしてくれている。葵は唯一欲していたものを諦め、国の為に尽くしてくれている。
 アクアは、今も昔も自分をひとりの少年として見てくれている。
「……あ」
 プルートの足が止まる。左右非対象の色をした両の瞳が、縫い止められたように一点を見つめている。
「プルート様?どうなさいましたか」
 ソロイの言葉にも反応しない。出来ない。
 銀色の髪。猫の耳のような形をした黒い帽子。ゆったりとしたローブ。
 アクアが、そこに居た。
 紙袋を手に持って、悠然とした足取りで人波を渡っている。その動きは自分などよりよほど達者なもので、彼女が市を歩き慣れている事を教えてくれる。
 ……そして、その隣に誰かが居た。
 美しい金色の髪。翡翠のような瞳。整いすぎた顔立ちの彼は、アクアから視線を逸らしている。笑みのひとつでも浮かべればサマになるだろうに、勿体ない事に眉間に深い皺を刻んでいた。
 プルートは悟る。
(……アンヘル種族)
 かつて文献で目にした事がある、彼らの特徴。神の落とし子である彼らは皆例外なく美しい金の髪に緑の瞳を持ち、奇跡のように整った容貌をしている、と。
 という事はつまり彼は『ユニシス・ハーシェル』なのだろう。その名を持つ者以外にアンヘル族が島に居ると聞いた事はないし、その隣をアクアが歩いているとなれば、ほぼ間違いないと考えていいだろう。
(……彼が、告白されたという……)
 彼が自分と同い年だという事実が、プルートにはとても信じられない。背は自分よりも随分高いように思えるし、精悍な顔立ちもとても大人っぽく見える。プルートはなんだか落ち込んだ気分になってきた。
 アクアの顔を見るには僅かに上向かなければならない自分と違って、彼は逆に見下ろす必要がありそうだ。アクアの頭は彼の肩の辺りにあるし、ふたり並んで歩く様は、まるで――
「……っ」
 プルートは思わず息を呑む。微動だに出来ない。目を離せない。
 アクアが、笑っていた。
 目を逸らしているユニシス・ハーシェルの顔を無理矢理に覗き込んで、満面の笑みを浮かべていた。
 それはいつもの何かを企んでいるような笑顔ではない。微かに口角を上げるだけの、僅かな笑みでもない。
 それは、プルートが一度も目にした事のない、穏やかでやわらかな笑顔だった。
 ……アクアが浮かべるところなど想像すらもしたことがない、笑顔だった。
 プルートは暫くの間呆然としていた。心配そうに声をかけ続けるソロイの声なんて、全く聞こえなかった。
(……ああ、そうか)
 プルートは自覚する。見つめる事すらも辛い現実を、それでも彼は気丈に認めたのだ。
(……私は、失恋したのか)
 アクアの事が好きだった。
 自分の名を呼び捨てる、唯一の女の子。怒れば手も出してくるし、遠慮などない辛辣な言葉も投げかけてくる。対等な『少年』として接してくれたアクアという少女の事が、とてもとても好きだった。
 ……恋を、していた。
 ずっと認めないようにしてきた感情を、プルートは今この瞬間に認めた。直視した。
 自分は恋なんてして良い人間ではない。彼女は自分の事をなんとも思っていないのだろうし、成就することなど絶対に有り得ない。……絶対に許されない事でもあるのだから。
 だからずっと見ない振りをしていた。見なければ、気付かなければ、彼女を思う事を許される気がした。
 ……そんな筈はなかったのに。
 見ない振りをしても、気付かない振りをしても、恋心が消えるわけではない。抱いてはいけない思いを抱いている事実に変わりはなくて、許されない事をしていることには変わりがなくて。
 そう、だからこれは、仕方のない事なのだ。……祝福すべき事なのだ。
 彼女が他の誰かに恋をしているのなら、自分は諦める他にない。とっくの昔にそうしていなければならなかったのに、未練を捨て切れず、もう少し、もう少しと先延ばしにしてきた。
 ……けれど、それももう終わりだ。本当に終わらせるべき時が来た事を、プルートは痛感していた。
「……ート様、プルート様!」
 肩を掴まれ、はじめてプルートはソロイが目の前に居る事を知った。
「どうなさったのですか。どこか具合でもお悪いのですか?」
 そう問いかけるソロイの顔はこれ以上ないほどに心配そうな色に染まっており、彼の忠誠心がプルートに向けられている事を如実に物語っている。
「……いえ、なんでもありませんよ」
 プルートは唇の端を持ち上げる。少しでもソロイを安心させる為に、精一杯に微笑んでみせた。
「ただ……」
「ただ?」
「私も、大人にならないといけないと思っていただけです」
「……は?」
 言葉の意味が分からないと言いたげに眉根を寄せるソロイの手を、プルートはそっと振り払った。くるりと振り返り、遙か高みにあるソロイの顔を見上げながら、プルートは笑みを深める。
「さ、早く買い物を済ませてしまいましょう。お前も、その方が心配が少なくていいでしょう?」
「はぁ……それは仰る通りですが……」
 ソロイの返事は歯切れの悪いものではあったが、それ以上は何も言ってこなかった。プルートは前に向き直り、アクア達に再度視線を向けた。
 だが、そこに彼女達の姿はなかった。人混みに紛れ、既に自分の目の届く場所から消えていたらしい。
 それで良い、と思う。
 女神は己の手の届く場所に居るべきではない。もっともっと大きな世界に飛び立ち、多くの人々の心の支えになるべきなのだ。
(だからただ、出会えた事に感謝を)
 アクアの言葉がなければ。
 彼女が励ましてくれなければ。叱咤してくれなければ。味方だと、そう言ってくれなければ。
(私はきっと、今も偽りの星読みで居続けていたのだと思います)
 虚ろな心を抱えたまま、民への罪悪感に押し潰されそうになっていたのだと思う。
 アクアの存在がプルート・アルタス・アロランディアを救い、アロランディアの名を捨てる事を決意させた。
(……貴方を好きになって、良かった)
 それが許されない思いである事を知っていながら、それでもプルートは感謝する。
(貴方の存在があったからこそ、私はここまで強くなれたのですから)
 だからきっと、もうアクアが居なくても大丈夫だ。恋心を消し去っても、僅かに抱いていた希望がなくなっても、自分は立ち止まったりはしない。このふたつの足で地面を踏み締め、歩いていける。
(私は、決してひとりではないのだから)
 空は青く、潮騒はどこまでも耳に心地よく響く。
 プルート・アルタスは、愛する国を全身で感じていた。

もどろ 帰ろ 進も