M.Q.I 12話


 例の日から、ユニシスの世界は一変した。
「ユーニーシースー、おなかへったー」
「うわあ!?」
「……なに、そのはんのう。こんなにすてきなレディーに対してしつれいしちゃうわ。ふん」
 アクアに声をかけられる度に飛び退くようになり。
「院長代理ー、院長が代理に用があるってさー」
「あ、ああ……分かった、すぐ行く」
 アクアと顔を合わせる前には深呼吸をするようになり。
「あ、院長だ。今日も美人だなー」
「………」
「……な、なんで睨むんですか、院長代理。オレ、何か悪い事でも言いましたか?」
 アクアを褒める男を前にすれば機嫌が悪くなり。
「ユニシス、ユニシス。かみに葉っぱがついてるよ」
「……!?」
 アクアに触れられれば身体が硬直するようになってしまった。
「……さいきんのユニシス、へん」
「そ、そんな事ないだろ。気の所為だよ、気の所為」
 疑惑の目を向けてくるアクアから視線を逸らせば、彼女は不機嫌そうに眉根を寄せた。
「そんなことある。……わたしと話すときだけ、へんな反応をしてるわ」
「う……」
 流石に何度も何度もあんな態度を取っていれば不審に思われるのは当然である。あるのだが、ユニシス本人は今この瞬間までその事を全く考慮していなかった。頬に一筋の汗が流れる。
「……そんなにわたしが邪魔?」
「……は?」
 思いがけない言葉に、ユニシスは瞳を瞬いた。
「ユニシス、わたしが邪魔なんでしょ。先生にいっぱいあまえたいのに、わたしが仕事をおしつけたから時間がとれなくて、だからわたしの事うらんでるんだ」
 ユニシスは咄嗟に言葉を返せなかった。というか、むしろ呆気に取られていた。
 まさかアクアがこんな事を言ってくるなんて、思ってもみなかった。その内容も的外れもいい所で、聡い彼女らしくないと思う。
 しかしアクアはユニシスの沈黙を肯定と受け取ったようだった。不機嫌そうな顔が更に歪められる。
「ユニシスのばーかばーか。男のしっとはみぐるしいわ……」
 ユニシスが我に返った時には、アクアは既にこちらに背を向けていた。
「ちょ……っ、アクア!」
 呼びかけにも反応しないまま、アクアはどこぞへと駆けて行ってしまった。


 その日の夕方。
「ユニシス、アクアに嫉妬してるの?」
 痛む頭を抱えながらブルーを引き連れて買い物に勤しんでいると、不意にそんな言葉を投げかけられた。ユニシスは手にしていたジャガイモを落としかけるが、なんとか手の中に留める事に成功する。
「……危ない。店員に怒られちゃうよ」
「お、お前がいきなり変な事言うからだろう!?」
 思わず怒鳴りつければ、ブルーは不思議そうに首を傾げる。その傾げ方がまたアクアにそっくりで、やはりふたりは『姉弟』なのだな、とユニシスはぼんやりと思う。
「変な事?事実じゃないの?」
「事実なわけあるか!」
「でも、アクアがそう言ってたよ。ユニシスがわたしに嫉妬して、いじわるするんだ、って」
「……意地悪って」
 ユニシスは呆れと悲しみを混ぜたような、複雑な表情で俯いた。
 三年前、アクアと共に暮らしはじめた頃は文字通りの『意地悪』を随分行ったものだが、この地に再び舞い戻ってからはそんな事は一切していない。
 が、当の本人にしてみれば現在のユニシスの態度はあの頃と同じ『意地悪』に映っているらしい。ユニシス自身にはもう二度とあんな事をするつもりはないのだが、やはり被害者の傷というのは加害者には想像がつかないほどに深いのかもしれない。些細な言動の変化も敏感に感じ取り、『意地悪』に変換されてしまう程に。
「ユニシス、アクアをいじめるのはやめて欲しいな。あの子はとても強いけれど、それでも好きな人に意地悪されて平気な顔をしていられるほど気丈でもないと思うから」
「な……っ」
 好き、という単語に反応し、ユニシスの顔が一気に赤くなる。
「……?ユニシス、顔が赤いよ。熱でもあるの?」
「ねねねね、ねーよ馬鹿!!」
 またもや不思議そうに首を傾げるブルーに対し、半ば八つ当たり気味に声を張り上げるユニシス。
 ブルーが口にした好き。それはおそらく恋愛的な意味の『好き』ではないのだろう。家族愛とか親愛とかそういう意味の好きであり、何もアクアが自分に恋をしていると言っているわけではないのだ。分かっている。
 ……なのに、心臓が早鐘を打っている。勝手に顔が赤くなった。
(……俺、本当にアクアが好きなんだ)
 もう十分に知っていた筈なのに、改めて思い知ってしまった。
「……恋って、面倒だよな」
「え?」
 ブルーの声が耳に届き、ユニシスはしまったと思う。考えていた事を無意識に口にしてしまったらしい。
 慌てて口を開き、
「恋って、ユニシスは恋をしているの?」
 ……ブルーに先を越されてしまった。
(余計に面倒な事になった!)
 ユニシスは顔を青くする。恋なんてするのは初めての事で、ならば相談するのも助言を仰ぐのもひとつの選択肢であろう。
 が、しかしその相手がブルーというのはいくらなんでもまずい。まずすぎる。
 なんたってブルーである。彼はアクアの『半身』であり、兄、もしくは弟でもある人物だ。余計な気を使ってアクアに自分の思いを伝えてしまう可能性があるし、そんなつもりはなくともふとした拍子にぺろりと口から飛び出てしまうかもしれない。天然と言って差し支えないほどズレた言動をする彼には、絶対にこの思いを知られるわけにはいかないのだ。
 どうやってこの場を切り抜けようかと思考を巡らせるユニシスを、ブルーはただ無言で見つめている。澄んだ青色の瞳はこちらの考えを何もかも見透かしているように思えて、焦りを生ませた。
 その時、ブルーの背後で足を止めた人物が居た。特徴的な両の瞳の色を視界に捉えたユニシスは、それが誰であるのか悟って息が止まりそうになった。
「……あれ?ブルーさんですか?」
「……え?」
 ブルーが振り返る。黒髪を彩る白い帽子。眼鏡の奥で光るオッドアイの瞳の持ち主が、そこに立っていた。
「プルート」
 最後の星読み。プルート・アルタスが。
 ブルーは気負う様子なくプルートの名を口にするが、一方のユニシスは指先ひとつ動かす事が出来ない。
 彼が星読みの座についていた時、ユニシスは『自分には関係ない、遠い人間』だと思っていたが、いざこうして目の前に『プルート様』が現れるとがちがちに緊張してしまう。それは彼が『エラい』人物である事を知っているからで、その事を自分が意識しているからでもあり、要するに自分も彼を『エラい』人だと認めているわけで、
「ユニシスさんとお買い物ですか?」
「うん」
「……!?」
 プルートの口から自分の名が出た事に驚き、ユニシスは今度こそ呼吸を止めた。
(なんでプルート様が俺の名前を知ってるんだよ!?)
 そう思ってから、ユニシスの脳内に三人の少女達の姿が浮かび上がってきた。
 『元』星の娘候補であり、現在ではこの国の政治の中枢で働いている彼女達は、プルートと直接顔を合わせる機会が多いと記憶している。という事は、彼女達から自分のことを聞いているのかもしれない。
(……プルート様に俺の何を話す必要があるのかは謎だけど……)
 それについては考えるだけ無駄というやつなのだろう。あの三人は常識とは無縁の思考で動く事が多く、どれだけ自分が考えても正解を当てることなど不可能に違いないのだから。
「ユニシスがね、恋をしてるんだって」
「な……っ!?」
 ……自分の前に三人娘よりも常識とは無縁の思考を持つ男が立っている事を、ユニシスはすっかり忘れていた。
 何故今ここで、プルート相手に、自分の恋の話題を振る必要があるのだ。ユニシスにはさっぱり理解出来ない。頭が混乱している。
「こ、恋、ですか……」
「うん、恋。恋が面倒らしいよ」
「面倒……」
 ……混乱している間にも、ブルーはユニシスの発言を勝手にプルートに伝え続ける。当のプルートは明らかに困惑した顔をしているのに、ブルーの方には全く気にする様子はなかった。
「あああああの!」
 これ以上放っておいたら何を言われるか分からない――そんな思いに駆られ、必死に混乱を振り切って声を上げれば、プルートとブルーの視線がユニシスに集中した。
「プ、プルート様!こいつの言う事は全っ然、もう全く気にしないで下さい!」
「は、はぁ……」
 ……プルートの困惑が深まった気がするが、ユニシスはあえて気にしない事にした。とりあえず話を断ち切れただけで今はよしとしよう。
「ユニシス、どうしてそんな事を言うの?折角プルートと話していたのに、邪魔をしないで欲しい」
 ……が、ブルーの方はご不満のようである。むっと顔を歪ませるその様は非常に子供っぽく見えて、『神様』が浮かべるべき表情ではないとユニシスは思う。
「あのな、プルート様と話すのは別にいいけど、それならお前の話をすればいいだろ!?なんで俺の事を話題に出すんだよ、おかしいだろどう考えても!」
「え、どうして?マリンやアクアや葵と話す時にも、ユニシスの話題は出るよ。それも駄目なの?」
 ……なるほど。あの三人と話す事が多ければ、他人の話題をツマミにすることも多かろう。女とはえてして噂話が大好きなものだから。
 しかしプルートもブルーも男だ。他人をツマミにするなとは言わないが、話していて楽しい話題はもっと他にある筈だ。
 ……というか、そもそも。
「あいつらやお前は俺の事を知ってるからいいけど……いや本当は良くないけどいい事にしておくけど!プルート様は俺の事なんか全く知らないだろう!?今はじめて会った人間の事を話題にすんなって言ってんだよ!」
「あ、そっか」
 叫ぶように告げれば、ブルーはあっさりと納得してくれたようだった。
「マリンが僕の行った事のないパン屋が飼ってる犬の話をしたり、アクアが僕の会った事のない魔導士の話をしたり、葵が僕の知らない騎士の話をしても、面白くないもんね。プルートもそれは同じって事か」
「そう、そういう事だ!」
 大した時間もかけずに納得させる事が出来たことに、ユニシスは喜びを隠せない。ブルーは割と頑固な部分がある為、長い時は軽く1時間以上をかけて説明する事もあるのだが、今回はほんの僅かな時間で済んだ。おそらくは最短の部類に入るのではないだろか。素晴らしい。
「……おふたりは仲がよろしいのですね」
「は!?」
 不意に挟まれた言葉に、ユニシスは思わず大きな声で反応してしまう。プルート相手に失礼な口調ではなかったかと一瞬焦るも、彼が気にしている様子は見えず、少しだけ安堵する。
「な、仲は別によろしくないと思いますけど……」
「え、そうなの?僕とユニシスは仲良しじゃなかったのか……」
 ……何故かブルーが若干落ち込んだ様子を見せているが、あえて気付かないフリをした。
「私には仲良しに見えますよ。喧嘩するほど仲が良いとも言いますし、羨ましいです」
「え?ど、どこが!?」
 朗らかに告げられた言葉に、ユニシスは心底驚いた。自分とブルーの関係なんて、例えるならば保護者と被保護者みたいなものだ。常識知らずの彼の相手をするのは本当に大変だし、どこに羨ましがられる要素があるのかさっぱり理解出来ない。
「私には、おふたりのように本音でぶつかり合える相手がいませんから。楽しそうで羨ましいなって」
「あ……」
 ユニシスは思わず黙り込んでしまう。プルートは最後の星読みで、かつてのこの国の統治者である。そんな彼に対等な口をきける者など、おそらくは誰も居ないに違いない。
 ……その環境が、ユニシスには僅かであるが想像出来る気がした。
(……あの頃の、俺みたいだったのかな)
 奴隷として、見せ物にされていたあの頃の自分のような気持ちだったのだろうか。
 プルートがあんなに酷い扱いを受けていたわけがない事は分かっている。けれど立ち場は違えど、その心中は似たようなものだったのではないか――何故だかそう思えてならないのだ。
 自分は最底辺。プルートは頂点。
 自分の下に人はなく。プルートの上に人はなく。
 自分に対する態度は、皆例外なく一致していた。
「……プルートも、いつか出来るよ」
「え?」
 のん気な顔をしたブルーが、ゆっくりと告げる。
「本音でぶつかれる友達が。きっと、そう遠くない未来に」
「……そうでしょうか」
「うん」
 不安げに瞳を伏せるプルートに、ブルーは自信たっぷりに頷いて見せた。
「君は、もう星読みじゃないんだから」
「………」
 プルートは虚を突かれたように目を丸くした。けれどもそれは一瞬だけで、すぐに違う表情を顔に乗せる。
「……そうなると、いいですね」
 ……少しだけ寂しそうな、笑顔を。


 それから三人はとりとめのない話をした。率先して喋っていたのは主にブルーで、それに対してユニシスが突っ込んだり、プルートが質問をしたり、なかなか息が合っていると言えなくもないやり取りをしていたように思う。
 ユニシスは終始緊張しっぱなしで、自分が何を話していたのかはよく覚えていなかった。失礼な事を言っていなければ良いのだけど、と思いながらも、プルート本人がそんな事は気にしなくても良いと言っていたことは鮮烈に覚えている。
「私達は同い年ですし、私はもう星読みではないのですから」
 だから様だって付けなくて良い。呼び捨ててくれとも言っていた気がするが、いくらなんでもそれは無理だ。アクアやブルーじゃあるまいし、そんなに簡単に割り切れるものではないのだ。
 ……そして、もうひとつ。
 ユニシスの脳裏には、もうひとつだけプルートの言葉がこびりついていた。
「ユニシスさん」
「あ、はい?なんですか?」
 話もひと段落し、帰宅しようとした時にプルートに名を呼ばれた。
「恋は、確かに面倒ですよね」
「……っ」
 それは、自分が無意識の内にこぼしていた言葉。愚痴。ブルーがプルートに告げた言葉。アクアの顔を思い浮かべ、ユニシスは硬直した。
「ですがきっと、それに見合うだけの素晴らしさもありますよ」
「え……」
 続けられた言葉に、ユニシスは驚いた。
 プルートの口調はどこか寂しげで、けれどもやけに断定的だった。それは、まるで……
「……プルート様も、恋をしてるんですか?」
 ……自らの実体験に基いた言葉のような。
 プルートは何も答えなかった。無言のまま、僅かに表情を変えただけだった。
 そこに込められた感情を読み取る事が、ユニシスには出来なかった。ただ、様々な感情が複雑に入り混じっている事しか分からなかった。
 彼と自分が同い年である事が、ユニシスには唐突に信じられなくなる。自分よりもを老成した顔を見せるプルートが、ヨハンと同じくらいの『大人』に思えてならなかったのだ。
(……あれって、聞いちゃいけない事だったのかな)
 自分の言葉にプルートが具体的にどんな感情を抱いたのかは分からないが、答えて貰えなかったという事はそういうことなのかもしれない。
(まぁ、俺だっていきなり『恋をしてるのか』なんて聞かれたらすげー困るけど……)
 そう考えると、プルートには悪い事をしてしまったかもしれない。もし次に会う機会があれば、きちんと謝らなければ。
「あら。おかえりなさい、ブルー」
「アクア」
 突然にかけられた声に、ユニシスは驚きのあまり悲鳴を上げそうになった。
「……ああ、ユニシスもいたの。おかえりなさい」
 悩みの種。全ての元凶。アクアがじっとりとした目でこちらを見ていた。
 どうやら考え事をしている間に魔法院に帰り着いていたようだった。その事実に全く気付かなかった自分に呆れてしまう。
「ブルー、きょうの夕ごはんは何?」
「知らない。ユニシスに聞きなよ」
 ブルーは魔法院で夕食を摂る事はない。自分の家でマリンの手作り料理を食すので、彼の返答は当然のものだった。アクアもそれを知らぬ筈がないのだが、おそらくはユニシスと話したくなくてブルーに尋ねたのだろう。
「……わたし、ユニシスとは話したくないの。いじわるされるから」
 ほらやっぱり。
 分かっていた事ではあるが、こうしてはっきりと告げられると流石に堪えてしまう。恋する相手に話したくないなどと言われて平気でいられる者がいるとしたら、そいつはよほどの鈍感かマゾヒストに違いないと思う。
 フォローしなければならない。これ以上アクアに嫌われたくはないし、ブルーに文句を言われるのも嫌だし、何より自分はアクアに対して普通に接する事が出来るようになりたいと願っているのだ。
 覚悟と共に口を開き、
「わたし、もう行くね。ごはんができたら呼んでちょうだい」
「あ」
 ……そこから言葉を吐き出す前に、アクアは去ってしまった。
「……僕もそろそろ帰らないと。ユニシス、僕がいない間にアクアをいじめたら駄目だよ」
 ブルーが何かを言っている気がしたが、ユニシスの頭には全く入ってはこないのだった。


(……まずい、このままじゃ非っ常にまずい事になるぞ……!)
 夕飯を作り終え、食事を済ませても尚、ユニシスは悩み続けていた。
(こんな態度を続けていたら、取り返しがつかないくらいにアクアに嫌われちゃうかもしれない……!)
 その可能性を潰す為には、態度を改める必要がある。しかしその方法がさっぱり分からないのだ。
(……別に意識して変な態度を取ってるわけじゃないし……無意識ってのが厄介だよな……)
 理性の及ばぬ場所が、アクアにまつわる全てに過剰反応するように命じている。それをどうにかする為には、恋心をどうにかする必要があるわけで。
(どうにかって、具体的にどうするんだよ!)
 それが分かれば苦労はない。ユニシスはうんうんと頭を動かし続けるが、答えは全く出てこない。圧倒的な経験不足に知識不足。そもそも恋愛って何の為にするんだ?などという哲学的な疑問がぼんやりと思い浮かんでくる。
 駄目だ、と思う。
 このままひとりで悩み続けていても、解決策など思いつく筈がない。思考の迷宮を彷徨い続けるのがオチだろう。
 となれば、取るべき行動はひとつだけだった。


「先生は、恋ってした事ある?」
「ぶっ」
 弟子から放たれたとんでもない質問に、ヨハン・ハーシェルは口に含んでいたコーヒーを思いっきり吹き出した。
「うわっ、大丈夫ですか!?」
「だ、だ、だいじょうぶです……」
 口元を押さえながらそう答えるも、実際は全く大丈夫ではなかった。ヨハンの頭は混乱の極地にある。
 恋。故意。鯉。濃い。
 ぐるぐるぐるぐる、同音異議語が頭の中を駆け巡る。
 しかしながらユニシスが言い示したい言葉は恐らくたったひとつであり、しかしながら自分はその手の事は不得意であり、アドバイス出来る事など何もないとこの前も言ったばかりであり、その上でそういう話題を振ってくるという事はつまりユニシスは全てを理解した上で自分の意見を求めているわけで、
「そ、そりゃあありますよ、この歳ですからね」
 ……ならば、真摯に向き合わなければならないと思った。
 この子が自分を師だと思ってくれる限り。……慕ってくれる限り、自分はその期待に応える義務がある。
 それが、あの牢から彼を解き放った自分の、責任というものだと思うから。
「本当!?どんな恋だったんですか?」
 ユニシスの目に光が宿る。それは好奇心がもたらす光ではなく、もっと別の、何か切実な感情がもたらす光に見えた。
「ど、どんなって……取り立てて言う事のない、ごくごく一般的なものだったと思いますけど……」
「具体的に、どんな恋だったんですか!?」
 わざとぼかして答えれば、容赦なく追求されてしまう。ヨハンは大弱りで眉尻を下げた。
「あ、あのですね、ユニ。詳細はあまり人に話したくないんですよ」
「え?どうしてですか?」
 どうして、どうしてか。理由は少し考えただけでも数多く見つける事が出来る。
 恥ずかしいから。あまり思い出したくないから。悲しいから。苦しいから。過去の自分の感情を再び見つめる事が嫌だから。
 ……自分が傷つけた女性の事を思い出すのは、辛いから。
「……恋の思い出というのは、当事者の間だけで共有するべきものです。それを他の人間に話すなんて、無粋だとは思いませんか?」
 言いながら、我ながら詭弁だと思う。
 無粋だなんて、そんなの理由になっていない。けれども他にどう言えば良いのか分からなかった。正直な理由を告げる事が怖かった。
 告げてしまえば、捨てた筈の過去が自分を襲ってくる気がした。嘘で塗り固めた自分を、真実という矛で突き崩される気がしてならなかった。
 ユニシスは暫くヨハンの瞳を真っ直ぐに見つめていたが、不意に視線を外した。その顔には、納得出来ないと言いたげな表情が乗せられている。
「……なんかそれ、シリウスみたいな言い分ですね」
「……!?」
 予想外の言葉に、ヨハンの身体は硬直する。確かに言われてみればいかにもシリウスが口にしそうな言葉だったと思う。気付かなかったとはいえ、というか気付かなかったからこそというか、ヨハンは心の底から動揺していた。自分は、いつの間にかシリウスと同じような思考回路を持つようになっていたのか。
 ……それとも、自分という人間の影響があったからこそ、シリウスは今の人格を形成してしまったのか。
「……うん。でも、なんとなく分かりました。変な事を聞いてごめんなさい」
「い、いえ……謝る事はありませんよ。私の方こそ、詳しいことを何も話さなくて申し訳ありません」
 そう返してから、ヨハンは考え込む。
 ユニシスは、何かの答えを求めて自分に質問してきたのだと思う。それも、切実に欲している答えを。
 そんな彼に対して、これ以上自分がしてやれる事は何もないのか。
「……私は、」
「はい?」
 ……それ以上思考を重ねる前に、声が出ていた。
「私はきっと、幸せでしたよ」
「……はい?」
「恋をして、幸せでした」
 それだけは断言出来る。遠い昔、かけがえのないひとりの女性と共に生きたあの頃。ふたりだけで過ごした、慎ましやかな生活。互いを求め、求められる幸福。
「辛い思いも、悲しい思いもしました。けれど、それ以上に得るものの方が多かった」
 研究に明け暮れた日々。たったひとりで家に残された彼女の心を理解せず、王宮に入り浸ったあの頃。彼女を酷く傷つけていた事実が、今でもこの胸を蝕む。
 ……この魔法院に置き去りにした、ふたりの『子供』と同じように。
「かけがえのない思いをたくさん得ました。人を好きになり、好きになって貰うという事は、そういう思いを互いに与え合うことなのだと思います」
 ……それが出来なかったからこそ、彼女は自分の元から去ったのだろう。魔法しか見ようとしない自分に愛想を尽かして。さよならを直接告げる事すら拒んで、遠い彼方へと旅立った。
「……きっと、それはもう私には二度と手に入れられない関係性なのでしょう」
 魔法だけを見つめ、魔法しか求めなかった自分を受け入れてくれる者など、おそらくは生涯現れはしまい。
 それで良い、と思う。
 他者を傷つけながら生きてきた自分には相応しい末路だ。後悔はない。悲しくも、ない。
 ……けれど、この子にはそうなって欲しくはないから。
「若かったあの頃にしか出来なかった恋がある。だから、貴方も思いっきり恋をなさい」
 告げる。
 ユニシス・ハーシェルが人に愛される生涯を送れるよう、願いを込めながら。
「好きになった女の子を幸せに出来るよう、最大限の努力をして下さい。何をする事が相手の為になり、相手に何を望まれているのか、一生懸命に考えて下さい。答えが出たらそれを実行して下さい」
 優しいこの子が自分と同じ間違いは起こす筈がない。それを知っていながら、ヨハンは言葉を吐き出し続ける。
 そうする事で、親代わりとしての最低限の責務を果たしたいのか。
 それとも……心の底から、彼の力になりたいと願っているのか。
 そのどちらであるのか、ヨハン本人にも判別がつかなかった。
「もしかしたら、後悔に終わる結果になるかもしれません。ですがきっと、それもまた自らの糧になる筈ですから」
 ……分かっているのは、自分がユニシスの幸せを願っている事実だけだ。
「……先生」
「はい?」
「先生はやっぱり先生だ」
 そう告げたユニシスの顔には、確かな笑顔が浮かんでいた。
「俺が何かを教わりたいって思う人は、ヨハン先生以外にはいないよ。先生以外を『先生』って呼ぶ事は、きっと出来ないと思う」
 その言葉に、ヨハンは苦笑した。
 自分にはユニシスに先生と呼ばれる資格などない。それは、自分の夢が潰えたあの日に分かっていた事だ。彼自身にもそう言ったのに。
 ……親代わりとしての自分は、本当に最低だったのに。
「俺の先生は、ヨハン先生だけです。この先もずっと」
 けれどユニシスはそう言うのだ。ふたりで魔法院を作り上げた日と同じ、純粋な尊敬と親愛を込めた瞳で自分を見ながら。
 ……彼を傷つけ、大きな決断をさせた自分を、今でも慕っていると言うのだ。
(……刷り込みって、怖いですね)
 心の底からそう思う。親代わりとして接した日々が今のユニシスの瞳を作り上げたのだとしたら、本当に恐ろしく、申し訳なく思うのだ。自分よりも人格的に優れた人間が親代わりとして彼を導いていれば、あんなにも傷つく事もなかっただろうに。
(……それでも、私は感謝します)
 ユニシス・ハーシェルという弟子を育てられた事。アクアという弟子を育てられた事。
 彼らに出会わせてくれた運命に、ただひたすらに感謝したかった。
(私は、貴方達と出会えて幸せでしたから)
 ――願わくば、これからの彼らの人生に幸せだけが待っていますように。
 ヨハンはただ、それだけを祈っていた。

もどろ 帰ろ 進も