M.Q.I 10話


 眠りの狭間。夢の現の境界線に、ソロイは居た。
 意識ははっきりとしているのに、身体を動かす事がどうしても出来ない。己が起きているのか眠っているのか彼自身にも判然としない、曖昧な状態。
 思考はヘドロのようにべっとりと濁り、数秒前に考えていた事すら思い出せない。だというのに、聴覚と嗅覚と触覚が異常に研ぎ澄まされていた。
 そのただ中に。
 紅が横切った。
(……ああ、またか)
 そう思ったのも一瞬の事。
 紅は濃度を増し、一秒刻みで視界に広がる。
 ソロイはそれが何かを知っている。鉄の匂い。全身に絡みつく生温かな感触。
 血だ。
 奴を呼び覚ますものだ。
 何度も何度も流し、流されてきたものだ。
 自然と喉を鳴らしている事に気付き、ソロイは己の身体を呪った。
 例えば今この場に居る者がプルートであれば、そんな事は絶対にしない筈だ。ただ瞳をお伏せになって、辛そうな顔をなさるだけだと思う。
 思い知る。
 自分は、プルートと同じものではないのだ。
 この地に『彼女』が現れ、事実を突きつけられてからというもの、毎日毎日胸の中で反芻してきた現実。己の過去。出自。
(……私は、人ではないのだ)
 紅が、牙を剥いた。
 肩口に覚える鋭い痛み。奴の牙が深く突き刺さっている。ずぶずぶと皮膚の中へと埋没してゆく。紅を散らして。
 血を散らして。
 赤が飛散する。紅が皮膚の内側へと沈んでゆく。取り込む。取り込まれる。

 じぶんが、じぶんでなくなってゆく。

 意識が、切り替わった。


「こうなってしまってはぬしも形無しじゃな」
「はは、違いない」
 皮肉のつもりで口にした言葉を、彼女はいとも簡単に笑い飛ばした。そんな反応は出会った頃と何も変わってはいないのに、その外見はあの頃とは違い、随分と痩せ細っていた。
 ……いや、一番の違いはそこではない。分かっていながら、自分はその事について考えるのを避けている。
「いかに巫女と言えど、老いには逆らえぬよ。若き頃であればすぐに治っていた風邪も、今は命を脅かす大病よ」
「……そうか」
 皺の目立つ手で、巫女は己の両腕を抱き留めた。「今日は冷えるな」という小さな呟きが耳に届く。
「……おぬしには、悪い事をした」
「……何を言われておるのか、分からん」
 わざとすっとぼけてみせれば、巫女は分かっておる癖にと苦笑した。彼女の言う通りであったが、あえて返事はしなかった。
「おぬしを受け継ぐに足る力を持つ者が、なかなか生まれなんだ。故に『食事』の時間がこんなにも遅くなってしまった事、心より謝罪いたす」
「……巫女」
「だが、安心してくれ。これ以上遅くなるような事にはならぬよ。今代の当主はもう決めた。次代の当主も、今代よりも遅く決まる事はないじゃろう。孫達はどの子も巫力が高い。皆おぬしを御せるじゃろうて」
 目を細めて微笑む彼女の顔には、一切の気負いも絶望も存在しない。これから自らの身に起こる事を知っていながら、それでも心からの笑顔を浮かべている。
「怖くはないのか」
「……何故そんな事を聞く?」
 尋ねれば逆に問い返されてしまう。彼女の瞳には、何かを期待するような光が宿っていた。
「我が食らってきた人は、最後の瞬間はいつも恐怖と共にあった。まぁ、命を奪われるのだから当然の反応ではあるがな」
「……そうか」
 自分の答えに、彼女はいささか落胆したようだった。
「どうした、我が心変わりをするとでも思ったか?ぬしの言う通り久々の食事じゃ、食い逃すような真似をするわけがなかろう」
「ああ、分かっておるよ。ただ、私は……」
 彼女は言葉を途切れさせる。俯かせたその顔から表情を読む事は出来ない。
「巫女?」
「……いや、なんでもない」
 小さく頭を振ってから、彼女は顔を上げた。変わらぬ微笑み。気丈な彼女を象徴する、表情。
「これ以上おぬしの腹を減らしたままにしておくのもなんじゃな。始めるか」
「ああ」
 彼女は布団から出ると、自分の目の前に横たわる。白装束に包まれたその身体は、まるで枯れ木のようだった。
「あまり痛くはせんでくれよ」
「保証はせぬが、まぁ努力くらいはしてやろう」
「……紅丸」
 唐突に呼ばれた己の名に、紅丸はぴたりと動きを止めた。
 紅丸。人の中で生きる為に与えられた名。彼女との出会いの日から、己を己と識別する為に呼ばれ続けてきた名。
 ……彼女からの、贈り物。
「……おぬしの絶望が癒える日を、祈っておるよ」
 ……絶望してはいかん。
 そう言った彼女の顔を、今も克明に思い出す事が出来る。月光に照らされた白い肌。白と赤で彩られた巫女装束。妖艶に微笑む彼女の顔。
 人の美醜というものが、紅丸にはよく分からない。彼女はよく「おぬしは美しい」と言ってきたが、己の姿の何処を見ればそんな言葉が出てくるのか、さっぱり理解出来なかった。
 ただ……初めて出会った時の彼女は、本当に綺麗だと思ったのだ。
 容姿の話ではない。自分という人外の存在を手元に置き、いつかその身体を『食糧』として捧げる決意をいとも簡単にしてのけたその気高き精神が、本当に綺麗だと思ったのだ。
 屋敷の人間や、仕事に赴いた先の人間達もまた、彼女を美しい、綺麗だという言葉でもてはやしていた。だからおそらく、その容姿も美しい部類に入るのだろう……紅丸は、そんな風に思っていた。
 だというのに、今この身体の下に在る彼女の顔は皺にまみれている。髪は白く染まり、その量もあの頃とは比べものにならないほどに少なくなっている。瑞々しさを失った唇はささくれており、頬の肉は削げ落ちている。
 それが美からかけ離れた姿である事は、いくら紅丸であろうと理解出来た。人の一生の何と儚い事か。妖、魔と虐げられる自分達の方が、何倍も長い生を約束されている。現に自分の容姿は彼女と出会った頃から何も変わっていない。
 ……意識を持ちはじめた時から、何も変わっていない。
   霞の如き人の生が、紅丸には哀れに思えてならなかった。
 ……そう思う一方で、彼らを羨む気持ちがあることもまた事実であった。
「紅丸」
 例えば自分は、彼女のような笑顔を浮かべた事があっただろうか。
「日野平を、頼んだぞ……」
 ……死の間際にこんなにも安らかな笑顔を浮かべる事が、出来るのだろうか。
 牙を、突き立てた。


「紅丸」
「なんじゃ、初姫」
 名を呼ばれ、彼女の通名を口にすれば、初姫は小さな指で海の向こうを指さした。
「紅丸はあの島に行った事がありますか?」
「ああ」
「刀に居ない時は、あの島に行っているのですか?」
「別に決まってあそこに行っているわけではない。気の向くまま、適当に飛び回っておるだけじゃ」
「そうなのですか……」
 初姫は気落ちしたように俯いてしまった。
「あの島に行けば、紅丸に会えると思ったのですけど……必ず居るわけではないのなら、行ってもどうにもなりませんね」
「……ぬしは阿呆か」
 呆れて嘲ってみると、初姫はぷくりと頬を膨らませてしまった。
「私は阿呆ではありません」
「阿呆でなければ何だと言うのだ。我に会いたいのであれば、刀を命じて呼び戻せば良い。船を使って我を探すなど、無駄に時間を浪費するだけじゃ。阿呆がする事であろう?」
「でも、刀に命じると紅丸は頭が痛くなるのでしょう?」
「それがどうした」
「私、痛いのは嫌いです。紅丸にも痛い思いはして欲しくありません」
「阿呆」
「ま、また阿呆って言った……」
 頬が更に膨らむ。そんな仕草もまた、紅丸が彼女を阿呆だと判断する材料である事に気付いていないのかもしれない。
「我は戦う為に日野平に使役されているが、それは我の本意ではない。ぬしに隙があればすぐさま食らうぞ」
「……!」
 初姫は大きく瞳を見開いた。それが心底から驚いた人間の顔である事を、紅丸は知っていた。嘲るような笑みを浮かべながら、口を開く。
「なんじゃ、その顔は。まさかそんな事すらも先代は教えておらぬのか?それともその粗末な頭では理解出来なかったのか。まぁどちらでも構わぬが、哀れだから教えておいてやろう。痛みは我を屈服させる唯一の術だ。その刀が与える痛みは強烈で、しかも命令を果たすまで消えないときている。故に我はその刀を持つ者には逆らえぬわけだが」
「………」
 初姫は手の中に在る刀に視線を落とす。その瞳は何処か呆然としているように、紅丸には見えた。
「面白くない事この上ないが、我には定期的に痛みを与えておいた方が良いぞ、初姫。ぬしらからしてみれば、『式』は扱いやすい方がよかろう。痛みはそれを手助けしてくれるものじゃ」
「そ、そんな事……」
「出来ぬと申すか?ならば日野平は滅亡するな。我に食われて」
 初姫の肩がびくりと震える。それは、思いがけない真実を与えられた人間が抱く恐怖に違いなかった。
 初姫は本当に知らなかったのかもしれない。この刀を受け継ぐ意味も、紅丸を使役する意味も。
 初姫の母親は随分と過保護で、初姫が当主になる事も最後まで反対していたと聞く。先代は初姫とはまた違った意味で阿呆な女で、巫力の強さとは裏腹に、とにかく気が弱かった。語調の強い初姫の母親に押され、何も説明する事が出来なかったのかもしれない。
「べ、紅丸は……」
 呟きながら初姫は顔を上げる。泣き出しそうな瞳を真っ直ぐに紅丸に向けながら、震える唇を開く。
「……当主様を、たべたのですか?」
「今の当主はぬしだろう」
「せ……先代様を、です」
 何を今更、と紅丸は思う。
「う、噂で、噂で聞いたのです。そんなの嘘だって思って、でも皆そう言ってて、そんな事紅丸は絶対にしないって、私は思っているのですけど、」
 まくし立てるように吐き出される言葉を遮って。
「言わずとも分かっているだろう」
「え……」
「食った」
「……!」
 ……真実を告げれば、初姫は大きく息を呑んだ。
「先代も先々代も、そのまた前も。日野平に捕らえられた時から、我は自らが仕えた主を食ろうてきた。それが契約であるからな」
 初姫の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。その反応を見て、紅丸はようやく理解した。
 彼女が、こんな事すらも教えて貰っていない事実を。
「う、うそ……」
「嘘を吐いてどうする。我は偽りが何よりも嫌いだ。故にぬしを謀る事もせぬ。そんな事をしても時間の無駄じゃ」
「……そんな、そんな、事……」
「我はいつか、ぬしも食うぞ」
「……!」
「そんな褒美でもなければ、こんな面倒な事をする意味などないからな」
 紅丸はもう、初姫を見てはいなかった。彼女の顔を見なくとも、どんな表情をしているのか大体想像がつくからだ。
 しかし、と思う。
「……ぬしの母親ほど愚かな人間を、我は見た事がないぞ」
 それは心底から出た言葉だった。初姫に真実を教えないまま自分を継がせるなんて、愚かにもほどがある。一歩間違えば命を落とす危険性だってあるのに。
 無知は罪ではあるが、自ら何も知ろうとしない事と、知る事を禁じられる事には大きな隔たりがある。前者は本人の責任だが、後者は周囲の責任だ。故に初姫は被害者であると、紅丸は結論づけた。
「……か、母さまの悪口は、やめて下さい」
 すぐに言葉が返ってきた事に、紅丸は少しだけ驚いた。暫くは衝撃のあまり口もきけなくなるかと思ったが、杞憂だったらしい。
「何故じゃ。事実であろう?ぬしの母親はぬしに対する愛とやらで、ぬしを殺そうとしているのじゃぞ」
 それは掛け値なしの真実だ。『紅丸』という式の本質も、日野平が交わした契約内容も教えぬまま刀を継がせるなど、自殺行為以外の何物でもない。
 だというのに、初姫は紅丸を睨むのだ。
「母さまの悪口を言わないで!母さまは私を心配して下さっているだけです!」
「分からぬ奴じゃな。その心配がぬしを殺す事になると言うておるのに」
「わ、私は死にません!」
「ほぉ……」
 いつになく強い口調で言い切る初姫に、紅丸は目を細めた。
「私が強くなれば良いのでしょう?そうすれば死ぬ事もありません。誰にも殺されないよう、誰よりも強くなります!」
「……言い切ったな。まぁ良い、自分の言葉には責任を持つ事だな」
「そんなの、そんなの勿論です!」
 ……初姫について、思い出すのは。
 はにかんだような笑顔。気に入らない事があった時に見せる、ぷくりと頬を膨らませる仕草。阿呆としか思えぬ言葉。

 その肉の、やわらかさ。

 喉を潤す血の味は、歴代の巫女の中でも特別に美味だった。口に含んだ肉は咀嚼する必要もなく溶けてゆき、胃へと下りていく。
 強くなると宣言したその口からは、もう二度と声が出てくる事はない。照れ臭そうに細めていた瞳からは、光が消え失せていた。その手も足も、最早動く事はない。全てこの胃におさまった。
 初姫だけではない。
 例えば二姫と呼ばれた巫女が居た。彼女はとても気が強くて、いつだって自分に食ってかかってきた。けれども何故か自分を気にかけてくるのだ。お前はいつも寂しげな目をしているな、と。
 その二姫も食らった。
 例えば三姫と呼ばれた巫女が居た。彼女は自分の目から見ても相当に優秀な巫女で、その手で殺した魔の数は、ゆうに百を越えるだろう。たくさん殺せば、紅丸が解放される日も早まるのでしょう?――そう言っていた事を、覚えている。
 その三姫も食らった。
 例えば四姫と呼ばれた巫女が居た。彼女は三姫ほどではないが、やはり優秀な巫女だった。が、たったひとつだけ、唯一にして最大の欠点があった。彼女は自分に恋をしていたのだ。人と妖。決して相容れぬ存在に叶わぬ恋心を抱いてしまった彼女は、生涯苦しむ事となった。
 その四姫も食らった。
 最期の時、彼女はとても幸せそうな笑顔を浮かべていた。そなたの糧となれるのなら、これほど嬉しい事はない――そう言いながら、事切れた。
 様々な巫女が居た。数え切れぬほどの彼女達との関わりを、自分は今も覚えている。自分から見れば瞬きにも満たぬ僅かな時間を、彼女達は精一杯に生きていた。
 そして、彼女達は彼女達それぞれの方法で、自分と向き合ってくれた。
 道具として扱われたのなら、或いは見切りをつけられたのかもしれないのに。望みなど捨て、日野平の一族を食らい尽くしてやれた筈なのに。
 彼女達への情が、それを阻んだ。義理などという面倒なものを感じてしまったから、千という数を迎えるまで我慢し続けてしまったのだ。
 自由を奪われ名で縛られ。牢獄にも等しい狭い刀の中で、自分はずっと考えていた。
 己の生まれた意味。人を食らう意味を、ずっと。
 そして、その答えは遂に出なかった。千まで残り僅かになっても、欠片すらも掴む事は叶わなかった。

 その答えは多分、今はこの手の中にある。
 神の国。アロランディアという見知らぬ国で、記憶を失った自分は人として生きる事となった。
 何年も人を食らわず、プルートという幼き統治者を助ける為に生きた。
 弱き人々を守り、無能な人間を斬り殺し、何の力もないプルートの代わりに星を読み、予言を代行した。
 それは日野平の元で行ってきた事と変わりはない。けれど大きく違っていたのは、
(……『主』以外の人間に、己の意志を認めて貰えた)
 ……『妖』以外の存在として、認めて貰えた。
 自分は『紅丸』である事をやめ、『ソロイ』を選んだ。食らうだけの存在であった人として生きる事を選んだのだ。
 ……なのに。
「どうした、ソロイ殿」
 日野平がそれを拒む。
 自分にとって、おそらくは最後の巫女。七姫。日野平葵。とっくの昔に切れていた筈の縁が、何故か今になって再び結ばれた。
 これを飲まねばおぬしは死ぬぞ。そう言って、血を飲む事を強要する。
 鉄の味。鮮烈な赤い色をした血液。力を宿した、日野平の味。
 これは『紅丸』を呼び覚ます行動だ。
 人を消し去り、恐ろしい魔物を呼び覚ます儀式に他ならないのに。
 身体の奥底から声がする。皮膚の裏側を、何かが引っかいているような感覚。心の臓を骨張った手で握られているような、致命的な感触。
 顔の皮がずるりと剥けた。髪の毛がごっそりと抜け落ちる。歯が溶け骨が溶け爪が溶け、ぐじゅぐじゅと肉が焼けてゆく。
 視界の中に、紅い色が見えた。
 髪が伸びる。血と同じ、鮮烈な紅い髪。歯が生え爪が生え骨が肉が再生する。肉食獣のような鋭い牙。猫のように研がれた長い爪。骨は太く、脂肪は少なくしなやかな筋肉が多い身体。
 黄金の、瞳。
「我が恐ろしいか」
 己の唇から出る声は高く、酷く若く聞こえた。
「我はぬしの思考を乗っ取り、身体を乗っ取り、全てを食らうぞ」
 やめろ、と言いたかった。なのに、声が出てこない。出し方が分からない。
「ぬしの大切なプルート。奴の肉は美味だろうな。奴自身に力はなくとも、奴の身体に宿る血が我の味覚を刺激するじゃろうて」
 そんな事は絶対にさせない。なのに、身体が動かない。手も足も指先すらも、自分の意志で動いてはくれない。
 この身体は、紅丸の意志で動いている。
「ぬしもそうしたいのだろう?血の味を思い出しのじゃ、それ以上の『モノ』を口にしたいと願うのは当然の事じゃ」
 意識せず、唇の端が上向いた。
 ……紅丸が、笑っている。
「我もぬしも、人ではないのだから」
(……違う)
「人は血を啜ったりはせぬ。巫女の血など欲さず、穀物と野菜と果実と魚や獣の死骸を食って生きる。人の肉を喜んで食らうのは、我ら妖だけよ」
(そうかもしれない。だが、私は……)
「日野平の血は我を呼び覚ます。『ソロイ』を殺す。現にぬしはあの血を美味いと思うておる。果たしていつまで人の形を取っていられるかな」
 纏うは異国の衣服。額に刻まれた×の形をした傷跡。浅黒い肌にもいくつもの傷が刻まれている。
 この男と自分の何が違うのか。自分と同じ場所に刻まれた傷を見下ろしながら、ソロイはそんな疑問を思い浮かべた。
「……人で在り続けたいのならば、もう二度と日野平の血を貰い受けるな。本当に引き返せなくなるぞ」
 己の唇から出てきた言葉に、ソロイは耳を疑った。『紅丸』は何故そんな忠告をするのだろうか。
「我はぬしの意識を食い破る。そうして、本能に従って『アロランディア』の全てを滅ぼすじゃろう」
(……ああ、そうか)
 ソロイは理解する。この男は、『紅丸』はきっと……
「血を拒め、ソロイ・ブラーエ。それがぬしがぬしで在り続ける為の唯一の方法じゃ」

 ……自らを、滅ぼす事を望んでいるのだ。


 そしてソロイは覚醒した。
 朝の陽射しに促され、ゆっくりと瞼を開く。いつもと何も代わり映えしない己の部屋の内装が、視界に飛び込んでくる。
 手の平を目の前に掲げ、その爪が悪魔のように長くない事実に安堵した。自分はまだ、人でいられているようだ。
 そっと息を吐きながら、ソロイは上体を起こす。額に手をやれば、いつもの感触。
(……『紅丸』と同じ形をした、傷跡)
 思えばこの傷が葵に疑念を抱かせるきっかけとなったのだ。あの頃は自分が人である事を疑ったことなどなかったのに、今ではそんな思考をしていた事すら信じられないと思っている。
(……日野平の血を啜らなければ、生きてはいけない)
 それが現実であり、己が人ではない事のこの上ない証明でもある。
(……あの血を啜る度、意識の奥底で『あいつ』が身じろぎをするのだ)
 紅の化け物。日野平葵の故郷で彼女に寄り添っていたという、『紅丸』が。
 それはソロイにとって不快な感覚だった。自分の中に得体の知れない何かが居る。それを思い知らされ、直視する事を強いられる。目を逸らす事すら許されない強い違和感に、毎回襲われるのだ。
 ……アロランディアの民を斬り、血の匂いに酔いしれた、あの時の気持ちが蘇るようだった。
 血を啜らねば生きてはいけない。けれども血を啜る度に『紅丸』の意識が呼び覚まされていくようで、ソロイは強い葛藤を抱いていた。
(葵殿は私の身体を案じている)
 それが『ソロイ』の身体なのか、はたまた『紅丸』の身体なのか、彼にはいまいち判断がつかない。しかしそのどちらであっても、彼女がこの身体が滅ぶ事を望んでいない事は確かなのだ。その厚意を無にはしたくなくて、ソロイは彼女の言われるがままに血を啜り続けてきた。
(だが……)
 ソロイは強く瞼を閉じる。夢の中の『紅丸』の言葉。かつて己であった者の願い。
 ……ソロイ・ブラーエの願い。
 全てを考慮すれば、自分の取るべき行動はたったひとつしかない。
(……例えそれが、彼女を傷つける事に繋がっているとしても)


 気の強そうな切れ長の瞳は、今日もソロイの瞳を直視する。『元』星の娘候補達は皆人の目を真っ直ぐに見つめながら話す癖があるのだが、彼女の視線は特に力があるように感じられる。
 けれども彼女はすぐに視線を逸らした。懐から小刀を取り出すと、迷う事なく自らの腕に走らせる。
 いつもの行動。いつもの結果。
 血。
 彼女はやはりいつもと同じ行動をした。即ち、ソロイの目の前に腕を掲げたのだ。
 立ち昇る血の匂い。殊更に食欲が刺激される、力が宿った日野平の血の匂いだ。
 ……だが、ソロイはいつもと同じ行動を取らなかった。
「……葵殿」
「なんじゃ?はよう口をつけねば床に垂れてしまうぞ」
 急かす葵に対して――ソロイは、ゆっくりと首を横に振ったのだ。
「要りません」
「……は?」
 何を言われているのか分からないとでも言いたげに、葵は瞳を瞬いた。
「もう私に『ソレ』は必要ありません。貴方が自らを傷つける必要も、ないのです」
「な……っ」
 ソロイの言葉にようやく理解が追いついたのか、葵は分かりやすく血相を変えた。対するソロイは常と同じ態度を全く崩していない。無表情を貫く彼に怒りが刺激されたのか、葵は勢い余ったように腰を上げる。腕を走る赤い線から、血が滴り落ちた。
「お、おぬしは自分が何を言っているのか分かっておるのか!?」
「ええ」
「分かっておらぬだろう!?これが、血が要らぬと言うのなら、おぬしは……っ」
 言葉を詰まらせながら、葵は一瞬だけ顔を俯かせた。僅かに垣間見えるその表情が、ソロイには悲痛に歪んでいるように思える。
 が、彼女はすぐに顔を上げた。歪んでいた表情は気丈に正され、けれども悲痛な印象は拭い切れない。
「死ぬのだぞ!?」
「構いません」
 間髪入れずに応えを返せば、葵は絶句した。呆然とこちらを見つめるその瞳は、まるで異界の化け物を目にしているような絶望に彩られていた。
「人は人の血を欲しません。そんなものを欲するものは、化け物以外には存在しない」
 葵の表情に困惑が混じる。ソロイが何を言いたいのか、理解出来ていないのだろう。
「葵殿。私は人です」
「………」
「人として生き、人として死にたいのです。例え出自が人とは違っていたのだとしても、過去人とは違う存在として生きていたのだとしても、これから先は違うものとして生きたい」
 己の気持ちを言葉にするのは苦手だ。シリウスのように上手く舌は回らないし、マリンのように素直に感情を見せる事も上手く出来ない。
 それでもソロイは口を動かす。懸命に、日野平葵というひとりの人間に、己の思いを伝える為に。
「貴方の血を摂取し続ければ、私はいつまでも『人ではないもの』として生きなければならない。そうする事でこの生が未来へと繋がるのだとしても、それは決して私の本望ではないのです」
「それは……」
 葵の瞳が揺らぐ。つまりそれは、僅かでも自分の言い分を理解して貰えたという事だ。
 ……気持ちを伝える事が出来たという事だ。
「どれだけ人でありたいと願っても、私の本質は貴方の言う『魔』なのでしょう。人を食らわねば衰弱してゆく。……そういう身体を持っている事は確かなのだと思います。貴方の血を美味だと思うのも本当です。けれど」
 一旦言葉を切り、ソロイは少しだけ息を吸った。
「例え精神だけであっても、私は人でいたい」
「……ソロイ殿」
「それが死に繋がる事であっても、人として死ねるのならば、それこそが本望なのです。それこそが私が人として生きた証になってくれる筈だ」
 葵は何も答えなかった。力のない眼差しでソロイを見つめるだけだった。
 彼女ほど生命力に溢れた人間を、ソロイは他に見た事がなかった。その瞳にはいつも強い意志が宿っていたし、身体には生の活力が満ちていた。
 ……だというのに、今の彼女はまるで別人だ。それほどまでに自分が願っている内容がショックなのか。
 そう思いながらも、ソロイは口を動かし続ける。どれだけ彼女を傷つける事になっても、これだけは絶対に譲れない事だから。……譲ってはならない事だから。
「私はずっと、プルート様とアロランディアの為に生きてきました。これから先もそうしたいのです。それ以外に生きる道は知りませんし、知りたいとも思いません」
「………」
「……見知らぬ誰かの影を感じるのは、もうたくさんだ」
 あの赤い影も、見知らぬ異国の風景も、見知らぬ少女達の姿も。
 自分は知らない。見た事などない。懐かしいと感じる事もあれど、その感覚を不快だと思う。
「だから、葵殿」
 葵の眼差しに力がないのなら、代わりというわけではないが自分の瞳に力を込めようと思った。そうすればきっと、彼女は分かってくれる。日野平葵という人物は、頑固な部分があるものの、決して物分かりが悪いわけではないのだから。
「貴方も自由になればよろしい」
 虚ろな瞳に自分の姿が映し出されている。浅黒い肌。無骨な身体。鍛えぬかれた全身は、日々の鍛錬の賜だ。
 ……ソロイ・ブラーエの、努力の結果だ。
「『紅丸』から。使命から。……故郷から。全てから解放され、アロランディアで一から出直されてはいかがですか」
「わ、私は……」
 迷子の幼子のような顔をする葵を見ても、ソロイの心には何の感情も浮かび上がってこない。
 ただ、思考の底で僅かに。微かに。
 紅い誰かが身じろぎをする気配を感じた。
(……これから先、この感覚と共に生きるなど真っ平御免だ)
 覚えるのは自分の感覚だけで十分だと思う。
 だからソロイはそれ以上何も言わなかった。これ以上彼女に声をかければ、紅が濃度を増す気がした。
(ここが私の終の住処だ)
 青き空と海に囲まれた、美しき国。アロランディア。ソロイとプルートで作り上げた、楽園にも等しき箱庭。この地に骨を埋める時を思えば、自然と口許が綻んだ。
(……私はソロイ・ブラーエで居続けよう)
 最期まで、ずっと。

もどろ 帰ろ 進も