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海の底。青い洞窟。 冷たい水に囲まれたその場所にずっと居た。 寂しい、と思う事はなかった。かつてこの場所に共に居た『半分』は、きっと帰ってくる。そう信じていたから。 (……だって、人は薄汚くて、ずるい種族だから) 『半分』はそうは思っていなかったけれど。……金色の彼女と同じ思いを持っていたけれど、でも『半分』だっていずれ思い知る筈だ。 (人が、どれだけ罪深い種なのか) 世界を食い荒らし、その事に気付いてすらいない、悪しき異分子。彼らをこの星へと誘った金色の彼女を、憎いと思った事すらある。 その彼女はもう居ない。世界に溶けて消えてしまった。 流石の自分も、居なくなってしまった者を憎む事はしない。それは『半分』が望まない事だったし、彼女は彼女で自らの星で生まれ育った生命を慈しんでいただけなのだと知っていた。それは、自分と『半分』がこの海と空に住まう生物を愛する事と何も変わらないのだ。 ……けれども、人を憎む事はやめられない。 数多の生物の命を奪い、ひたすらに繁殖してゆくもの。海を汚す彼らは、憎しみの対象以外にはなり得なかった。 『半分』はいつか帰ってくる。賭けに勝つ事など不可能だと知り、再びこの洞窟に戻ってくる時がやって来る筈なのだ。 その時を待ちながら、自分は世界を修復し続けた。傷ついた生物達を癒し続けた。どれだけ繰り返しても再び人が傷を刻む事が定められているもの達。修復した箇所は大した時を待たずして壊れてゆく。癒した筈の生物もまた、傷ついた身体を再び自分の前に晒しに来る。 無限の円環。メビウスの輪。『半分』が帰ってくればそれに終止符を打つ事が出来ると、固く信じていた。 ……人を滅ぼす事が出来る筈だと、信じていた。 けれど、『半分』は遂に帰ってこなかった。 「わたしの負けよ」 そう言いながらこの洞窟に姿を現す事はなかった。 「わたしの勝ちよ」 そう言いながら、幸せを手にした彼女が帰ってくる事もなかった。 (……僕は、勝ったんだ) 人は幸福を作れるような生き物じゃない。世界を滅ぼし、唯一である『半分』をも奪い去った。そんな彼らを滅ぼして何が悪いのか。自分がこれからする事を咎められる者など、誰もいない筈だ。 (僕は守る。この星を。この星から生まれた、生き物達を) 決意と共に丘に立つ。手始めにその島を選んだ事に大した意味はなかった。そこは洞窟の近くにある島の中では最も小さかったし、確実に滅ぼせる気がしただけだった。 それなのに。 「……きれい……」 「……っ」 ……運命は、小さな魂と出会わせたのだ。 「それじゃあブルーさん、また夕方に!」 「うん。行ってらっしゃい。行ってきます」 「はい!ブルーさんも行ってらっしゃい、行ってきます、です!」 じんわりと汗ばんだ手を離し、ブルーとマリンは出かけと見送りの挨拶を投げかけ合う。マリンは手を振りながら、踊るような足取りで道を駆けた。 「マリン!そんなに走ったら危な、」 「きゃー!?」 ……注意の言葉も空しく、マリンは盛大にすっ転んだ。 「い、痛いよぅ……」 「大丈夫ー!?」 慣れない大声で心配すれば、マリンは笑顔を向けてくれる。 「だ、大丈夫ですー!いつもの事ですからー!」 ……その瞳の端には、じんわりと涙が浮かんでいるのだけど。 ブルーが足を踏み出し、マリンの元へと駆け出そうとすると、彼女は慌てた様子で立ち上がった。 「ほ、本当に大丈夫ですー!気にせず魔法院に行って下さーい!」 「でも……」 流石にこんな状態のマリンを置いては行けない。世界で一番大切な女の子を放置して自分だけ職場に向かうなんて、いくらなんでもあり得ない。そんな事をすればアクアにも怒られてしまうだろうし、何より自分で自分が許せないと思う。 「ほら、元気です!」 「マ、マリン!」 何を思ったのか、マリンは立ち上がってぴょんぴょんと飛び跳ねだした。ぎょっとするブルーに向かって、マリンは再度微笑みかける。 「ね、だから行って下さい!私も神殿に行きますからー!」 ……その瞳には、涙は滲んでいなかった。どうやら本当に大丈夫そうだ。 が、それでもブルーはマリンに向かって駆けた。 「ブ、ブルーさん!?」 驚きに目を見開く彼女の前に跪き、足の状態を確認する。土で汚れた膝に血が滲んでいるのを発見し、ブルーは眉をひそめた。 「血、出てるよ」 「え!?あ、本当だ……」 どうやら本人も指摘されて初めて気付いたらしい。マリンはおっちょこちょいだし、身体のどこかにいつも傷を作っている。ある意味傷に慣れすぎている所為で、気付けなかったのかもしれない。 「だ、大丈夫ですよ〜。これくらいの傷だったら、舐めておけば治ります」 深刻そうに傷を見つめるブルーに居たたまれなくなったのだろうか。慌てた様子でそう告げるも、ブルーの顔色は一向に晴れない。 「……ごめん、ちょっと触るね」 「え?……きゃっ!」 ブルーの手が患部に触れる。ひやりとした感触に驚き、マリンは思わず声を上げてしまう。 「慈愛深き緑の君よ。我は請う。祈りて、乞う。優しき御手を我が手に重ね、癒しの力を与えたまえ」 ブルーの手が僅かに発光する。それと同時、マリンの膝に滲んでいた血が跡形もなく消え去った。 「……これで、大丈夫だと思うけど」 「あ、ありがとうございます……」 立ち上がるブルーに礼を述べるが、彼の顔は未だに心配そうな色に染まっていた。 「痛みは消えた?大丈夫?」 「だ、大丈夫です大丈夫です!ほんのかすり傷でしたし、そもそもあんまり痛くもなかったし。魔法を使わなくても、今日中には塞がっていた気がします!」 「……そう?」 「はい!私、怪我はいっぱいしてきましたけど、治りも早いんですよ」 マリンは思い出す。孤児院に居た頃、神父様に「貴方は傷の治りが早いのが取り柄ですね」と、褒め言葉なのかどうかよく分からない事を言われたことを。 「……でも、僕は嫌だな」 「はい?何がですか?」 「傷がついた君の肌を見る事が。早く治る術があるのなら、積極的に使って欲しい」 「ブルーさん……」 マリンは己の胸が締め付けられるのを自覚した。その原因は罪悪感ではない。恋が締め付けているのだと思った。 (……私、本当にブルーさんが好きなんだな) 改めてそう思う。彼に心配をかけてしまった事実が申し訳なくて、けれど同時にとても嬉しく思うのだ。彼は、自分をとても大切に思ってくれている。 (……私は、ブルーさんに好かれているんだ) そうでなければ彼はプロポーズなどしてくれなかっただろうし、そもそも人の身体で自分に会いに来てはくれなかった。十分に理解していたつもりなのだが、改めて自覚すると嬉しくて嬉しくてたまらなくなる。 「……どうしたの?いきなり笑ったりして」 「……は!」 ……どうやら嬉しさのあまり締まりのない顔になっていたようだ。慌てて指先で口許を揉みほぐす。 「……って!時間!」 「え?」 「こ、このままじゃ出勤時間に間に合いませんよ!名残惜しいですけど、そろそろ行かないと!」 「ああ、そういえばそうだね……」 慌てるマリンとは対照的に、ブルーはぼんやりと空を見上げた。彼はアクアと同じくマイペースすぎるきらいがある。本当に危ない時間だって分かってるのかな、などと思いながら、マリンはブルーに背を向けた。これ以上話していたら、本当に遅刻しかねない。 「それじゃあ、ブルーさん。行ってきます。行ってらっしゃい!」 「うん。行ってらっしゃい。行ってきます」 つい先ほども交わした言葉を再度口にすると、マリンは転がるようにして坂を下って行った。 「……僕も、行かないと」 小さく呟いてから、ブルーもまた足を踏み出した。が、その足取りはマリンとは比べものにならないほどに遅い。マリンと同じように走れば早く着く事は分かっているのだが、どうしてもその気になれなかった。 (走るのって疲れるからなぁ……) 空を飛べれば楽なんだけど、と思いつつも、最早彼にはそれを行う為の力はなかった。 (マリンの傷を癒すのも、呪文を唱えなくちゃ出来なくなったし……本当、人間って不便だ) 以前は願えばすぐに力が発動し、様々な事象を引き起こせたのに。それが人として生きるという事なのは分かっているのだが、どうにも馴染みきれないものがある。 ……それはおそらく、人間を憎み続けた過去に起因しているのだろう。 人は世界を汚し、壊し尽くすだけの存在だと思ってきた。マリンと出会い、そんな人間ばかりではない事を知ったけれど……それでも、割り切れない思いもある。 マリンの事は好きだ。大好きだ。彼女に出会わなければ、自分は今も暗い洞窟にひとりで居たと思う。 (……だけど、人間皆がマリンのような魂を持っているわけじゃない) 魔法院で出会う人。街で出会う人。マリンの友人達。ヨハン・ハーシェル。 その全てに好感を持てるかと問われれば、迷わず首を横に振るだろう。 強欲な魂。自己中心的な思考。悪意の塊。 それらを持った人間を好く事など不可能だ。自分は金色の彼女ではない。彼らを生み出したものでは、ないのだから。 (……でも、その中にマリンが居たのも本当で) 世界を滅ぼしていたら、彼女のような魂を持った人間が居る事を知ることも、出来なかった筈で。 だからブルーにはよく分からない。人間が好きなのか、嫌いなのか、未だに判別がつかないのだ。 「……あ」 気付いた時には、ビーカーの中からもくもくと雲のような物体が湧き出ていた。近くに居た魔導士が異変に気付き、大袈裟にも思える動きで仰け反った。 「うわあああああああ!?またですかブルーさん!」 「ごめん、魔力制御が甘かったみたいだ」 「いえ、それは見れば分かりますけどね!?あーあーなんだこれ!雲なのか!?」 「や、違うだろ。実体があるぞこれ。ほれ、なんかすげーふわふわ」 「おおおおおお前は阿呆か!素手で触るな何が起こるか分からんぞ!」 「えー、大丈夫だろ。つーかなんか甘い匂いがするなこれ。触った側から溶けてくし、よく分からんなー。何なんだろ」 魔法院の研究室。いつものように実験に駆り出されたブルーは、いつものように失敗した。 本日の実験は『砂糖変換』……だった気がする。甘党の魔導士達が熱心に推し進めていた研究で、この魔法が完成すれば塩でも胡椒でもどんな調味料でも砂糖のように甘くなるとかなんとか。 理論と呪文の構築も完了し、魔力が高いブルーが実践すれば成功する確率が上がると思うから、是非とも協力して欲しいと頼まれたのだが……結果はこのザマである。雲が発生する前にも三回ほど失敗しているのだが、その時は塩や胡椒が黒焦げになるだけだった。こんな物体を生み出したのはブルーにとっても初めての経験で、興味津々である。これは一体何なのだろうか。 「……もぐもぐ。なかなか美味しいわね、これ」 「う、うわっ!院長!?」 ……何処から現れたのか。知らぬ間にアクアが雲を口にしていた。 「うわああああ!ヤバいですって院長!そんな得体の知れないものを食べたら腹壊すっていうか死にますよ!?」 先ほどから取り乱しっぱなしの魔導士が慌ててアクアを止めようとするが、当の本人は素知らぬ顔で彼の腕をすり抜けてしまう。その手には雲。むしゃむしゃと食べ続けている。 「だいじょうぶ。これは食べてもへいきなものよ」 「根拠は!?」 「勘」 「そんなものは根拠じゃないでしょうが!」 「やー、でも本当に大丈夫っぽくね?甘い匂いするし、オレも食べてみよっかなー」 「お前も興味を持つんじゃない!ああほら、ブルーさんも止めて下さいよ!」 「……え?」 名を呼ばれ、ブルーは魔導士に振り向いた。その手には雲。むしゃむしゃと貪り食っていた。 「って、なんでブルーさんまで食べてるんですか!?あんたら兄妹無茶苦茶だな!」 「まぁ。失礼しちゃうわ。もぐもぐ」 「本当だよね。別に僕達は無茶苦茶じゃないのに。もごもご」 「あー、すんません。こいつ神経質すぎてたまーに失礼な事言うんですよねー。もしゃもしゃ」 「食べながら喋らないで下さいっていうかこらあああああああ!おま、お前まで食うなよ本当に死んでも知らんぞ!?」 「や、大丈夫だって。お前は本当に心配性だなー。いいからお前も一口食ってみろって、すげー美味いぞ」 「誰が食べるかああああああ!」 ……そんなこんなで。 ブルーが生み出した物体は、「もくもく飴」という名称で呼ばれる事となった。ちなみに命名者はアクアである。 「まぁ、お腹をこわしたらその時はその時ってことで。胃薬でものんでがんばりましょう……」 「胃薬って……全く効かなかったらどうするんですか?死んでしまったら元も子もないと思うんですけど……」 「だからお前は心配しすぎなんだって。だいじょぶだいじょぶ。こんな美味いもんが毒なわけないって」 「そうだね。僕も、大丈夫だと思うよ」 「大雑把すぎますよ、貴方達……」 魔導士はげっそりとした様子でうなだれてしまった。 もくもく飴は既にこの場にはない。ブルーとアクア、それにげっそりしている魔導士の隣で脳天気な顔を晒している魔導士の腹におさまってしまった。 「それにしても、よくやったわね、ブルー。これは世紀のだいはつめいだと思うわ。ふわふわで、口のなかで溶けてゆくしんしょっかん……これを売り出せばおおもうけ出来るわよ」 「そう?」 「あ、それはオレも思いました!こんなお菓子食った事ねーもん。大々的に売り出せば魔法院の資金も相当潤う事になるんじゃないですかね」 脳天気な魔導士の瞳はきらきらと輝いている。降って湧いた儲け話に心躍らせているらしかった。 「その為には、もくもく飴のつくりかたを把握して、あんていした生産方法をあみださなきゃ意味ないわね……。ブルー、一体どうやってアレをつくり出したの?」 「どうやって……」 ブルーは沈黙する。そもそもアレは実験に失敗して生み出されたものである。実験の内容ならば答えられるが、具体的な失敗箇所を問われても彼には答える事が出来なかった。 「多分火属性の呪文の威力を上げたのが原因だと思いますよ」 ……が、げっそりしていた魔導士があっさりと答えていた。 「……そうなの?」 「そうなのって、ブルーさん、自分がどんなミスをしたのか把握してなかったんですか?」 「うん」 素直に頷けば、魔導士は更にげっそりとしてしまった。 「ま、ブルーはりくつとかよく分からずに魔法をつかってるからね……。全部かんかく。ふかい意味なんてぜんぜん考えない。だから把握してなくてとうぜんよ」 「へー、すごいっすね。ブルーさんって天才肌なんだ」 脳天気魔導士は純粋に感心しているようだった。 ブルーとアクアの素性を知る者は、アロランディアでも極僅かしか存在しない。広く知れ渡ってしまえば混乱が起きる可能性があるし、何よりも本人達が大勢の人間に知られる事を拒んだのである。 『神』と同等の存在がこの地に居る事を知られれば、人は努力を放棄するかもしれない。彼ら――というよりも主に彼女は、人が『神』に頼らず生きる事を強く望んでいた。故に大々的に発表する事はなかったのだ。 勿論、この場に居る魔導士ふたりもブルーとアクアの素性を知らない。ブルーの事は『天然ですさまじい魔力の持ち主』、アクアの事は『すさまじく有能だけれど怠け癖がある院長』としか認識していなかったりする。 「あーもー……駄目ですよ、ブルーさん。魔法ってのは理論の技術です。呪文や印の深い意味を知る事で、より威力のある魔法を扱えるようになるんですよ。天才肌なのは結構ですけど、ちゃんと理論も勉強して下さい。勿体ないなぁ」 「うーん……まぁ、気が向いたら勉強してみるよ」 「気が向いたらって何ですか気が向いたらって!気が向かなくても勉強して下さい!」 魔導士はまたもや取り乱し、懇々と説教をはじめだした。しかしながら当のブルーは『こんなに怒って疲れないのかなぁ』などと思うだけであったから、全くの無駄骨と言う他になかったのだけど。 「だって、仕方ないと思うんだ。僕は人間の世界の事をまだまだよく知らないし、魔法の事を勉強する暇なんてないのに」 魔法院の食堂の一角。本日の昼食であるサンドイッチを頬張りながら、ブルーはアクアに対して愚痴っぽい言葉をこぼしていた。 「まぁ、そうね……。あなた、まだまだ世間知らずだものね……」 「うん、そうなんだ。ユニシスにもよく怒られるし、それなら魔法の勉強よりも常識の勉強の方を優先させるべきだって思うんだけど、あの人は納得してくれなかった。理不尽だ」 「しかたないわよ。あの人は魔法院にはいってからまだ日があさいし、あたりまえだけどあなたの素性をしらないのだから、まさか度をこした世間知らずだなんて、おもってもみないと思うわ……」 「だからってあんなに怒る事はないんじゃないかな。すごく疲れたよ」 ユニシスに怒られるのは慣れているし、大抵の場合は自分の何が悪かったのか、そして次回からはどう行動すれば良いのかを具体的に教えてくれるので、ブルーは有り難く思っていた。 だが、先ほど魔導士にされた説教は『魔法の勉強をしろ』の一点張りだった。具体的にどんな勉強をしろだとか、何から始めるべきだとか、そういった助言は一切含まれていなかったのである。 「魔法って面倒臭いね。適当に願えば大抵が叶っていたのに、今では『リロン』を勉強しなきゃ上手く使えないなんて、想定外だよ」 「そうね……めんどい事は、確かかもしれないわね」 人の身体には慣れない。人の生活には慣れない。何度も何度も海の泡になりながらも、何度も何度も人の世界で生きてきたアクアを、ブルーは密かに尊敬していた。自分にはアクアやマリンがいるし、他にも様々な人間がサポートしてくれているから何とかやっていけている。だが、アクアはそうではなかった筈なのだ。 記憶を消したとはいえ、身体に染み込んだ生活習慣や、人の身になって生じる違和感までもが消えるわけではないだろう。それでも彼女はたったひとりで人の中に溶け込み、生活し、遂には幸せをその手で掴み取ってみせた。 「……アクアは、すごいよね」 アクアは数度瞳を瞬くと、不思議そうに首を傾げた。 「……なにがすごいの?」 「全部だよ。アクアはすごい。僕よりもずっと」 『半分』としか呼んでこなかった彼女を、今の自分は『アクア』と呼んでいる。アクア。水。 海の水は雲となり、雨となりて地上へと降り注ぐ。空と海を繋ぐものだからこの名を選んだのだと、再会したばかりの彼女はそう言っていた。 自分の名を己で選び、生き方すらもひとりで決めた。 マリンがくれた名を名乗り、大勢の人間のサポートを受けながら生きる自分とは比べものにならないほどにすごいと思った。 「……ほめられるのは、好き」 だけど、と言葉を続けると、アクアはブルーの髪をそっと撫でた。 「ブルーもすごいよ。あんなに時間がかかったのに。……あなたをひとりぼっちにしたのに、それでも待ちつづけてくれた」 「……すごくないよ。結局、僕は最後まで君を待つ事が出来なかった」 人に絶望して。……自分をひとりぼっちにした『半分』に絶望して。 人を滅ぼそうとした。嵐を呼び、彼らの住まう地を蹂躙しようした。 ……その事実を思い出す度、ブルーは己の胃の底が冷えていく感覚を覚える。無論、今も。 そうだ、自分は壊そうとしたのだ。人を。この地に住まう人々を。 マリンを。 「ブルー」 ……この名を呼んでくれる人々を、殺そうとした。 「ごめんね」 「……どうして謝るの?君は、謝るような事なんて何もしていないのに」 「こんなに時間がかかってしまって。……あなたを絶望させてしまったのは、わたしの責任だわ。だから、ごめんなさい」 「……アクア」 謝って欲しくなかった。けれどもそれを口にする事は出来なかった。 アクアの後悔も罪悪感も、全て彼女自身のものだ。『半分』は『半身』で、けれど決して自分と同じものではない。 分かっていた。あの別れの日から。『半分』が人の可能性に賭ける事を選び、『自分』を置いて行ったあの日から、そんな事は分かっていたのだ。 『自分』が、ひとりしかいない事など。 人は誰しもひとりだ。己と同じ者など、世界の何処にも存在しない。 この身体もこの思考も、自分だけのもの。自分だけを閉じ込める、檻なのだ。 「……マリン」 「はい」 ……この手を握ってくれるマリン。『半分』と同じくらいに、いや、もしかしたらそれ以上に愛おしく思っているかもしれない彼女ですら、自分とは違うものなのだ。真に自分の気持ちを理解してくれる事などないだろうし、ずっと一緒に居られるわけじゃない。彼女がそれを望むのならば、いつか自分の傍から離れる日が来るのかもしれない。 (……怖い) 今が幸せであればあるほど、ブルーの恐怖は増大してゆく。マリンが何処か遠くに行ってしまう。それは、決して有り得ない未来ではないのだ。 (『半分』のように、いつか、マリンも……) ぎゅっと、彼女の手を握る力を強くする。脳裏に思い浮かぶのは、あの青の洞窟の底知れぬ冷たさと暗さだ。 『半分』とふたりで居た頃、世界はひたすらに暖かかった。名前すらも必要としない、ふたりきりの世界。気ままに眠り、気ままに遊び、気ままに全てを愛し、慈しんだ。 ……あの洞窟があんなにも冷たい場所だなんて、夢にも思わなかったのに。 思い知る。『半分』に置いていかれた傷は、未だに癒えてはいないのだと。 トラウマと呼んで差し支えないそれは、今もブルーを蝕んでいる。『今』が幸せであればあるほど、彼は怯えてしまうのだ。 ……マリンが自分との別れを選ぶ。それが正当な選択である事を知っているからこそ、尚更に。 (……僕は、マリンを殺そうとしたんだ) 人を滅ぼすという事はそういうことで。 ……世界を壊すという事は、彼女が愛する全てを奪い去ることに他ならない。 その罪を彼女が許せず、自分の傍に居る事をやめると言うのなら……それを咎めることなど出来はしない。ただ黙って彼女を見送る事しか許されていないのだろう。 消せない罪が今を脅かす。そもそも、自分にはこうしてマリンの手を握る資格すらもないのではないか。 隣を歩くクロ助が黄金色の瞳を向けてくる。 (ほうら、神よ。まだ遅くはないぞ。指輪に込めた力を元に戻すが良い。そうすれば我が輩の言葉もまた理解出来るようになる。おぬしが愛する世界の声も、また聞こえるようになる。孤独である事をやめたいのならば、そうすべきだ) ……まるで、そう言っているようだった。 今は聞こえぬ世界の声。人以外のもの達の声。それがあっても孤独も絶望も消えなかった。自分が求めていたのは『半分』だけで、彼らの声は何の救いにもならなかった。 ……けれども、彼らは自分を愛してくれていた。求めてくれていた。 いつか愛する人が姿を消すのなら――己を愛する彼らの声を、取り戻すべきなのだろうか。 「ブルーさん」 耳に優しく馴染む、彼女の声。手の平が、彼女の両手にそっと包まれた。 「大丈夫ですよ」 ふわりと、マリンは微笑んだ。 「私はずっと、ブルーさんの傍にいます」 ……全ての不安と恐怖を溶かし尽くすような、笑顔だった。 「……マリン」 「はい」 「マリン」 「はい」 何度も何度も彼女の名を呼ぶ。彼女がここに居る事を確かめるように。 「僕はマリンが好きだよ」 「はい」 改めて告げれば、マリンの頬が僅かに紅潮した。 「私も、ブルーさんが好きです。誰よりも」 「……うん」 マリンは今まで、大勢の人間と関わりながら生きてきた。『半分』だけを求めてきた自分と違い、多くの人間と様々な関係を結びながら生きてきたのだ。 自分以外の人間と恋仲になる可能性だって十分にあっただろうし、考えたくもないが……その方が、彼女にとって幸せな人生を送れた可能性だってある。 それでもマリンは自分を選んでくれた。 君はあの洞窟で、永遠に僕とふたりきりで居る事を選べるのか――そんな残酷な問いかけに、迷いなく頷いてくれた。 この人しか居ない、と思う。 あの小さな島の小さな丘の上。偶然に出会った小さな魂。 あの時は迷いを生ませた運命を恨んだけれど、今はただ感謝したい。取り返しのつかない事をしなくて済んだことを。 (……マリンと出会えた事を) 「ブルーさん、今日の夕飯はキッシュにしようと思うんですけど、ブルーさんはどう思いますか?」 「……うん。良いと思うよ。マリンの作るキッシュ、美味しいよね」 「えへへ、そうですか?私、ブルーさんに美味しいって言って貰えるのが、一番嬉しいです!」 「そっか。じゃあ、これからもたくさん美味しいって言うね」 「はい!……あ、でもお口に合わなかったら素直にそう言って下さいね?無理されるのは、悲しいです」 「うん、分かった」 今もこちらを見上げるクロ助に、ブルーは微かに笑んで見せた。 (……ごめんね。僕は今でも君達の事が好きだよ。……だけど、やっぱり人で居続ける事を選ぶよ) マリンと同じ身体で生き、歳を重ね、死んでゆく。だからいつか、自分はまた彼らに出会うのだろう。 (この肉体が滅んだその時に、魂は君達に溶けるから) ……だから今はただ、マリンの側に。 |