M.Q.I 19話


 夕焼けを見ると、ふと足を止めたくなる事がある。
 沈む太陽。青から赤、その狭間の紫。残光に滲む藍。彼方に光る一番星。夜の入り口。
 それら全てをこの目に焼き付けたいと、そう思う事がある。
 ……三年前までは、そんな事を思ったことは全くなかったのに。
 沈む太陽。青から赤、その狭間の紫。残光に滲む藍。彼方に光る一番星。夜の入り口。
 それらを見上げる彼女の姿を、綺麗だと思ったから。
 この国のものが何ひとつ存在しない、美しい立ち姿。すらりと伸びた背も、踊るように揺れる髪も、不思議な服や靴下や靴も、自分の目には鮮やかすぎるほどに鮮やかに映った。
 赤、紫、藍。
 ……それらの光に照らされた彼女は、この世のものとは思えぬほどの美を纏っていたから。
 その姿を見ていたい。足を止め、今まで目もくれなかったものを含めたその光景を、網膜に焼き付けたいと願った。
 いつからか、夕焼けの時間になると彼女の姿を探していた。首を巡らせ、足を動かし、ただひとりを求めていた。
「葵!」
 ……そう、こんな風に。


 名を呼べば、葵はすぐにこちらに振り向いてくれた。その顔に少しの驚きを乗せながら。
「アーク。どうした、こんな所で。早くせぬと門限に間に合わぬぞ」
「その言葉、お前にそっくりそのままお返しするよ。……って、なんだその紙袋。何か買ってきたのか?」
 尋ねた途端、葵の顔が分かりやすすぎるほどに引きつった。いや、とか、その、とか、意味のなさない言葉をむにゃむにゃと口の中で転がしながら、手にした紙袋を後ろ手に隠してしまった。
 ……怪しい。ものすごく怪しい。
「ちょっと見せてみろよ」
 返事の隙を与えぬ間に、アークはあっという間に葵の紙袋を奪ってしまった。
「あっ!?これ、やめぬか!」
 やめろと言われてやめるほどアークは素直ではない。奪い返そうとしてくる葵の手を器用にすり抜け、紙袋の中に手を突っ込んだ。
 瞬間、彼の手にはやわらかな絹布の感触が伝わってくる。
(……って、絹布?)
 予想外すぎる感触に、アークは驚く。こんなもの、騎士服に付属している手袋以外には葵には縁のないものだと思っていたのに。
「返さぬ……か!」
「あっ!?」
 僅かな隙を見逃してくれるほど葵は優しくはない。アークが驚いている間に、素早く紙袋を奪還してしまった。
「おいこら何すんだよ!まだ中身見てねーってのに!」
「それはこちらの台詞じゃ!全く、油断も隙もあったものではないな……!」
 ぶつくさと呟きながら、再び後ろ手に紙袋を隠してしまう。
「いいじゃねーか別に、中身くらい見せてくれたってさあ」
「い・や・じゃ。何故そんな恥ずかしい事をせねばならぬのだ。絶対に御免じゃ」
 酷い言い種だと眉をひそめた所で、アークはふと気付く。
「……なんだよ、恥ずかしい事って。そこに入ってるのって、人に見せられないようなもんなの?」
 葵の動きがぴたりと止まる。その表情が、しまったと言いたげに苦々しいものに変わっていた。
「それさ、シルクの手触りがしたんだけど、なんで?お前、シルクが使われるような何かを買ったわけ?」
「……っ」
 問えば再び変わる表情。今度は焦りに満ちたその顔に、アークの疑念はより大きくなるわけで。
「……下着でも買ったのか」
「……!」
 今度の変化は今までで一番大きなものだった。一瞬にして血が集い、赤く染まる顔。耳まで真っ赤になっているのだから、相当なものである。
 その顔が、徐々に明確な怒りに染まっていく。まずい、と思った時にはもう遅かった。
「……っの、助平が!」
 全力で放たれる拳。お前一応は女なんだから、普通ここは平手じゃないのかよ、などと思うアークであるが、口には出さない。今の葵にそんな事を言っても、怒りを煽るだけだろう。
 葵の拳はなかなかに鋭いが、仮にも白煙のアークにはそれを避ける事は大して難しい事ではなかった。どう身体を動かせば拳から逃れられるのか、彼には正確に理解出来ていたのだ。
 が、アークはそうしなかった。微塵も身体を動かさずに、ただ彼女の拳を待っていた。
 拳は勿論、アークの頬を正確に捉えた。惚れ惚れするような右ストレートに、アークは内心舌を巻く。本当に、どこまでも女にしておくのが勿体ない逸材である。
「……ってーな!何すんだ!」
 自ら殴られるのを待っていた癖に、この反応だ。本当はちっとも怒ってなどいないのに、殴られるのも当然の言動をしたと自分でも理解しているのに、アークは葵を怒鳴りつける。
 それがいつもの自分達のやり取りだから。……こうする事で彼女がいつも通りの態度を貫いてくれるのならば、自分はいくらだって同じ事を繰り返すだろう。
 葵は拳を引くと、腹立たしげに息を吐き、ついでに言葉も吐いてきた。
「当たり前であろう!?し、した……下着などという言葉を、公衆の面前で口にするでない!はしたない!」
「ああ……まぁ、それは悪かったと思ってるよ。今度からは密室で言ってやるから、安心しろ」
 冗談混じりに告げれば、葵の顔は更なる怒りに染まってしまった。……まぁ、そうなる事を見越して言ったのだけれど。
「ななな何を安心しろと言うのじゃ!密室だろうと公衆の面前だろうと、そんな事は口にするものではない!全く、おぬしという奴はいつまで経っても失礼千万な男じゃな!」
 ぶつぶつと呟きながら、葵はアークに背を向けてしまった。そのまま歩き出すものだから、アークは焦った。
「お、おい、何処行くんだよ!」
「騎士院に決まっているじゃろう。こんな所に留まり続けていたら、いい加減本当に門限に間に合わなくなってしまうからな」
 じっとりとした瞳をこちらに向けながら答えると、葵はさっさと歩を進めてしまう。アークも慌ててその後を追う。
「ついて来るな」
「お前ね……同じ場所に帰るんだから、ついて行くのは当たり前だろう?つーか、別について行ってるわけでもないし。たまたま同じ道を歩いているだけだっての」
「だったら私とは違う場所を通って帰れば良い。わざわざ私と同じ道を行く必要などないではないか」
「この道が一番近道だって、お前だって知ってる癖に。違う道から帰ったら門限破り確定だぜ?」
「おぬしのような男は門限でも何でも破って、こってりと叱られれば良いのじゃ」
「いやぁ、それが今の俺って叱られる側じゃなくて叱る側なんだよなぁ。本っ当、白煙サマサマだぜ」
「ふん、上が規則を破ってばかりいれば示しがつかぬ。故に目に余る振る舞いを繰り返していれば、下っ端よりもキツいお灸を据えられる事もあるのではないかな、白煙の騎士殿」
「う……」
 葵の言葉は図星だった。階位が上がれば上がるほど、それに相応しい振る舞いが求められる。それが出来ない者には容赦ない罰や説教が待ち受けており、最終的に行き着くのは降格という恐ろしい二文字だ。
「……アーク、本当に先ほどのような言動は控えろ。折角上り詰めた地位に自ら泥を塗るような真似はするでない。何処から苦情が来て、どのように対処されるか、分かったものではないのだぞ」
 俯き気味に放たれた言葉は、こちらを心配したと思しき忠告だった。
 葵はいつもそうだ。いつもいつも罵倒してくる癖に、ふとした瞬間に自分を心配したり、高く評価しているような言葉を口にする。
 なんだか飴と鞭を上手に使い分けて彼女の手の平で転がされているようで、アークは少しだけ不愉快に思っていた。
 わざとやっているのならまだ良い。それはこちらの特性を把握し、上手くやる気を引き出してくれているという事だから。……リュートがやってくれていた事と、あまり変わりはないから。
 しかし葵の場合は、正真正銘無自覚にやっているものと思われた。賭けても良い。彼女は一切の計算も邪心もなしに、ただ思うがままに言葉を吐き出しているだけだ。
 それは、わざとやられるよりもずっと性質が悪いと思う。要するに自分は彼女の『思うがまま』に気分を上下させ、感情を決定しているようなものなのだ。同じ踊らされるにしても、踊らせる側には自分の事を強く意識していて欲しい。どれだけ頑張っても見て貰えないのならば、踊る意味など全くないのだから。
 ……好きな人には、自分を見ていて欲しいと願うから。
「分かってるって。お前は心配しすぎなんだよ。本っ当、真面目な所は変わんねーよなー」
「本当に分かっておるのか、おぬしは……」
 胸中に巣食う複雑な思いを気取られぬように殊更に明るい声を出せば、葵は呆れたような顔を作った。
「てかさ、それ、本当に何なの?シルクって事は、衣服だよな?」
 思いっきり話の矛先をねじ曲げてみれば、葵の視線はアークから外されてしまう。触れて欲しくない事に触れたことは明白で、しかしアークは構わずに話を続ける。
 いつもいつも、葵が一番触れられたくない事には触れてやっていないのだ。これくらいは許されるだろう――などと身勝手な理屈をこねながら。
「改めて考えてみると下着にしては布の面積が広すぎた気がするし、この線はなしだな」
「ア、アーク!公衆の面前でそんな事を言うなと忠告したばかりではないか!」
「そーだな。ま、でも周りには人の姿は居ないし、ノーカンって事で」
「私が居る!」
「え、なにお前この事を上層部に報告するつもりなの?心狭すぎるだろ……」
「言わぬというか、言えぬわこんな話!全く、人が心配してやっているというのに何なのじゃその態度は!人を馬鹿にするのにも限度があるだろう!一度痛い目を見なければ分からぬと言うか!?」
(……あ、マズ)
 調子に乗って言葉を返していたら、葵の怒りのボルテージがどんどん上がっていってしまった。この調子だと本気の怒りに進化する可能性が高い。それは絶対に阻止せねば、とアークは慌てて口を開く。
「ド、ドレス!」
「……!」
 ……今一番葵が触れられたくないと思っていて、彼女の頭を混乱させられるものの名。
 それを口にすれば、葵の歩みは止まった。
「それ、ドレスだろ?マリンとアクアに無理矢理買わされたっつー」
「な、な、な、な、」
 ぱくぱくと金魚のように口を開閉させながら、葵は「な」を繰り返す。何度も何度も。
(……こいつの動揺の仕方って、昔っからワンパターンだよなぁ)
 まぁ、そこが可愛くもあるのだが。
「何故おぬしが知っておる!?」
「マリンとアクアに聞いたから」
 少し前に、マリンから唐突に議長命令が下されたのだ。ブルーとマリンの結婚式には騎士服を着用してはいけない、と。
 アークとしてはきちんとした礼服を着ていくつもりでいたし、そんな事を命ぜられる理由が全く分からなかった。マリンは権力を振りかざす事を嫌っているし、必要以上に議長権限を使う事を避けている。その彼女が、わざわざ議長として命令を下した。不可解にもほどがあった。
 だから尋ねたのだ。何故そんな命令を下すのか、と。
 返ってきた答えは葵であった。
 彼女には、目一杯お洒落したドレス姿で式に参列して欲しい。けれども何の対策も施さないままでは騎士服で参列してしまう可能性が高く、故にアークさんにも協力して欲しい。アークさんも騎士服で参列しないと知れば、葵さんも騎士服を諦めてくれるかもしれないから――恐ろしいほどの情熱を込めた口調で、そんなような事を言っていた。
 アークとしても葵のドレス姿が見られるのならば、これほど嬉しい事はない。一も二もなく協力を約束し、定期的に作戦がどうなったのか尋ねていたのだ。
「採寸の時、この世のものとも思えない絶望的な悲鳴を上げてたらしいな、お前」
「……!」
「訓練や仕事では音を上げた事ねーってのに……いやぁ、俺もその姿を見たかったなー」
「……っ」
 葵が手を振り上げる。紙袋が宙を舞い、アークの身体に激突しそうになる。
 が、今度はアークに殴られてやるつもりはないらしい。ひらりと避け、葵の手を掴んでしまう。
「お前な、それで殴ろうとすんなっての。万が一にでもドレスが型崩れしたり皺が出来たりしたらどうすんだよ」
「ええい!そうなったら騎士服で参列するだけじゃ!手を離せ!」
「やだ。んな事したらマリンが泣くぞ」
 マリンの名を出せば、葵は顔を歪ませた。これはまた分かりやすい狼狽え方だ。
「泣かせたくないなら手を下ろせよ」
「う……」
「お前、あいつの親友なんだろう?」
「うう……」
 葵の腕から力が抜ける。それを確認すると、アークはそっと手を離した。
「……マリン殿の名を出すなど、卑怯じゃぞ」
「なんでそうなる。俺は事実を口にしただけだっての」
 卑怯呼ばわりされるなんて心外すぎる。アークはすっかりヘソを曲げてしまい、その顔には不機嫌そうな表情が広がる。が、それは葵の方も同じようで、アークと同じような表情を浮かべながら前へと進む。
「……私にはこういった服は似合わぬ」
「かもな」
 アークはあっさりと頷いた。巫女服姿や騎士服姿ばかり見ている所為で、他の服を着た葵というのがいまいち想像出来ない。ましてやドレスなどという女性らしさの権化のような服を着ている姿など、どれだけ想像を試みても上手くいかないのだ。
 前に一度リュートと共に彼女を服屋に連れて行った事があるのだが、その時アークが選んだ服だってパンツスタイルだった。何せ葵は肌が露出する事を極端に嫌がるし、足を出す事すら拒否反応を示す。スカートなんて勧めようものなら、怒って帰ってしまう恐れがあったのだ。
 そう考えると、こうして葵をドレスを着ざるを得ない状況に追い込んでいる事実が不思議に思えてくる。想像すらも出来ない姿を、もうすぐ彼女は皆の前に晒すのだ。
「分かっているなら協力してくれ!」
「はあ?」
 協力って一体何を、と言いかけた言葉は喉の奥に留まった。
 葵が、必死の形相で、取り縋るように詰め寄ってきたから。
(う、わ)
 吐息がかかりそうな距離に葵が居る。少し手を伸ばせば全てに手が届く。鼓動や息遣いすらも聞こえてきそうで、アークは柄にもなく動揺してしまった。
 もっと近い距離まで近付いた事も何度もあるのに。直接彼女に触れた事も、一度や二度ではないのに。
 何故予想外に接近されるだけでこうも動揺してしまうのか。
 ……好きな女というのは、どんな強力な魔法よりも性質が悪いと思う。
「私だけが騎士服を着ていったら泣かれてしまうかもしれぬが、しかしおぬしも着ていくのならマリン殿も諦めてくれるかもしれぬ!」
「はあ?」
 なんだか無茶苦茶な事を言い出した葵に、アークは眉をひそめる。
「なんでそこでマリンが諦める事になるんだよ。あいつなら余計泣くだろ、号泣確定だな、うん」
「そ、そうかもしれぬが……そうはならぬかもしれぬ!」
 どっちだよ、と心の中で突っ込みながら、アークは小さく息を吐いた。
 どうも葵はかなり追い詰められているらしい。慣れない衣装を着ろと言われたのだからある意味当然かもしれないし、少しだけ可哀想にも思う。
 だが、生憎とアークには彼女に協力してやるつもりは全くなかった。
「俺、ちゃんと礼服を着ていくから。お前もいい加減覚悟決めろよ」
「うううぅ……薄情者めぇ……」
 じろりと恨みがましい目を向けられてしまう。
「阿呆か、俺ほど義理堅い男はいないっての」
「どの口でそれを言うのじゃ……」
「この口。ほら、んなのろのろ足を動かしてないで、しゃきしゃき歩け。マジで間に合わなくなるぞ」
「うううぅ……」
 尚もうーうー唸りながら、それでも葵は歩く速度を上げた。その顔はどんよりと曇っていた。
(……そこまで嫌なもんかねぇ……)
 ドレスを着るくらい、何でもないように思う。葵だってもう三年もこの国で暮らしているのだし、巫女服と騎士服以外の服だって着てみるべきだと思うのだ。
 三年も着てきた巫女服はもうぼろぼろだ。殆ど毎日袖を通しているのだから当たり前ではあるのだが、それでも彼女は頑なに着続けている。
(……あんなもんがあるから、こいつはこの国に馴染もうとしないんだ)
 巫女服は多分、葵の精神的な支えなのだ。『日本』のものは他に何も持ってはおらず、それに袖を通す事で己のルーツを確認する。そういう役割を、彼女はあの巫女服に科している気がした。
 それは即ち、自分はアロランディアに染まったりしないという意思表示でもあると思う。己が『日本』という国の人間である事を確かめ、この国ではただの異邦人であることを心に刻んでいるのだろう。何度も何度も、あの服を身に纏う度に。
 分かっていながら、それでもアークはそんなものは捨ててしまえと口にする事が出来ずにいる。真面目になったとはいえ、親しい者に対しては未だに慇懃無礼で通している彼ですら、だ。
 言ってしまったが最後、葵との間に決定的な亀裂が入ってしまう気がして言えなかった。……彼女に嫌われる事が怖かった。
 情けない事この上ないが、それがアークの本心だ。
(……本当、いつまでこんな事を続ければ良いんだか)
 夕焼け空を見上げながら、アークは大きくため息を吐く。
 はっきりと振られても恋心を消す事が出来ず、再度告白する勇気も持てず、友人として葵の側に居る。自分の思いも葵の思いも精算する事を恐がり、ずるずると惰性的な関係を続けていく内にリュートが帰還し、宣戦布告をされ、こちらもまた宣戦布告をした。
 ……それなのに、自分は未だに彼女に告白出来ていない。
 アークはちらりと葵の横顔を盗み見る。
 ……夕陽に照らされたその顔を、誰よりも美しいと思った。
 そこらの男よりもよっぽど強くて、アロランディア初の女騎士で、国中の女の憧れの的。恵まれた美貌をちっとも自覚せず、さっぱりとした気性で異性とも友情を築いてしまう、己が恋愛に無関係な人間であると信じ込んでいる女。
 ……複雑な事情を抱える、帰る場所を失ってしまったひと。
 彼女の隣に立つ男は、自分だけで良い。他の男には決して立たせたくない。心が崩れそうになっているのなら、自分が支える。この心が崩れそうになったら、彼女に支えて貰いたい。
 三年前。大切な親友との別離に痛む心に寄り添ってくれた、あの時のように。
「……葵」
 気付けば彼女の名を呼んでいた。何度も何度も舌先に上らせた、たったみっつの音。不思議な響きの、彼女を呼ぶ為の言葉。
「なんじゃ?」
 葵は、当たり前のように返事をしてくれた。
 ……それが当たり前でなかった可能性は、とてつもなく高いのだろう。
 本来ならばきっと、日野平葵という人には出会う事すらなかったのだ。何処にあるかも分からぬ国。生活習慣から何から何まで、アロランディアとは全く違う環境で育った人。渦とやらに巻き込まれなれば、自分は彼女の事を知ることなど出来なかった。
 ……彼女の名を呼ぶ事は、永遠に出来なかったのだろう。
 今はきっと、奇跡のような確率の上に成り立っている。
 だから。
「結婚式さ、俺と一緒に参列しないか?」
 アークはそう言った。
 若干の緊張を滲ませながら、裏返りそうになる声を必死で操って、誘いの言葉を口にした。
「ん?別に構わぬぞ」
 葵は気負った様子も見せずに返事をした。分かっている。彼女は何も理解していないのだ。こちらがどんな気持ちで誘ったのかなんて、彼女に分かるわけがない。仕方がない事だとは思うが、それでも、僅かな苛立ちを抱く事は止められなくて。
「ああ、それならリュートも誘わぬか?私達三人で行けば、マリン殿もよろこ、」
「嫌だ」
 笑顔で提案する葵の声を、アークはすぐに遮った。彼女の顔が驚きに染まる。
「俺はお前とふたりで行きたい」
「………」
 葵は困惑しているようだった。本当に分かりやすい。彼女が何を考えているのか、表情を見るだけでアークには手に取るように理解出来た。
 それはきっと、この三年の間、殆ど毎日彼女の側に居たから。
 ……ずっと、彼女の事を見つめてきたから。
「葵」
 呼ぶ。
 奇跡のように出会えた、彼女の名を。
「俺は、俺以外の男がお前の隣に立つ姿なんて見たくない」
「は……?」
 こんな反応も予想の範疇内で、だからアークは怯まない。怒ったりもしない。彼女の鈍さは筋金入りで、はっきりと言わないと理解して貰えないから。
「俺はお前が好きだから。……俺以外の男に、間に入ってきて欲しくない」
 例えそれがリュートであっても。
 ……いや、きっとリュートだからこそ。
 許せない。葵にその名を口にして欲しくない。
 あいつの隣に立ちたいだなんて、言って欲しくない。
「お……おぬしはまだリュートを許せぬのか?仲直りを果たしたのではなかったのか。そんな心の狭い事を言わずに、あやつも誘えば良いではないか」
「………」
 アークは思わず沈黙した。
 まさかこんな返しをされるとは思っていなかった。これだけはっきりと『好き』だと伝えたのに、まさか葵はその言葉に恋愛感情が含まれている事を全く理解していないのか。眩暈を覚える。
「……本っ当、お前って腹立つな」
「な、なにぃ!?」
 葵の顔が怒りに染まるが、そういう顔をしたいのはこちらの方だと言いたかった。一度振られて、それでも諦めきれずに告げた己の思い。二度目の告白を果たすまでにどれだけ勇気と月日が浪費されたのか、彼女は全く理解していないに違いない。ああ腹立たしい。
 彼女に理解して貰う為には、どんな言葉を使えば良いのか。何を言えば自分の気持ちを伝えられるのか。アークは必死で考える。
 今葵に理解して貰えなければ、きっと一生自分の気持ちは届きはしまい。そんな、強迫観念にも似た思いがアークを支配していた。
「……俺はさ、」
「うむ?」
 頭上に広がる空は藍色に染まり、夕暮れが終わろうとしている。彼方に輝く星の光は儚く、けれど闇に支配されればもっと強い光を発するのだろう。
 藍が葵の肌を青白く染めている。その様を真っ直ぐに見つめながら、アークは言った。
「ずっと、お前と結婚したいと思ってた」
「………」
 葵の口がぽかりと開かれる。切れ長の瞳は驚きに見開かれており、彼女が動揺している事を教えてくれる。
「お前を俺のものにしたいって、そう思ってた。そうすればお前をアロランディアに縛り付けることが出来るんじゃないか……故郷の事を忘れさせることが出来るんじゃないかって、そう思ったから」
 アークは知る。この選択が間違っていない事を。
「俺はお前とずっと一緒に居たい。お前の隣に立つ男は俺であって欲しかったし、俺の隣に立つ女はお前であって欲しかった」
 日野平葵は今、アーク・ハリントンの心を受け止めている。
「……葵」
 鈍すぎる彼女でも、『結婚』という言葉の重大さはすぐに理解出来る筈で。
「俺は、お前が好きだ」
 ……その言葉が、恋愛感情を抱く相手にしか使われない事も、理解出来た筈で。
「この世の誰よりも」


 ――さあ、夜がはじまる。

もどろ 帰ろ 進も