M.Q.I 17話


「アークア殿!あーそびましょ!」
「………」
 魔法院のアクアの部屋。開かれたその扉の前で、シリウスはボビー片手にそう口火を切った。
 満面の笑みを浮かべる彼とは違い、部屋の主であるアクアの方は不機嫌極まりない表情をしている。途端、シリウスの顔は悲しげな色に染まってしまう。
「あーこらこらアクア殿、駄目じゃないかそんな顔をしていたら!女の子は笑顔でなきゃね!」
「カワイイカオガ、ダイナシダヨー?」
「かえれ」
 大きな音を立て、にべもなく閉じられる扉。廊下に残されたのはパペットを操る30手前の男だけで。
「ちょ、ちょっとアクア殿ー!?どうして閉めるんですか開けて下さいよー!」
「イッショニアソボウヨー、ネーネー」
「うるさい、かえれ。いちにちじゅう寝てすごすつもりだったのに、どうして今日にかぎってやってくるの……」
 ドンドンと扉を叩けば、これまた不機嫌そうな声が返ってくる。
 が、シリウスはそんな事は全く気にしない。不機嫌そうな声に申し訳なさそうな素振りを見せるでもなく、心配そうな素振りを見せるでもなく、心底から楽しげな笑顔を浮かべた。どうやら返事をしてくれた事が嬉しくてたまらないらしい。困った大人である。
「それはほら、今日のアクア殿は書記のお仕事はお休みだって聞いたからです!これは久しぶりに貴方と遊べるチャンスだと思ったわけですよ!」
「思わなくていい。それ以上さわいだら、ファイアーボールをうちこむわよ……」
「うっわ、犯罪予告ですか!」
「いいえ、せいとうぼうえいよ」
 どこが、とシリウスは心の突っ込みを入れる。この機嫌の悪さを思えば、その言葉を口にしたが最後、本当にファイアーボールを叩き込まれてしまう気がしたのだ。
「アークア殿ー、遊びましょうよー、好きなものを奢ってさしあげますからー」
「コンナニイイテンキナノニ、ネテスゴスナンテモッタイナーイ」
「もったいなくないー。だみんばんざーい、ぐー……」
「あ、ちょっと、アクア殿!?」
 寝息らしきものが聞こえてきた事に焦り、シリウスはいっそう強く扉を叩く。
 しかしいくら叩いてもアクアの声が返ってくる事はなかった。一旦手を止めると、シリウスはボビーを目の前に掲げる。
「ねぇボビー、どうしようか?アクア殿は夢の世界に旅立ってしまったようだよ」
「ガッカリー。マイハニートアソベルトオモッタノニー」
「本当だよねぇ、アクア殿と一緒なら、楽しい遊びがいっぱい出来ると思ったんだけど……」
 当の本人が眠ってしまったのだから、それは出来ないだろう。シリウスは大きくため息を吐いた。
「こうなったら、ヨハン殿でもいじめて帰りますかねぇ……」
「エー、ボクハアノオッサンニハアイタクナイヨー」
「それは私も同じです。誰が好き好んであんな男に会いたいと思いますか。ですが、あの男がアクア殿とひとつ屋根の下で生活している。それを考えると腹が立ってきませんか?」
「タツ!」
「その腹をおさめる為にいじめるのですよ!あいつが凹んだり精神的ダメージを受けている所も見れば、私達の精神は逆に回復してゆくのです!楽しめるとは思わないかい、ボビー!」
「オモウ!」
「うーん、流石ボビー!話が分っかるー!」
 ……繰り返すが、シリウスは30手前の大の大人であり、彼が話しかけているのは自らの手にはめられたパペットである。
 廊下を歩く魔導士達は、皆一様に困惑と恐怖に彩られた視線をシリウスに向けている。いくら彼が端麗な顔立ちをしているとしても、流石にこの光景の異様さは誤魔化せないらしかった。むしろ美形だからこそ余計に怖く見えるのかもしれないが。
「ではボビー!共にあの極悪魔導士の元へ向かおうではないか!」
「オー……うわあああああああ!?」
 意気揚々と踵を返した所で、ボビーの声はシリウスのそれに変わってしまう。大袈裟に飛び退き、驚愕に瞳を見開いている。
 その瞳が見つめる先。
「……何してるの?」
 そこに、ブルーが居たのだ。
 海色の髪に同色の瞳。顔立ちはシリウスほどではないが整っており、己の美に並々ならぬ自信を持っている彼の心に、むくむくと対抗心が湧き上がってくる。
 が、いきなり宣戦布告やら対抗心やらを露わにしても、ブルーは困惑するだけだろう。何よりそれは、シリウスの美意識に反する事だ。
「や、やぁやぁブルー殿!一体こんな所で何をしているのかな!」
 故にシリウスはそう言葉を返した。動揺している事を悟られぬよう、めいっぱいテンションを上げながら。
 しかしブルーは特に反応らしい反応を示さなかった。こんなテンションで言葉を投げつければ、大抵の人間は怯むか困惑するのに、彼の表情は恐ろしいほどに変わらない。ああ、やはり彼はアクア殿の兄弟なのだな、とシリウスは奇妙に納得した。
「……それは僕が聞いているんだけど。何をしているの?」
「愛しのアクア殿に会いに来たのですよ!」
「デモ、モンゼンバライサレチャッター。ガッカリー」
 瞬間、何故かブルーの顔が一気に笑顔に彩られた。
「あ、それがボビー?」
「ボクヲシッテルノー?」
「うん。マリンやアクアが教えてくれたんだ。人形のお友達がいるって」
 ……マリンの名がブルーの口から出た瞬間、シリウスは胸に氷の刃が刺し込まれた錯覚を覚えた。
 そんなシリウスの様子にブルーは気付く素振りも見せず、嬉しそうにボビーの顔を覗き込む。
「こんにちは、ボビー。僕はブルーだよ」
「ウン、ヨロシクネ、ブルー!」
 ボビーの言葉を発する度、シリウスは一体自分は何をしているのかと自問する。可愛い女の子や他国の要人相手ならともかく、男相手にこんな事をする必要は全くないのだ。
 ……まぁ、ある意味ブルーはアロランディアの、というよりもワーランド全体の重要人物ではあるのだが、本人はそういった扱いを受ける事を嫌がっているらしい。
(つまり、私がサービスしてやる義理もないわけですね!)
 個人的な側面から見れば全く間違っていないが、政治的な面から見れば間違いすぎる思考を重ね、シリウスはとっととこの場から逃げる事を決意した。
「あ、ねぇボビー。お腹空いてない?ご飯はもう食べた?」
「マダ!」
(……っておいおい!)
 反射的に本当の事を言ってしまった己に、シリウスは戦慄した。自分はこんなにも素直な人間だったろうか、と疑問が思い浮かぶ。
「じゃあ、ここで食べていきなよ。ユニシスのご飯は美味しいよ」
「いやいやブルー殿、それは謹んでご遠慮させて頂きます。ボビーはこれでも人形の国の騎士でしてね、色々と忙しい身なのですよ」
 注目されるのは嫌いではないが、流石に魔法院の食堂で食事を摂るのは勘弁願いたい。魔導士に囲まれながら食べる朝食など、絶対に不味いに決まっている。
「忙しいの?朝食も食べられないくらいに?」
「ウン、ゴメンネー」
「……でも、ご飯を食べないとちゃんと動けなくなるよ。食事は大事だ」
(ああもう面倒臭いな!)
 諦める様子を見せないブルーに、シリウスは徐々に苛立ちはじめた。
「ねぇ、本当に食べていかないの?今日の朝食はクロワッサンに目玉焼きとサラダだよ。ユニシスが作ったんだ、本当に美味しいよ、ねぇボビー……」


 数十分後。
「良かったー、やっぱり朝食は大事だよね、うんうん」
 シリウスとブルーは食堂に居た。
 うきうきとした様子でテーブルと向き合っているブルーの隣で、シリウスは頭を抱えたい衝動と必死で戦っていた。
(どうしてこうなった!)
 この場所で食事を摂るなんて絶対に嫌だったのに、何故自分はこの場所に居るのか。ブルーの隣の席に座り、クロワッサンと目玉焼きとサラダとコーヒーと向き合っているのか。考えてみてもよく分からなかった。
「ほら、ボビー。早く食べなよ」
「ウン、アリガトー!」
 呼びかけられれば返事をしてしまう、サービス精神旺盛な自分が忌まわしい。
 ボビーを器用に操ると、何処にも繋がってはいない口にクロワッサンを詰め込む。パクパクと手を動かせば、クロワッサンはぺしゃんこになってしまった。
(……何をやっているんだ、私は)
 ボビーがクロワッサンを食べられるわけがない。こんな事をしても食べ物を無駄にするだけだ。
 一気に馬鹿らしくなったシリウスは、ぺしゃんこのクロワッサンを口に放り込んだ。勿論、ボビーではなく己の口に、だ。
 途端、ブルーの目つきが険しくなる。
「あ、ボビーのご飯を横取りした」
「失敬だなぁ。私とボビーは親友なのだから、横取りにはなりませんよ」
「ワケアイトイッテホシイナー」
「……ボビーがそう言うのなら、良いけど……」
 ブルーは渋々といった様子で納得してくれたようだ。
(……本気で言っているんですかね、彼は)
 シリウスは今の今まで、ブルーとまともに話した事がなかった。アロランディアに再入国した頃は軟禁状態に置かれていたし、それが解かれてからも魔法院にまで出向く事はなかった。
 なにせ魔法院にはヨハンが居るし、魔導士達がひしめく場所になどわざわざ足を踏み入れたくはなかったのだ。
(ま、アクア殿が住んでいる所だけは魅力的ではあるのだけどね)
 しかしアクアは現在神殿に勤めているのだし、ならば余計に魔法院くんだりまで出向く理由はないのである。
 というわけで、シリウスはブルーと直接顔を合わせる機会がなかった。マリンやアクア、葵などに話を聞いた事はあるのだが、実際に話してみるとなかなかどうして厄介な男である事が理解出来た。
 ボビーをひとりの存在として扱われる事は、実はかなり少ない。シリウス本人は自分の親友、一己の人格を持った立派な男であると言い張って聞かないのだが、ボビーと初めて会った人間はおしなべて『それはただの人形だ』と主張するのだ。
 正常な反応と言えば正常な反応であるし、会う回数を重ねれば重ねるほどに、だんだんとボビーはボビーとして扱って貰えるようになる。
 だというのに、ブルーはごくごく自然にボビーをボビーとして受け入れ、一己の人格として扱っている。本気なのか冗談なのか。本気であるのなら純粋なのか天然なのか馬鹿なのか。
「ねぇ、シリウス」
 ブルーは唐突にボビーではなくシリウスの名を呼んだ。呼ばれた張本人は驚きのあまり手にしたコーヒーカップを落としそうになった。
 今の今までボビーにばかり話しかけていたのに、いきなりだ。しかも他国の王族に向かって呼び捨て。いくらブルーが人間の世界のルールに疎いからといって、これは問題ではないだろうか。
(アクア殿は可愛いから許すけど、彼に呼び捨てられるのはなぁ……)
 別に侮辱罪だのなんだのと騒ぎ立てるつもりは毛頭ないが、少々イラッとするのも事実である。
「君は僕が嫌いなんでしょう?」
「ぶっ」
 爆弾発言と呼ぶべき問いに、シリウスは思いっきり吹き出した。彼の名誉の為に言っておくが、その口には何も含まれていなかったので、飛び出たものは空気だけだったのだが。
(い、いきなりなんて事を聞いてくるんだ、彼は!)
 正面切ってこんな事を問われたのは初めての経験で、シリウスは珍しく混乱していた。ぐちゃぐちゃになった頭を必死に働かせ、答えを探す。
「そ、そりゃあ嫌いですよ!マリン殿を奪った張本人ですからね!」
 結局シリウスはそう言った。彼は自分が女好きで男はどうでも良い扱いをする事で有名だと自覚していたし、そんな事はないと嘘を吐いてもすぐに看破されてしまう気がしたのだ。
 ……だから、シリウスが口にしたのは紛う事なき彼の本心だった。やたらと語調を強くしたのは、冗談めかさないと必要以上に嫌みっぽく聞こえるのではないかという、危惧があったからだ。
「……そうだろうね」
 が、ブルーの反応はそれだけだった。大袈裟すぎると怒るわけでもなく、反対に笑うわけでもなく、どこまでも真顔でそう答えたのである。
(……や、やりにくい相手だなぁ)
 こちらのペースに巻き込めない相手というのは、シリウスにとって最も相性が悪い。女性相手であればまだ対策のしようもあるのだが、男相手だとそうもいかない。というか、考えるのも面倒臭いと言うべきか。全くやる気が出ないのだ。
「僕も、君が嫌いだから」
「……随分はっきり言うんだね」
「君だってはっきり言ったじゃないか」
 ごもっとも。
 シリウスは苦笑しながらカップを傾ける。黒く苦い液体が食道を通れば、少しだけ動揺が抑えられた気がした。
 どうにもこうにも、アクア以外の人間にここまではっきりと嫌いだと言われたのは、初めての事ではないだろうか。曲がりなりにも王族の自分に対してそんな事を言えるほど度胸のある者は、アクア以外には出会った事がなかった。
(……元はといえ神様なのだから、王族相手に萎縮する必要も遠慮する必要もないって事なのだろうけど)
 それでも、あまり良い気分がしないのも事実である。
「君は、僕と同じ罪を背負っているから」
「罪?」
 元神と同じ罪。そんなもの、自分は背負っていただろうか。考えてみても思い至る事が出来ず、シリウスは困惑する。
「マリンを、殺そうとした」
「……っ」
 ……それは、シリウスが最も反省している事だ。
 幾度も思いを巡らせ、考え、他に道はなかったのかと――彼女を傷つけずに済む道を、何故選べなかったのかと、自問し続けている事だ。
 ……その罪を、ブルーという男もまた背負っているというのなら、マリンは……
「それでも彼女は僕を選んでくれた。だから僕は幸せになれたんだ」
 ……己を殺そうとした者を、生涯の伴侶に選ぼうとしているのだ。
「……のろけですか?」
 馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、まさかここまでマリンが馬鹿だとは思っていなかった。そして、他者にこんな事を言ってのけるブルーに対してもまた、同じ感想を抱いている。
 馬鹿と馬鹿。ある意味ふたりはこの上なくお似合いなのかもしれない。
 しかしブルーはシリウスの問いにゆるく首を振った。
「違う。釘を刺したんだ」
「………」
 ブルーの表情は変わらない。何処までも真顔で言葉を紡ぎ続ける。知らぬ間にシリウスも表情を消していた。おそらくはブルーにつられてしまったのだろうが、本人はそんな事は決して認めようとはしないだろう。
「君が彼女をどう思っていようと構わない。それでも、彼女は僕の隣に居続けてくれると思うから」
 シリウスは何も言葉を返さない。じっと、推し量るようにブルーを見つめている。
 ……要するにこれは、ブルーが言う通りの『釘』なのだろう。
 お前が何をしようと何を言おうと、マリンは絶対に自分を選ぶ。自分の傍に居続けてくれる。だから妙な気を起こすなよ、と。
 そう言っているのだと思う。
 シリウスは何も言わない。ブルーも何も言わない。奇妙な緊張感を漂わせながら、ふたりの男はただ沈黙し続けた。
「……すごい自信だ」
 やがて最初に言葉を発したのは、シリウスだった。呟くような声と共に、形の良い唇に笑みが刻まれる。
「いやはや、あまりの自信に少々びっくりしてしまいましたよ。君がそういう人だとは思っていなかったな。どうしてマリン殿が君を選んだのか、私にはさっぱり理解出来ませんね!」
 大きな声。冗談混じりの、しかし僅かな毒と皮肉が込められた言葉にも、やはりブルーは表情を変えなかった。
「君に分かって貰わなくてもいい。彼女は今、僕の傍に居てくれている。それだけが真実だから」
(うっわ、そういう反応をしますか。自信家というか、自惚れ屋というか……)
 三人娘が聞けば『どっちが』と言われそうな事を考えながら、シリウスは呆れていた。どうにもブルーはマリンにベタ惚れの様子で、マリンもまたそうであると信じて疑っていないらしい。そこまで相手を信じられるブルーを哀れむ気持ちと羨む気持ちが、シリウスの中には半々くらいに存在していた。
(マリン殿もなかなか男の趣味が悪いなぁ)
 ……それでも、自分よりも彼の方が遙かに良い男なのだろうな、と思う。そんな事は絶対に口にしないし、したくもないが、自分のようなロクでもない男よりも、自信家で自惚れ屋の彼の方が、マリンを幸せに出来るのだろう。
(……彼はきっと、これからは絶対にマリン殿を傷つけないだろうからね)
 マリンのベタ惚れのブルーならば、これから先は彼女の幸せを思い、行動してゆく筈だ。健気で頑張り屋さんのマリンもまた、応えるように彼を幸せにしてゆくのだろう。
(……ある意味理想的な夫婦なんじゃないかな)
 おとぎ話や伝承の中にだけ存在するような、ささやかで小さくて、いつだって幸福が共にあるような、そんな家庭を築いていく気がする。
 それを悔しいとか、寂しいと思う事はない。彼女が幸せになってくれるのなら、それは自分にとって一番喜ばしい事だ。強がりではなく、心底からそう思う。
 己が与えてしまった傷も、彼との生活で癒してゆけば良い。そしていつか、あの時の出来事を笑い話に変えて欲しいと願う。彼と彼女の子供達に対して、密やかに、けれど楽しげに話して欲しいのだ。
 ずっと昔、私はとんでもない男に騙されて、とんでもなく愚かな事をしてしまいました――と。
(……これは流石に、私に都合が良すぎるかな)
 苦笑を浮かべながらカップを傾ければ、苦味が胃に広がってゆく。
「……ブルー殿」
「なに?」
 見事半熟に保たれた目玉焼きには、焦げのひとつも存在しない。これがユニシスの腕前である事を、シリウスもブルーもよく知っていた。
「マリン殿を幸せにしないと、承知しませんよ」
 こんな事、本来ならば自分が口にして良い事ではない。分かっていながら、シリウスはブルーに告げた。
 これは、シリウスがブルーに刺さなければならない、唯一の『釘』なのだから。
「……うん。分かってるよ」
 頷くブルーの顔はやはり変わらなかったけれど、対するシリウスははっきりと表情を変えた。
 男相手に見せる事はとてつもなく少なくて、女性相手に見せる事もまた、それなりに珍しい顔。
 おだやかでやわらかで、邪心が全く存在していない――笑顔を。

もどろ 帰ろ 進も