M.Q.I 16話


 あの時の自分の行動を悔やまぬ日はない。
 恐ろしく有能な幼馴染。剣の腕は同期や先輩達と比べても際立っていたし、整った容貌は自然と人の目を集めた。何をやってもサマになり、出来ない事なんて何もないとすら思える。その伸びしろはどこまで大きいのか、ずっと傍に居た自分ですらも正確に測る事は出来なかった。
 なのに、彼はその才能を正しく生かそうとはしなかった。
 暇があれば遊び回り、訓練はサボりまくり、勉強だって真面目に取り組もうとはしない。
 厄介だったのは、そんな姿勢でありながらも、同期達の中で彼が抜きん出て出来が良かった事にある。
 遊びまくり、サボりまくり、真面目に取り組まなかった結果として実力が落ちるのならば、上司や先輩や同僚達も叱り、注意する事が出来ただろう。しかし現実には彼が一番の実力者であり、卓越した能力の持ち主であったから、誰も何も言う事が出来なかった。
 ……自分を除いては、だが。
 他の誰かに注意をされれば彼はすぐさまヘソを曲げてしまうのに、自分の言う事だけはそれなりに聞いてくれた。故に彼が何か問題を起こす度に、自分が後始末に駆り出される事になる。
 自分だってそんなに暇なわけではない。彼のような能力があるわけではない自分は、努力をしなければすぐに実力が落ちてしまう。
 ……そんな自分が彼の手綱を握っている事実が嬉しくなかったと言えば、嘘になる。言いようのない優越感を抱いていた時期がある事も認めよう。
 けれど年月を重ねるにつれて、その思いはだんだんと小さくなっていった。
 代わりに芽生えたのは、惨めさと苛立ちだ。
 自分が血反吐を吐くような努力をしても、絶対に彼に追いつけない。手を抜く事が日常と化し、怠けに怠けている今の彼にすら――この手は届いてはくれない。
 生まれ持った才能というものほど残酷なものはない。幼き頃は誇らしかった『親友』の有能さも、今は己を小さく見せるだけの比較対象でしかなくなっていた。
 ――俺よりお前の方がすごいと思うけどな。
 彼にその思いを告げても、きっとそう言われるだけだ。
 ――だって俺、お前みたいに努力出来ねーもん。真面目にやるなんてかったるいし、だから俺はお前の事、結構尊敬してるんだぜ。
 自らが怠けている事を恥じるでもなく、臆面もなくそう言うに決まっている。
 ……苛立ちを増幅させる言葉を口にするに決まっているのだ。
 彼が努力すれば、もっと高みに行ける筈だ。自分が努力しても届かない場所へと、ひたすらに登って行ける筈なのに。
 それなのに彼はそうしようとしない。こんな場所で終わるような人ではないのに、自らの意志で留まり続けている。
 それが本当に、心の底から腹立たしかった。
 彼にはこの国を変えるだけの力がある。その気になればいつか騎士院のトップにだって立てると思う。能力のある者は人の上に立つべきで、けれど彼はその責務を『面倒臭い』の一言で切って捨ててしまうのだ。
 いつか、彼が大人になれば自分の思いを理解してくれる筈だ――そう思い続けて、何年の時が経っただろう。それとなく注意してみても、彼の意識は全く変わる気配がない。
 惨めさも苛立ちも、自分の許容範囲を超えるか超えないかというギリギリの大きさになった頃に……彼女が、自分達の目の前に現れたのだ。

 日野平葵。その人が。

 異国からやって来たという彼女は、頭のてっぺんからつま先まで、その全てが風変わりだった。
 衣服も髪も瞳も肌の色もこの島ではまず見かける事のないものばかりで、常に人の目を集めていた。
 顔立ちも整っており、喋る言葉は古風極まりなく、立ち振る舞いも常に堂々としている。
 見知らぬ国にやって来て不安でないわけはないだろうに、彼女はいつだって気丈だった。『身体がなまるから』という理由で騎士達に混じって剣を振るい、怠情な生活を送るアークを叱りつけていた。
 惰性的に、眠るような日々を送っていた自分とアークにとって、葵の存在は強烈な光のようなものだった。どこまでも真っ直ぐで素直で、ただ正義と使命を追求しようとする姿勢は、遠い昔の自分達を見ているようで、好感を抱くな、と言う方が無理だと思った。
 アロランディアの常識を知らない葵はほぼ毎日のように問題を起こしまくっていた。彼女の第一発見者である自分とアークは周りに『お世話係』として認識されていたのか、その後始末に駆り出される事も多かった。
 あの女は傍迷惑すぎる――などと自分の事を棚に上げて愚痴るアークの唇に、その言葉とは裏腹な楽しげな笑みが刻まれていた事をよく覚えている。
 ……三人で過ごした日々は、本当に楽しかった。
 アークは口先では葵の事を鬱陶しがってはいたが、彼女の言う事は割とよく聞いていた。面倒臭い、かったるいと言いながらも率先して葵に関わっていたし、真面目な彼女をからかってよく怒らせてもいた。
 ……彼が葵を好いている事は、誰の目から見ても明白だったのだ。
 子供のような方法で彼女の気を引き、少しでも反応があれば喜ぶ。子供じみたアプローチにかなりの鈍さを誇る葵が気付く筈もなく、自分はだんだんとアークが哀れに思えてきた。
 アークは女性にアプローチされる事はあっても、自らアプローチをかけることは殆どなかった。そんな事をせずとも女性は掃いて捨てるほど彼に寄ってきたので、わざわざそんなことをする必要がなかったのだ。だからあんなにも子供っぽい行動に出るのだと、自分は推測した。
 好きな女の子にどう接すれば良いのか分からない――アークにもそんな可愛らしい面があったのだ。
 だからアークの気持ちを葵に伝えた。彼は君を気に入ってる、ふたりは付き合うべきなのだと。
 葵はそんな筈はないと笑って否定したが、アークと彼女の距離は日を重ねるにつれてどんどんと近付いていく事となった。
 元々ふたりの気性は似ていたし、その有能さや見目の良さ、正義に対する考え方など、数えてみれば随分と共通点が多い。反する部分といえば責任についての考え方くらいで、だからふたりが仲良くなるのも時間の問題だったのかもしれない。
 ――あいつ、女にしとくのは勿体ないよな。
 アークは葵をそう称した。
 ――あやつはあれでなかなか良い所もあるのだな。せめてもう少し真面目になれば、周りの目も変わるのじゃろうがなぁ。
 葵はアークをそう称した。
 そんな言葉を聞く度に、自分は……
 ……胸の奥底に、痛みを覚えた。
 アークと葵に幸せになって欲しかった。彼女と一緒に居ればアークは変われるかもしれない。卓越した能力を最大限に生かす為の努力をしてくれるかもしれない。自分には成し遂げられなかった事が、葵には出来るかもしれない。アークと似た考えを持つ、葵ならば。
 ……本当にそう思うのに、そうなって欲しかったのに。
 自分は、そうなって欲しくないとも思うようになってしまった。
 葵に感化されて朝の訓練に出る頻度が上がったアーク。アークに教えて貰った店に行ってくる、と町に出かける事が多くなった葵。
 そんな彼らを見る度に苛立つようになってしまった。
 ――だってそれは、僕の役割だろう?
 訓練に出ろと叱るのも、渋るアークを巡回に連れ出すのも自分の役目だった筈だ。自分以外の人間の事などあまり聞こうとしなかったアークが、葵の言葉ならば文句を言いながらも従っている。
 ――だってそれは、僕が教えてあげたかった事なんだ。
 この国の常識に疎い葵に対し、出来る限り色々な事を教えてあげたかった。そうしなければ彼女は困るだろうし、何より自分がそうしたいと思っていた。少し前まではそれは自分の役割だった筈なのに、今では何を教えようとしても『アークに教えて貰った』という言葉が返ってくる。
 本当に下らない。アークをどうこう言えないと思う。
 自分は、アークにも葵にも嫉妬していたのだ。
 アークの『親友』の座を奪われそうな事実に。葵の『恋人』の座にアークが治まるかもしれない事実に。
 ……なんだかんだ言って、自分はやはりアークの事が好きだった。その有能さも、『悪い事』を見逃せない純粋さにも……ずっと、憧れていた。自慢の親友だった。
 そして多分、それと同じくらいに……葵の事も、好きになってしまったのだ。
 何事にも真っ直ぐな姿勢。悪を許さない正義感。女性であるにも関わらずに、その剣筋は卓越したものだった。
 ……彼女は、アークを思わせる人だった。
 唯一アークと反する部分――責任感の強さが、決定的に彼女に惹かれる要因になったのだと思う。
 だってそれは、自分が思い描く『理想のアーク』の姿そのものではないか。
 夢物語の中にしか存在しないと思っていた人が、目の前に現れた。しかも、女性の姿を伴って。
 好きになるな、と言う方が無茶な状況だった。
 ……恋をするな、と言う方が無茶な状況だった。
 自分に近付いてくる女性達は、いつだってアークが目当てだった。自分から彼の情報を引き出そうとし、上手くいかなければ慰めを要求する。
 だが葵はそうではなかった。自分という存在を認め、おぬしはよくやっていると誉めてくれた。
 アークの思い人である事は分かっていたのに……彼女に惹かれていく心を止める事が、どうしても出来なかった。
 アークに葵を取られたくなかった。葵にアークを取られたくなかった。
 そんな思いを抱く自分が嫌だったし、その思いに気付いてくれないアークも葵も嫌だった。
 彼らは自分を友達として見てくれているのに、自分は彼らに負の感情を抱いている。
 耐えられなかった。全てに。

 だから、全てを壊そうとしたのだ。

 アークを傷つける。葵を裏切る。古臭い因習に縛られたこの国も、欠片すらも残さずに滅びてしまえば良いと思った。
 罪のない、無知で愚かな人々を巻き込み、全てから恨まれたかった。
 そうすればきっと、アークも葵も自分を友達として見てくれなくなる。正義感の強い彼らならば、間違った事をした自分を決して許しはしないだろうから。
 それで良かった。そうなればきっと、自分は彼らから離れられる。苛立ちも惨めさも嫉妬も、黒い気持ち全てを晒け出せば、彼らは自分を遠ざけるだろう。
 ……彼らから離れれば、苛立ちも惨めさも嫉妬も、黒い気持ち全てが消える筈なのだ。
 ……そう、思っていたのに。
 アークも葵も、予想外の行動をした。
 君が嫌いだとはっきりと告げたにも関わらず、アークはそれでも自分に会いに来た。囚われた牢へと、罠の可能性も考えずに。
 ……友達だと、言ってくれた。
 最早こちらにはそんな事を言う資格なんてなかったし、意志だってなかった。なのに、彼はいとも簡単に言ってのけるのだ。
 ――友達だろう?と。
 たまらなかった。消え去りたかった。
 誰よりも強くて賢くて格好良くて、けれどもその力を正しく生かそうとしない怠け者。自分という存在を惨めに思わせる元凶。
 彼を妬み、陥れようとした自分を、それでも友達と言ってくれる。
 その純粋な愚かさが、悔しくて妬ましくて悲しくて腹立たしくて。
 ……嬉しくて。
 この人を死なせてはいけないと思った。この国を変える力を持ったこの人を殺せば、とんでもない損失になる。
 ……何より、自分が死んで欲しくないと思ったから。
 囮になる事を選んだ。彼の為に泥を被ろうと思った。それが彼を救う事に繋がるのならば、どんな事でも行うべきだと思った。
 ……そして、葵はそんな彼の傍に居る事を選択した。
 ダリスへと向かおうとする自分を、追ってはこなかった。
 それで良い、と思った。
 彼女は自分ではなくアークを選んだ。誰よりも強くて賢くて格好良くて、けれどもその力を正しく生かそうとしない怠け者の隣に居る事を、彼女自身の意志で。
 正しい選択だ。怠け者はきっと、これからは決して怠けようとはしまい。誰よりも真っ直ぐで真面目で責任感の強い、葵が側に居るのなら。
 アーク・ハリントンは、自分などには姿すらも見えない高みに行けるに違いなかった。


(そう思ってたんだけどなぁ)
 シリウスから渡された買い出しメモに視線を落としながら、リュートは大きくため息を吐いた。
 アロランディアの陽射しは眩しい。ダリスとは比べものにならないほどに太陽が強く照りつけ、思わず目を細めてしまう。
(……ここで暮らしていた頃は、これが普通だったのにな)
 たかが三年。されど三年。この目はすっかりダリスの太陽に慣れてしまったようだ。その事が嬉しいのか寂しいのか、リュートにはよく分からなかった。
(たかが三年、されど三年、か……)
 三年。それだけの年月で、アークは本当にとんでもない所まで登りつめてしまった。
 白煙。かつて自分が騎士であった頃には雲の上のように思っていた階位を、彼はあの若さで手に入れたのである。
(すごいすごいとは思っていたけど、正直これほどまでとは思ってなかったかも……)
 いつか白煙の階位を手に入れるだろうとは思っていたが、それは少なくとも五年以上は先の事だと思っていた。それでも早すぎる出世であるのに、三年だ。二十代に入りたての若造に、よくもまぁ長老達は白煙を与える事を許したものだと思う。
(まぁ、あいつはあれで上の人には結構気に入られてたからなぁ……。同じくらいに疎まれてもいたけど)
 それでも、彼が本気を出し、努力をし、ここまで出世できたのは、葵の力があったからなのだと思っていた。
 アークが恋をし、ガールフレンド全員を切るほどに本気になった少女。自分達よりもふたつも年下なのに、全くそうは見えなかった、気丈で勝気な格好良い女の子。
 自分がアークに刻んだ傷を彼女が癒し、共に歩んできたからこそ、彼はここまで頑張ったと思っていたのに。
(まさか振られていたなんて……想定外だよ……)
 彼女が自分の心を正確に把握し、その上でアークを恋愛対象として見られなかったのであれば、それは仕方のない事だと思う。恋愛は理屈ではないし、アークがどれだけ魅力的であってもそういう事はあるだろう。
 が、事もあろうに葵はアークの告白を告白として認識していなかったのである。鈍い鈍いと思ってはいたが、まさかここまでとは思わなかった。
(まぁ、葵さんの場合は鈍いっていうのも、ちょっと違う気がするけど……)
 どうも彼女は己が恋愛とは縁のない人間だと思っている節がある。他者との関係は『友人』『親友』『知り合い』『無関心』『敵』くらいしか存在していないと信じ込み、恋愛に繋がる感情を一切排除しているのではないだろうか。
(だったら、アークが教えてあげれば良いのに)
 恋愛とはどういうものか、その身で教えてあげれば良いのに。
 この三年の間、その機会はいくらでもあった筈だ。今でも葵の事が好きで、諦めきれていないのなら、一発逆転の可能性に賭ければ良かったのだ。苦い思いを抱きながら彼女を奪い去ってしまう『誰か』に怯え続けるよりは、よっぽど有意義な行動だろうに。
 なのにアークはそうしなかった。その事実が、リュートを苛立たせたのである。
(仕事の面では成長してくれたみたいだけど、恋愛的な面では全然変わってないじゃないか)
 葵を好きな事を全く認めず、だというのに嫉妬だけは一人前にしていたあの頃と、何も変わっていない。
 ……だからこそ、告げたのだ。
 僕にもまだチャンスはあるのかな、と。
 アークと葵が好き合っていると思ったから諦めようとしたけれど、そうではないのならば挑戦する価値はあるよね、と。
 自分が彼女への恋心を露わにする事で、アークの闘争心を煽った。そうすれば彼は再び彼女へと告白してくれるかもしれないと思った。
 ……そう、挑戦的な言葉とは裏腹に、自分には彼女に告白するつもりなんて全くないのである。
(……僕は、葵さんに好きだと言う資格なんてないから)
 アークを傷つけ、無関係の人々を傷つけ、多分、葵も傷つけた。友人関係が壊れる瞬間をまざまざと見せつけ、本来ならば必要のない事で頭を悩ませてしまった。
 それは罪だ。
 言い訳なんてしないし、許されたいとも思っていない。
 罪人は、日野平葵という正義の化身に告白なんてしてはいけないのだ。
(……あれ?)
 ふと、リュートは足を止めた。
 視線の先には、騎士服を身に纏う、すらりとした誰かの姿がある。
 長く美しい髪をひとつに束ね、男性とは違うやわらかな曲線を持つその人は……
「葵さん!」
 名を呼べば、彼女はすぐに振り返ってくれた。その瞳に僅かな驚きを宿しながら。
 四日ぶりの、目映い姿。葵は変わらず美しかった。
「リュート!こんなにすぐに会えるとは思っていなかったぞ!」
「本当本当、僕もまた二週間は会えないかと思ってたよ」
 シリウスはとにかく人使いが荒いし、休みもあまり与えてくれない。これはマリンの結婚式まで知り合いには会えないと覚悟していたのだが、偶然というものは素晴らしい。リュートは思わず顔を綻ばせた。
 葵はリュートの手元のメモを目ざとく見つけ、眉間に皺を寄せた。
「なんじゃ、またシリウス殿の使いっ走りか?あやつも少しは自分で動けば良いものを……」
「いや、あの人はあれでも遠慮してるんだよ。軟禁状態は解かれたけど、自分が無闇に外に出れば混乱が起きる可能性を見越しておられる。だから、僕達部下にこうしてお使いを頼んでるってわけ」
 我慢しきれずに遊びに行ってしまう事もあるが、それでも彼なりに我慢していることを、リュートは理解していた。
 ……そのストレスを自分達部下にぶつけて発散している事も、だけれど。
「なるほど、シリウス殿もシリウス殿なりに、色々と考えているというわけじゃな」
「うん。曲がりなりにも王族に連なる方だしね。葵さんは何してるの?巡回?」
「ああ。港を解放したおかげで、犯罪発生率も上がり気味じゃしなぁ。おぬしが居た頃よりも、巡回の人数も回数も格段に増えておるぞ。ほれ」
 葵が指をさす先には、新緑の階級章を下げたふたりの騎士の姿がある。彼らは若干緊張した面持ちで歩を進めていた。
「……懐かしい。僕達にもあんな時代があったんだよね」
 リュートの脳裏には、騎士になってすぐの頃のアークの姿が蘇っていた。
 共に入院テストに合格し、支給された制服に袖を通した。すぐに紫紺の階位を取ってしまったアークにも新緑の時代は勿論あって、誇らしげに階級章を見せびらかしていた。
 けれどそれは全て過去の事。自分にはもう騎士の位などないし、あの制服に袖を通す事も二度とない。
 仕方のない事であるし、自分で選んだ道でもある。この道を歩んだ事に後悔はない。それでも、リュートの胸は少しの寂しさが湧き上がる。
「……あの子達が、この国を守っていくんだね。アークと、葵さんと一緒に」
「……ああ」
 リュートはそっと唇に笑みを刻む。
「頼もしいね」
「ああ」
 己が行けなかった道を、彼らは最後まで歩んで欲しいと思う。自分の代わりに、などとおこがましい事を言うつもりはない。
(この国の、為に)
 立派な騎士になって欲しいと――心から願った。
「で、シリウス殿はおぬしに一体を頼んだのだ?面倒臭い事ではなかろうな」
「面倒臭いと言えば面倒臭いし、そうでもないと言えばそうでもない、かな」
「なんじゃ、はっきりしないのぅ」
 不満げな声を上げる葵に、リュートはメモを掲げてみせる。
「……とぱーず?」
 記された文字を棒読みで声に出す葵に、リュートは苦笑する。相変わらず、読み書きは苦手なようだ。
「うん、そう、トパーズ。トパーズのブローチをね、発注したんだって。それを取ってこいって」
 そう告げれば、葵の表情は一気に呆れたものに変わった。
「なんじゃ、そんなものをわざわざ作らせたのか?無駄遣いも良い所ではないか」
「うーん、そういうわけでもないんだけどね。シリウス様は着飾ることも仕事の内だから」
 王族とは国家の政治を担う国の代表であり、象徴でもある。彼らがみずぼらしい格好をしていては、他国や下々の人間に侮られてしまうのだ。
「マリンさんの結婚式に向けて、新しい装飾品を調達してるみたいなんだ。なんだかすごく張り切ってるみたいだよ」
「ふん、マリン殿に取り入る算段か。そんな事をしても、マリン殿はもう騙されはしないというのに」
 ……どうにも葵はシリウスの事を毛嫌いしているようである。三年前も彼女はシリウスの事を苦手としていたが、ここまでではなかったと思う。
 彼のした事を思えば当然ではあるのだが、それでも少しだけ可哀想に思ってしまう。彼はあれでもあの時の事を反省しているようだから。
「ああ、こんな所で立ち話をしているのもなんだな。宝石店まで共をしてやる。行こう」
「ええ!?い、いいの?巡回中なんでしょう?」
「ああ」
 自信たっぷりに頷いて、葵は笑った。
「巡回ついでじゃ、誰も叱らぬだろうて」
 ……その笑顔が、リュートの目にはどこか痛々しく見えた。


 葵とふたり、宝石店に向かって歩いていく。
 目に映る町の景色は、記憶の中のものと少しだけ様相を変えている気がした。
 各所に設置された魔法装置。我が者顔で道を行く外国人の姿。魔導士が歩いていても町の人間は攻撃的な目線を向けたりしない。いつもピリピリとした緊張感が走っていたあの頃とは違い、皆のんびりとした面もちをしている。
「……変わったね」
「ん?」
「町、結構変わったよね。活気は出たのに皆良い意味で気が抜けてるっていうか、のどかになったっていうか」
「……そうか。神殿も騎士院も魔法院も、勿論町の皆も、頑張っておるからな。それが良い方向に変わっているのなら、喜ばしいぞ」
 ……それでも、彼女は変わらない。
 隣を歩く日野平葵は、あの頃とあまり変わっていないように思えた。
 勿論、着ている服は違う。凛々しい騎士服姿は新鮮で、彼女によく似合っていると思う。外見だって同様で、三年前よりも大人の顔つきになった。
 ……変わらないのは、その表情だ。
 あの頃と同じ表情で笑い、あの頃と同じ表情で怒る。
 ……まるで、三年前の、一番辛かったあの頃に戻ったようだった。
 けれど。
(……ああ、まただ)
 あの頃と違う点が、もうひとつだけ存在している。
 各所に設置された魔法装置を見る時。我が者顔で道を行く外国人の姿を見る時。魔導士を見る時。のんびりとした面もちの町人を見る時。
 葵は、沈んだ表情をする。
 三年前にも時折見かける事があった表情だけれど、こんなにも頻度は多くなかった。
 ……こんなにも切なそうな表情は、しなかった。
「葵さん」
「……ん?なんじゃ?」
 取り繕うような笑みを浮かべ、彼女はこちらを見てくれた。
 ……取り繕う必要なんて、ないのに。
「今、故郷の事を思い出してたの?」
 葵の表情が凍り付く。
 それは、気付かれてはいけない事に気付かれてしまった者の顔だった。
「葵さんって、結構分かりやすいよね。マリンさんほどじゃないけど、考えてる事が顔に出やすい」
「か、か、」
 震える声が発した言葉に、リュートは首を傾げる。
 か。葵は何を言いたいのだろう。
「か、考えている事が顔に出やすいとしいても、じゃ!」
「うん」
「私が故郷の事を考えていると理解するのは、相当に難しくはないか!?」
(あ、そこに突っ込むのか)
 実際のところ、彼女が言うような難しさなんて全くなかったりする。
(僕はずっと、君の事を見ていたから)
「……君がそういう顔をするのは、故郷の事を考えてる時だけだから」
「な、なに!?」
 本当の答えを押し込めて返事をすれば、葵は大袈裟に驚いて見せた。ああ本当に、こんな反応すらも変わっていない。
「どうしたの?って聞いても何も教えてくれなくて、寂しそうに『何でもない』って答えるだけで……だから、なんとなく分かるんだよ。……葵さんは、故郷に関する事はあまり話してくれなかったから」
 少しでも口にすれば、心が故郷に囚われてしまうからなのか。それとも、今居る場所が異国である事を思い知ってしまうからなのか。リュートには、その正確なところは何も分からない。
 ……分かるのは、自分とアークの心だけだった。
「……そんな姿を見るにつけ、僕もアークも無力感を抱えていたよ」
「な……っ」
 葵の顔が更なる驚きに彩られる。
 ああ、やはり彼女は鈍すぎる。あの頃あれだけ一緒に居たのに、どうしてこんな事に驚くのか。それは、彼女が自分達の気持ちに少しも気付いていなかった事の証明だ。
「君が辛そうにしているのに、何も出来ない事が悔しかったんだ。僕もアークも、君の笑顔が大好きだったから」
 ただ笑って欲しかった。心底からの喜びだけを乗せた笑顔を見たかった。
 葵の境遇を思えば、それはとても難しい事だった。だからこそ欲したのかもしれない。
 彼女を笑顔にさせる、力を。
「……でも、今もそんな顔をしているなんて思ってなかった。この島の人達を見ずに、故郷ばかりを見ているとは思ってなかったよ」
 ……本心からの言葉だった。
 葵はアークの告白を告白であると理解出来なかった。それは、本当の意味でアークを見てはいなかったからではないのか。
 『日本』に焦がれるあまり、目の前に立つ人間の心を理解しようとはしていないからではないのか。
 リュートはその疑念をどうしても拭えずにいる。
 故郷。己が生まれ育った場所。それが心から消えない気持ちはよく分かる。自分もダリスで暮らしはじめてから、何度も何度もアロランディアの夢を見た。あの海に囲まれた島に帰りたいと、何度願ったか分からない。
 それでも挫けずに頑張ってこられたのは、ダリスで生きる事を自分で望んだからだ。シリウスの元で働き、アークとは違う道を行く。そうするべきだと、自分で決めたから。
 だが葵は違う。何の心の準備も出来ないまま、事故とも呼ぶべき唐突さでアロランディアにやって来てしまった。そこに彼女自身の意志など全く介在しておらず、だからこそここまで故郷に執着するのかもしれない。
 ……場所すらも分からないその場所に、帰りたいと思うのかもしれない。
 それを分かっていながら、リュートは言葉を続ける。
「葵さん、君の気持ちは何処にあるの?」
 言う。
 残酷だと知りながらも、言わなければならないと思うから。
「見つかりもしない故郷にその心を捧げ続けるの?」
「………」
 葵は無言だった。
 怒られる事を覚悟で告げたのに、何も言葉を返してはくれなかった。
 ただ笑って欲しかった。心底からの喜びだけを乗せた笑顔を見たかった。
 その願いは今だって変わってはいない。だが、リュートはそれ以上何も言おうとはしなかった。
(だって、僕にはそんな力はないから)
 葵を笑顔にさせる力も、その心を晴らす為の力も、自分には備えられていない。 
 ふたり並び立ち、ただ無言で歩き続ける。

 あの頃のような恋の痛みに苛まれない心を、抱えながら。

もどろ 帰ろ 進も