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「はい、目を開けて頂いて大丈夫ですよ」 やわらかな女性の声に従って、彼女はゆっくりと瞼を開いてゆく。 闇に慣れた瞳がまばゆい光に驚き悲鳴を上げる。一瞬だけ頭に痛みが走ったが無視をする。白く染まる視界が徐々に色を取り戻してゆく。 ……その真ん中に、白い何かが居た。 白の衣服を身に纏った、純白の何か。色が存在する場所など、上部の栗色とその少し下にある緑色と下部の薄紅色だけだ。 ……これは一体、何だろう。 不思議に思った彼女が瞬けば、白い何かもまた瞳を瞬かせる。その理由に思い至る事が、彼女にはどうしても出来ない。 「……マリン、きれい」 後方から聞こえてくる、うっとりとした声。その声の主にしては珍しい声音だと思えど、それ以上その声の事を考えることが出来ない。 彼女はそっと手を伸ばす。白い何かに向かって。 白い何かもまた、彼女に手を伸ばした。 触れ合う手と手。冷たい感触。 ……鏡越しの、接触。 彼女はようやく気付く。 (これは私だ) 純白に彩られた何かは、鏡に映った己の姿だ。 ……だけど。 だけど何だか信じられない。他人には子供っぽいと馬鹿にされる事が多くて、いつまで経っても垢抜けないと呆れられる事も多くて、なのに鏡の中の自分はまるで別人だ。 大人っぽくて、綺麗にお化粧までして、自分はきょとんとした顔をしているつもりなのに、鏡には澄まし顔の白い何かが映っているだけで。 「あ、あの……っ」 声を上げれば鏡の中の自分も口を開く。それを目にして尚、彼女――マリン・スチュワートはそれが己である事が信じられなかった。 「はい?」 「これって本当に私なんでしょうか!?」 「は、はい?」 「マリン……あなた何をいっているの?」 切実な響きを持った声で問いかければ、化粧師さんは困惑に満ちた声を、アクアは呆れに満ちた声を返してきた。 「だ、だってだってだって!私、こんなに綺麗じゃないし!」 「まぁ、それはそうね」 あっさりと肯定されてしまい、マリンは少しだけ傷ついた。それは本当の事ではあるし、自覚してもいるし、そもそも自分から言い出した事でもあるのだが、そこは嘘でも否定して欲しかったというか何というか。乙女心というものは複雑である。 「ほんとう、プロの力ってすごいわよね……。あのマリンをみごとに化かしてみせたんだから」 「そんな、私は議長の美しさを引き出すお手伝いをしただけですよ。何も特別な事なんてしていません」 アクアが讃賛の言葉を述べれば、化粧師さんはにこにこと営業スマイルを浮かべた。 「とくべつなことをしないのなら、商売になんてならないとおもうの……」 「………」 おそらく化粧師さんはマニュアル通りの返しをしただけだろうに、アクアは容赦なく毒舌を浴びせてしまう。営業スマイルを浮かべた頬に、一筋の汗が流れた。 「……まぁ、でもよかったじゃない、マリン。一生にいちどの晴れぶたいを、そんなに綺麗なすがたでむかえることが出来るのだもの。……きっと、いい式になるわ」 「そ、そうでしょうか?」 「わたしはそう思うわ。……自信をもちなさい」 上目遣いでアクアを見上げれば、彼女は優しい眼差しを返してくれる。たったそれだけの事で、マリンの不安は溶け落ちてしまった。 (アクアさんはすごいなぁ) 自信に満ち溢れていて、それに見合う実力だって持っている。ドジで間抜けな自分とはえらい違いだと思う。 (……そういう考え方が、いけないのかな) 自分に自信が持てないから、鏡の中の己を己と認識出来ないのか。信じられないのか。 こんなに綺麗になれるのは自分の元の顔が整っているからだとか、そういう風に考えれば信じられるようになるのだろうか。 (う、うーん……難しそうだなぁ) 本当に綺麗な人が、自分の傍にはふたりも居るのだ。彼女達の顔を毎日のように見ているのだから、己の顔が整っているなんて嘘でも言えそうになかった。 「……それでは、私はこれで。表で待機しておりますので、何かご用があればお呼び下さい」 化粧道具を片付けた化粧師さんが、そう言って頭を下げる。マリンも慌てて彼女に向き直ると、ぺこりと頭を下げた。 「あ、ありがとうございました!」 「いえ、こちらこそ議長のお化粧を担当出来る機会を頂けて、感謝しております。……良いお式になると良いですね」 「はい!」 最後に一礼すると、化粧師さんは控え室から去って行った。マリンは大きく息を吐き出すと、改めて鏡と向き合う。 何度見ても信じられない自分の顔。顔だけではなくて髪も綺麗にアップされていて……その身体は、純白のドレスに包まれている。 ウェディングドレス。 永遠の愛を誓う為に、身に纏うもの。 自分はこれから、生涯を共に歩む伴侶を得るのだ。 その事実が信じ難い。怖いとか恐ろしいとかそういうことではなくて、ただただ信じ難かった。不思議と言い換えても良い。 小さな孤児院に捨てられた、ちっぽけな孤児。それが自分だった筈なのに、星の娘候補として見出され、星読み様や銀円の騎士様やダリスの王子様に会い、今では議長としてアロランディアのトップに立っている。 ……あまつさえ、『家族』を得ようとしているのだ。 「あ、あの、アクアさん」 「なぁに?」 「まさかとは思うんですけど、これって夢じゃないですよね?」 「……なにねぼけたこと言ってるのよ……」 不安に突き動かされて尋ねてみれば、また呆れた声を返されてしまった。 「鏡のなかの自分がほんとうの自分なのかとうたがってみたと思ったら、こんどは夢って……あなた、きんちょうしすぎておかしくなったの?」 「……そうかもしれません」 少しだけ俯きながら、マリンはそっとウェディングドレスを撫でた。すべやかな絹の感触。デザイナーさんが考えてくれた、自分に最も似合う、最高のデザイン。 「……こんなに綺麗にして頂けて、こんなに綺麗なドレスを着て、大好きな人のお嫁さんになろうとしているなんて……幸せすぎて、夢としか思えないんです」 小さな孤児院に捨てられたちっぽけな孤児。ドジで間抜けな何の取り柄もない子供が見ている、夢。 自分は、その中に立っているのではないか。 目覚めてしまえば、あの質素で賑やかな孤児院に戻ってしまうのではないか。 ……ブルーと出会う前の自分に、戻ってしまうのではないか。 そんな不安がマリンを苛む。馬鹿な考えだと知っていながら、どうしても拭い去る事が出来ない。 「……ゆめだといったら、」 マリンは鏡越しにアクアを見る。整った顔に何の表情も乗せずに、彼女は口だけを動かしていた。 「あなたはそれを信じるのかしら。……うけいれるのかしら」 「それは……」 このお化粧もドレスも教会も、全て夢の産物で。 アクアや葵やプルートやソロイやシリウスやアークやリュートやヨハンやユニシスと親しくなれた事も全て現実ではなくて。 ……ブルーと思いが通じ合った事も、なかったことになる。 そんな事、絶対に、 「……受け入れられません」 今は今だ。 悩んで苦しんで辛い思いもたくさんして、それでも選んできた。たくさんの分岐点があった筈で、その度に自分なりに考えて決断を下してきたのだ。 その結果に今がある。 綺麗にお化粧された自分の顔があってウェエディングドレスがあって、式の時間を待つ自分が居る。 それがもし夢であっても、絶対に受け入れられない。それは過去を否定する事に繋がるから。 あの苦しみも辛さも、悩みに悩んだ全ての日々を、捨てる事になるから。 「私は、私が選んだ『今』を、捨てたくありません」 「……うん」 アクアはそっとマリンの肩に手を乗せた。小さくて華奢で、けれどもマリンにとってはとても頼もしい、手。 「なら、これはげんじつよ。夢なんかじゃない。あなたがふたつの足でふみしめている場所は、ぜったいにきえたりなんかしないわ」 「……はい!アクアさんにそう言って貰えるのなら、信じられます!」 満面の笑みを浮かべれば、白い何かも笑顔を浮かべる。綺麗すぎるそれが自分である事を、もはや疑いようのない事実として認識出来た。 (私はこれから、ブルーさんと結婚する) バージンロードを歩み、指輪を交換し、永遠の愛を誓い合う。 きっと、今日は忘れられない幸せな日になる筈だ。 「……そういえば、葵さんはどうしたんでしょうか」 花嫁の付き添い人を務めてくれる約束をしていたのに、今日はまだ葵の姿を見ていない。マリンの胸に不安が広がってゆく。 「……ドレスを着て下さいってあんまりにも言い過ぎちゃったから、プレッシャーを感じさせてしまったんでしょうか……」 マリンとアクアは何度も何度も騎士服は禁止だと伝えてきたのに、ドレスを仕立て、実際にそれが葵の手に届いてからも、彼女は騎士服で出席したいと懇願を続けていた。無論、マリンとアクアはきっぱりと拒否し続けてきたのだが。 「……にげたのかもね」 「えー!?そ、それは困ります!葵さんにもちゃんと参列して欲しいですー!」 親友のひとりに祝って貰えない結婚式なんて、いくらなんでも寂しすぎる。こんな事になるくらいなら騎士服でも何でも許可したのに。そんな後悔をしたところでどうにもならない事は分かっていたが、それでもマリンはそう思わずにはいられなかった。 「ま、それはじょうだんとして」 「ええー!?じょっ、冗談だったんですか!?」 「うん」 あっさりと頷くアクアに、マリンは脱力した。本気で狼狽えた自分が馬鹿みたいに思えた。 「あの子はぎりがたいもの。あなたの結婚式にしゅっせきしないなんて、絶対にありえないわ」 「まぁ、それは確かに……」 あの葵が約束を破るなんて、想像出来ない。そこらの男よりもよっぽど男らしい彼女は、嘘や欺瞞を何よりも嫌っている。一度約束した事は何がなんでも守り抜こうとするし、それが親友と交わしたものならば余計にその意志は固くなる。それが日野平葵という人だ。 「なにか、どうにもならない事情ができたのかもしれないし……もしくは……」 「もしくは?」 「ドレスをきようかきないか、まだ迷ってるとか」 マリンは大きく瞳を瞬く。 「ま、迷う?もうこんな時間なのにですか?」 「ええ。あの子、さいすんの時もにげまわってたし、かざられてたドレスを見てあおくなってたし……やくそくをとるか、やくそくをやぶってでも羞恥心にさいなまれなくてすむ騎士服をとるか、まよってるんじゃないかしら」 格好良くてそこらの男よりもよっぽど男らしい葵であるが、反面『女性らしい』格好を大の苦手にしている。ドレスを着用する事は彼女にとって衆目で裸になるのに等しい蛮行なのかもしれない。マリンやアクアにとっては「そんな事くらいで大袈裟な」と思わずにはいられないが、葵はそういう人なのだ。 「わたし、ちょっと騎士院にいってようすを見てくるわ」 「え、ええっ!?今からですか!?」 式までまだいくらか時間があるとはいえ、流石に騎士院と教会を往復するとなるとそれなりの時間をロスしてしまう。式に間に合うかどうか、ギリギリの線だろう。 「だいじょうぶ。ぜったいにまにあってみせるわ」 「で、でも!」 もし間に合わなかったら、葵だけではなくアクアにまで参列して貰えなくなるのだ。そんなの寂しい。寂しすぎる。思わず縋るような目線を向けてしまうマリンであるが、アクアの表情は変わらない。いつもと同じ無表情を貫いている。 「マリン。わたしがあなたとブルーの式に遅刻したりするとおもう?」 「そ、それは……」 自信たっぷりに尋ねられた問いに、マリンは言葉を濁す。 マリンとブルー。アクアの親友と、兄或いは弟の結婚式。それが彼女にとって最も祝福すべき組み合わせである事を、マリンは知っていた。例え厳しい態度を取られても、容赦ない毒舌を浴びせられても、アクアが自分を大切にしてくれている事をよく知っていたから。 だからきっと、アクアはどんな手段を使っても式に間に合うように行動するのだろう。分かっていながら、それでもマリンの胸に巣食う不安は晴れない。 万が一の事が起こらないとも限らない。絶対に間に合う保証なんて何処にもない事も、マリンは知っていたから。 ……それでも。 「……分かり、ました」 マリンはそう言った。 顔を俯かせ、弱々しい声で、けれどもはっきりとアクアの行動を許可した。 「絶対、絶対遅刻しちゃ駄目ですよ?ちゃんと間に合って下さいね?」 アクアの行動で葵も式に来られるようになるのなら、そうして欲しいと思った。大切な親友ふたりに、自分の門出を祝って欲しいと、心から願っているから。 「……約束、ですよ?」 「ええ」 アクアは頷く。力強く、その顔に笑みを浮かべながら。 「じゃあ、いってくるわね」 「はい!」 (い、一生の不覚じゃぁ……!) その頃、葵は大いに焦っていた。 今日はマリンとブルーの結婚式だというのに、思いっきり寝坊してしまった。毎日毎日決まった時間に寝て、決まった時間に起きていたのに、今日に限っては体内時計が正しく働かなかった。信じたくはないが、このままだと式に間に合わない可能性すらある。 流石にそれだけは避けたい。大切な親友の一世一代の晴れ舞台を見られなかったとすれば、自分は生涯後悔し続けるだろう。 超特急で寝間着を脱ぎ去り、壁にかけた騎士服を手にし、 ……その隣にかけてあるドレスを目にした。 葵の顔色が瞬時に青く染まる。脳裏に蘇るマリンとアクアの言葉。 「当日は、絶対絶対ドレスを着てきて下さいね!約束ですよ!?」 「やくそくやぶったら針千本のーます……だからね?」 ……そうだ。今日の式には、これを着ていかなければならないのだ。 ドレスだけではない。靴だってヒールが高く華奢なものを履いていかなければならないし、何やら意味の分からない装飾が施された鞄も持っていかなければならないらしい。 ただでさえ走りにくそうなドレスを着ているのに、そんなものを履いた上に鞄まで持っていたら、本当に式に間に合わなくなるかもしれない。 ここはやはり騎士服を着ていくべきか、と思い手を伸ばすが、すぐに引っ込める。 マリンとアクアと交わした約束を、破りたくはない。 あれは殆ど一方的に結ばされたようなものではあるが、それでも約束は約束だ。ここはやはりドレスを着ていくべきだろう。 ぎゅっと目を瞑り、葵は引ったくるような勢いでドレスを手にした。そこから伝わる、すべやかな絹布の感触。 ……夕闇に染まる景色の中で告げられた、アークの言葉。 「……!」 唐突に蘇った記憶を払うように、葵はぶんぶんと頭を振った。今はこんな事を考えている時間はないのだ。 ハンガーからドレスを外し、袖を通す。この日の為にマリンとアクアに何度も何度も着方を(半ば強制的に)教わった為、一度もつっかえる事はなかった。 大きく肩を露出したこのデザインは、カクテルドレスという名称で呼ばれているらしい。スカートの丈も短く、こんな格好で出歩くなんてはっきり言って正気の沙汰とは思えない。 ……正気の沙汰とは思えない格好で、自分は今から出歩こうとしているのだ。 それがこの国の人間にとって当たり前の事であっても、自分にとってはそうではない。こんな格好が当たり前と思えるようにはなりたくない。 アロランディアに、染まりたくない。 ずっとそう思ってきたのに、どうして自分はこんな格好をしているのだろう。どうしてあんな約束をしてしまったのだろう。 ……日本の常識を覆すような行いを、何故しているのか。 その疑問を全て無視しながら、葵はショールを肩にかける。「その格好は葵さんにとって相当恥ずかしいだろうから、せめてこれで肩と胸元を隠して下さい」と、マリンにプレゼントされたものだ。 こんなものを身につけたところで、足の方の露出はどうにもならない。それでもマリンの気持ちが嬉しくて、葵はそっとショールを撫でた。 鞄を手にし、履き慣れない靴を履き、葵はようやく騎士院を後にした。 えっちらおっちら、生まれたての子鹿のような動きで、葵は道を行く。 本人は精一杯に走っているつもりなのだが、その走行速度は普通に歩いているよりも遙かに遅い。そこに町中の女性の憧れである『アロランディア初の紫紺の女性騎士』の面影は全くなかった。 (……ま、まことに走りにくいな、この格好は……!) 葵本人もこの姿が無様で格好悪いものである事は自覚していたが、それでもどうする事も出来なかった。アロランディアの女性はすごいと思う。よくもまぁこんな服と靴で問題なく歩けるものだ。尊敬してしまう。 (……というか、これは本当にマズいぞ……!) このままでは本当に式に参列出来なくなる可能性が高い。やはり約束を破ってでも騎士服を着てくるべきだったか。しかし針千本飲むのは勘弁したかったし、マリンもアクアも悲しませてしまう気がしたし、しかし式に参列出来なければもっと悲しませる事になる気がするし、自分の判断は間違っていたのか、とんでもない間違いを犯してしまったのか、どうすれば間に合うのか、どうすれば、 「葵!」 我が目を疑った。 道の先。遙か向こうに見慣れた人物の姿があった。 とっくの昔に騎士院を出た筈で、現地に到着して式がはじまる時を待っている筈で、それなのに今ここで自分の名を呼んでいる、誰かの姿。 ……アークの姿。 葵は殆ど無意識に身体を反転させていた。そのまま足を踏み出す。 「あ、おい!?何処行くんだよそっちは教会とは反対方向だぞ!?」 知っている。葵はぴたりと足を止める。 けれどもそれ以上身体を動かす事がどうしても出来なかった。意気地がない事この上ないが、振り返って再び足を動かせと命じても、身体は全く言う事を聞いてくれないのだ。 アークの足音が近付いてくる。何か、何か反応しなければと思うのに、どうすれば良いのかさっぱり分からない。 ……どんな顔をして彼と会えば良いのか、さっぱり分からなかった。 「葵」 至近距離から名を呼ばれ、葵はびくりと身体を震わせる。 言う事を聞かなかった身体が、この時になってようやくこちらの意志に従ってくれた。恐る恐る振り返れば、怒気に支配されたアークの姿がある。 「お前なんでまだこんな場所に居るんだよ!もうすぐ式がはじまっちまうぞ!?」 「そ、それは、だな……」 言葉がつっかえる。たったこれだけの短い言葉なのに、どうして上手く発声出来ないのか。自分の心が乱れている証明に思えて、葵は眉を寄せた。 どんな時でも冷静に、心を強く持たなければならない。それが日野平の主としての責務なのに、今の自分の姿はそこから遠くかけ離れている。情けなくて涙が出そうだ。 「その……ね、寝坊を、してしまってだな……」 「はぁ〜!?」 驚きと呆れが混じった声に、葵は小さく縮こまる。いつもならば馬鹿にするなとかお前にそんな反応をされる謂われはないと返しているところであるが、今日に限っては全面的に自分が悪い事を理解しており、だから何も言葉を返す事が出来なかった。 「おまっ、寝坊って、今日この日にか!?いっつもいっつも無駄に早朝から起き出してるっつーのに、どーして今日に限って寝坊なんてするんだよ!?」 「うう……すまぬ……」 「や、俺に謝られても困るけどさ。……つーか、このままだとマジでヤバいぞ、かなり急がないと間に合わない」 だろうな、と葵は思う。太陽の昇り具合を見ればマリンの晴れ舞台までもう僅かな時間しかない事が理解出来る。 ……こんな格好で走っても絶対に間に合わない気がして、葵は強く唇を噛み締めた。 「……その靴じゃ、走る速度は相当落ちそうだな。さっきも変なフォームで走ってたし」 「うわっ!?」 足下に落とされたアークの視線に驚き、葵は鞄で足を隠す。そんな事をしても、膝下までは隠す事は出来ないのだが。 途端、アークの表情が憮然としたものに変わる。 「なんだよ、ちょっとくらい見せてくれたっていいだろ。ケチケチすんな」 「嫌じゃ!ケチでもなんでも、私は無闇に足を晒したくはない!」 「じゃ最初っからそんな格好しなきゃいいじゃん」 「わ、私は嫌だと言ったのじゃ!それなのに、マリン殿とアクア殿が……!」 そこまで言ったところで、葵は中途半端に口を閉ざしてしまった。事実とはいえ、今日の主役ともうひとりの主役の姉妹を悪く言うような事はすべきではないと思ったのだ。 そんな葵の様子を見ながら、アークはひとつため息を吐くと、何故か彼女に背を向けてしまった。 そして、いきなり腰を落とした。 「……?なんじゃ、おぬし一体何をしておるのじゃ?」 「上手く走れないなら俺が背負って行ってやるよ。早く乗れ」 「は!?」 こんな時に冗談はよせ、と言いかけた葵であるが、アークの顔を見ればその言葉は喉に留まる。 彼は、至極真面目な顔をしていた。 そこにからかうような意図も、冗談を言っている雰囲気も感じられず、葵は困惑する。 アークは、本気で自分を背負って行く気なのだ。 「よ、良い!そのような事をする必要は全くない!私は自分の足で走って行く!」 全力で首を横で振れば、アークの顔は見る見る内に不機嫌そうな色に染まってしまう。 「お前な、それだと間に合わないって言ってんだろ。いいから乗れって」 「だ、だが……!」 いくらなんでもそれは悪いというか恥ずかしいというか、とにかく無理だ。主に自分の心情的な問題で。背負って貰うという事はつまり肌と肌が密着するということに他ならず、今の服装でそんな事をするのはあまりにも無謀というかとんでもないことになる気がしてしかし今という状況ではそうしなければ間に合わないのも本当だろうし、一体どうすれば、 「だー!もうさっさと乗れっての!」 「……わ、分かったっ」 今は羞恥心よりもマリンの晴れ舞台を見届ける事の方が大切だ。式に間に合うのならばどんな手段も使うべきなのだ。 一大決心を固めると、葵は勢い良くアークの首に腕を回した。勢いをつけなければ、いつまで経っても行動出来ないと思ったのだ。 アークの手がふとももに添えられると、葵は短い悲鳴を上げた。他者にこんな箇所に触れられるのは初めての事で、どうすれば良いのか分からない。顔から火が噴き出そうだ。 「飛ばすぞ」 「あ、ああ……っ」 緊張のあまり上擦った声が出てしまったが、アークはその事に触れずにいてくれた。 彼が足を踏み出せば、葵の身体はぐらりと揺れた。走る度に揺れる視界。身体。己の意志とは無関係に変わってゆく景色が、葵には不思議で不思議でたまらなかった。 「……アーク、大丈夫かなぁ」 所変わって式場前。 半ば無理矢理にシリウスに着せられた礼服に身を包んだリュートは、額に手をかざしながらで遠景を眺めていた。 「心配ですか?」 隣に立つシリウスから尋ねられれば、リュートは迷う素振りも見せずに頷いた。 「それは葵殿が間に合うかどうかが?それとも、アークが葵殿を射止めてしまうかもしれない事が?」 リュートは目を見開いてシリウスを見た。 式が始まるまでもう僅かな時間しか残っていないのに、葵は未だに教会に姿を見せてはいない。彼女はアークと共に来るのだろうな、とリュートは思っていたのだが、しかしそのアークはたったひとりで式場に現れたのだ。 見慣れぬ礼服姿の幼馴染の顔に浮かぶのは、期待と不安と緊張が入り交じった、複雑なものだった。 ……葵と何かがあったのだろうな、と、直感で悟った。 その葵の様子を見てくると言って、アークは教会を後にした。あいつがこんな時間になっても姿を見せないなんて、何かあったのかもしれない、と。 その背を追う事はしなかった。……それは、自分の役目ではないと思ったから。 常と同じ人を食ったような笑みを浮かべる、美貌の男。この人は今も自分達の関係性を楽しんでいるのだな、と一瞬で理解する。 「……前者が」 「おや、後者はどうでも良いと?」 「どうでも良くはないですけど……今心配なのは、やっぱり前者ですよ」 へぇ、とだけ返事をすると、シリウスはそれ以上何も言ってはこなかった。 葵に対する恋心は、既に燃えカスも同然の小ささになってしまった。あの頃のような情熱をもって彼女を見つめる事は、もはや永遠に出来はしないだろう。 ……それでも、恋心は確かに存在しているのだ。 例え燃えカスも同然の大きさになってしまっても、彼女を目にした途端に騒ぎ出す恋心は今もまだこの胸に居座っている。 ……リュート・ウィルソンは、日野平葵の事が、まだ好きなのだ。 だからこそ。 「……後者の事態は、むしろ望んでいます」 アークが彼女の心を射止めてくれるのならば、この恋心もようやく終わらせる事が出来る。 この恋心を終わらせてはじめて、自分は自分の道を行ける気がした。アークに対するわだかまりも、葵に対するわだかまりも全てが消えて……彼らを、本当の友達だと思える気がしたから。 「そうなれば、僕もシリウス様みたいになれるでしょうから」 ……かつて恋をしていた少女の門出を、祝えるようになれるだろうから。 シリウスの顔から笑みが消える。推し量るようにリュートを見つめる、透き通るような薄い青色の瞳。次の瞬間には、ふっと視線を逸らされてしまった。 「……私みたいになるのは、お勧めしないなぁ」 「……珍しいですね、シリウス様がそんな事を言うなんて」 いつもならばむしろ『私を目標にするなんて、良い心がけだね!』とか『いくら君が私を目標にしても、ここまでビューテフルな男になるのは無理だろうね!』などと返してくるだろうに。 「……私は、消し去らなければならない思いを、今も抱え続けているからね」 「え……」 表情の消え去った顔。感情の読めない瞳。そこに立つのは道化を演じる王子ではなく、シリウス・ウォーレン・ダリスという名のひとりの男の姿だった。 「自ら望んでそうしているのだけど……お勧めはしないよ。この状態はなかなかに辛い」 目を細めながらしみじみと呟かれた言葉。 リュートは知る。 シリウス・ウォーレン・ダリスは、今もマリン・スチュワートに恋をしている事を。 決して報われる事のない思いを、そうと知りながら抱き続けている事を。 「……消し去る事が出来る思いならば、そうした方が良い。それも、なるべく早くに」 そうすれば傷は浅く済むだろう――そう言って、シリウスはようやく笑みを浮かべた。けれどその笑みは常と同じふざけたものではなく、やわらかで優しげな、この人が浮かべる事など想像すらもした事のない、そんな笑顔だった。 「君はまだ若い。新しい恋なんて、いくらだって出来るだろうさ」 「……はい」 この人も自分も、同じ罪を背負っている。 アロランディアという国に住まう人間を傷つけた。……恋焦がれる相手を、酷く傷つけた。 だからこそ、彼の言う事は素直に聞き入れるべきだと思った。彼と同じ痛みを背負わないように。この先の人生を、不毛な恋に費やす事がないように。 (だから、ねぇアーク) 願う。 かつて一番憎んでいた相手。 ……かつて一番、友情を感じていた相手に。 (……さっさと掴まえちゃいなよ。君が誰より大切にしている、女の子を) 君ならそれが出来るだろう?……そう呟いた青年の口許には、確かな微笑みが刻まれていた。 アークの背中は、想像していたよりもずっと広かった。 鍛えられた身体はごつごつとしており、服の上からでは細身に見える彼の体躯に立派な筋肉がついている事を知らせてくれる。 その身体に己の身体を密着させている今が、葵には不思議でたまらない。一体何故こんな事になったのか。そのはじまりを思い出す為、記憶を探る。 (……私が寝坊したからじゃ) 毎日毎日決まった時間に寝て、決まった時間に起きていたのに、今日に限っては体内時計が正しく働かなかった。その理由を、葵は正確に理解していた。 (……昨夜はなかなか眠れなかったからの) では、その理由は? ……頭から離れてくれない記憶があったから、だ。 夕暮れに沈む町中。空を覆う夜の天蓋。早く帰らなければ騎士院の門限に間に合わないというのに、走る事もせずに、自分も彼もだらだらと言葉を交わしながら歩いていた。 ……その彼の唇から紡がれた、言葉。 「俺はさ、」 真っ直ぐにこちらを見つめる、強い意志が宿ったふたつの瞳。 「ずっと、お前と結婚したいと思ってた」 ……そんな言葉を告げられる事など、一生ないと思っていたのに。 「俺は、お前が好きだ」 彼は言った。はっきりと。 「この世の誰よりも」 聞き違いの可能性も、冗談で済ませたいと願う自分の心も全て否定するような真剣な空気を纏いながら……男女の情愛を込めた言葉を、こちらにぶつけてきた。 その事を、葵は一晩中考えていたのだ。 翌日にマリンの式を控えていると知っていて、早く眠らなければならないと自分に言い聞かせても……どうしても、脳裏を離れてはくれなかった。 告白をされた日以降、葵はアークを避けるように行動していた。どんな顔をして会えば良いのか分からなかったし、もし返事を請われたとしたら、それこそどう答えて良いのか分からない。朝も昼も夜も彼が居そうな場所には近付かなかったし、それでも彼に遭遇しそうになれば脱兎の如く逃げ出した。 ……そんな地道な努力を重ねていたのに、結局はこうしてアークに背負われている。一体何故こんな事になったのか――葵は再び同じ疑問を考え始める。 「お前さ、」 駆けるアークの口から唐突に声が発された事に驚き、葵の腕の力がゆるむ。途端、彼女の身体がぐらりと傾いだ。 「うっわ、何やってんだよお前は!危ねーだろ!」 「す、すまぬ……!」 慌てて再び腕に力を込めれば、身体は安定する。とんでもなく危険な事をしてしまった事を知り、葵は大きく息を吐いた。 「……お前さ、」 アークは先ほどと同じ言葉を繰り返す。葵の身体がぎくりと固まるが、今度は腕の力をゆるめるような事はしなかった。 「俺の事避けてるだろ」 腕の力はゆるまない。逆に彼にしがみつく力が強まった事を自覚する。 「なに、そんなに意外だったのか?俺の告白」 「……!」 緊張のあまり腕の力が更に強くなる。途端、アークの走行速度が落ちる。苦しげな声が上がる。 「く、首……!首絞まってる!しぬ!」 「う、わ、す、すまぬ!」 慌てて力をゆるめようとするが、上手くいかない。その間にもアークの走行速度は落ち続ける。焦りの中で必死に試行錯誤し、葵はやっとの思いで力を弱める事に成功した。 「……っぶねーな!何考えてんだよマジで死ぬとこだったぞ!」 かなりの怒りが込められた怒鳴り声。先ほどよりも語調の強いそれに、葵は少しばかり腹が立った。こちらの心を乱すような事をしているのはそっちの癖に、何故怒鳴られなければならないのだ。 「わ、悪かったとは思うが、いくらなんでも大袈裟すぎじゃ!あのくらいで死ぬわけがなかろう!」 「死ぬだろどう考えても!首絞められて呼吸出来なくなってたんだぞこっちは!」 「修行が足りぬ!そんな状態でも呼吸出来るような訓練を重ねておけば良かったのじゃっ!」 「どんな訓練だよそれは!?無茶苦茶言うなお前!」 それは葵も自覚していた。いくらなんでも、自分はとんでもない事を口走っている。 だが、今の自分には無茶苦茶な事しか口にする事が出来ないのも本当なのだと思う。 ……無茶苦茶な事以外、何をどう口にすれば良いのか。 「……そんなに嫌だったのか」 「は、え?」 いつもよりも幾分か低い声で問われた言葉の意味が、葵には理解出来なかった。その事をすぐさま理解したアークは、すぐに言葉を続ける。 「俺に告白された事。……そんなに嫌だったのか」 身体が強張る。けれど先ほどのようにアークの首を絞める事はない。という事は、自分にはそれだけの余裕が残っているのか。 ……頭の中が真っ白に染まっているのに、力を加減するような余裕だけはあるのか。 「別にそれならそれで良いよ。俺は一度振られた身だし、もう一回振られたって別に構わない。ていうか、むしろそうされた方が今度こそ諦めがつくだろうし、」 「は……?」 葵は我が耳を疑った。 一度振られたとアークは言った。振られたというのはつまり失恋したという事だ。相手に己の恋心を否定されたという事だ。どれだけ鈍い葵であっても、それくらいは理解出来る。話の流れからすれば、その振った相手というのは自分――つまりは日野平葵という事になるわけで。 「でもさ、避けられるのは納得いかない。だってそんなの、俺から、俺の思いから逃げてるだけじゃねーか。返事をするのを億劫がって、ただ逃げ回ってるだけだろ?嫌なら嫌ってはっきり言われた方が、」 「ちょ、ちょっと待て!」 尚も言葉を続けるアークに悲鳴じみた声を上げれば、彼は訝しげな光が宿る瞳だけでちらりとこちらを見た。 「なんだよ、いきなり大声出して」 「わ、私はおぬしを振った覚えなどないぞ!?」 「はあ?」 叫ぶように否定すれば、アークは顔ごとこちらを向いた。勿論今葵は彼に背負われていて、彼女の顔は彼の肩の上にある。ふたりの顔の距離は数センチもないわけで。 眼前に広がるアークの顔に、葵は見事に狼狽した。悲鳴を上げる間もなく顔を背け、片腕で前を指し示す。 「あ、危ない!前を向かぬか前を!」 「……っと、悪い」 アークの顔が再び前を向いた事に安堵し、葵は大きく息を吐く。しかし混乱が消えたわけではなくて、何故か心臓がうるさいほどに鼓動を早めていた。 息を吸って、吐く。数回それを繰り返している内に、葵の頭は徐々に落ち着きを取り戻していった。今言わなければならない事を、明確に理解する。 「わ、私はおぬしを振った覚えなど、ない。……お、おぬしの気持ちを知ったのは、その……こ、この間聞かされた時がはじめてであったし!だから、それ以前に振るとか振らぬとか、そういう事は行うのは無理であろう!?」 ……落ち着きを取り戻しても、振っただの振ってないだの、アークの気持ちを認めるような事を言うのは緊張する。声が不自然に大きくなったり小さくなってしまった事は自覚していたが、葵にはどうする事も出来なかった。 アークは何も答えを返してこない。沈黙する彼が、何かを思考している気配がする。 「……お前、もしかしてまっっっっっっっっっっったく理解してなかったのか?」 「な、何をじゃ」 やけに溜めが入った言葉。『全く理解していなかった』事が、葵にはそれこそ理解出来ない。アークは何を言いたいのだろうか。 「……俺、あの日よりも前に、お前に一回告白してるんだけど」 「は……?」 告白。こくはく。コクハク。 その言葉が示す意味も、いかに鈍い葵であれど理解出来た。この話の流れではそれが指し示す意味などたったひとつしかあらず、しかし彼女に心当たりはまっっっっっっっっっっったくなかったりするわけで。 「い、いつじゃ!?」 「三年前。リュートと最後に会った日」 「な、なにぃ!?」 そんなに前に告白されていたのか。衝撃の事実に仰天しながらも、葵は必死に記憶を掘り起こしてゆく。 部屋から消えたアークを探し、その途中でリュートに出会った。乞われるままに彼の部屋へと赴き、アークを見つけた。シリウスによって明かされた全ての真実。けれどもリュートが望んで罪を犯したことは変わりようのない事実であり、ふたりの幼馴染は離れ離れになった。 ……そして告げられた言葉。 「……俺の事が好きだからとかじゃなくて?」 黙り込んだ葵に対し、彼は容赦なく追求した。 答えろよ、と。 いい加減、はっきりさせよう、と。俺もお前もリュートも、言わなくても伝わってると思っていたからこんな所まで来てしまった。壊すならとことんまで壊そう――と。 「俺はお前が好きだけど。お前はどうなの」 ……それに対し、自分は。 「……友達では、いかんのか?」 そう答えた筈だ。 壊したくなんてなかった。彼が自分の事を好きだと言うのなら、何故わざわざ友人関係を壊さなければならないのか。リュートとの一件は仕方のない事だったのかもしれない。あの優しい新緑の騎士がアークとの関係性に我慢が出来なくなり、友情を壊してしまった事も、その結果としてふたりが離れ離れになろうとしている事も、もはや既に終わった事でしかないのだから。 時は巻き戻せない。ならばせめて、自分が彼の側に居ようと思っていたのに。 ……何故自分との友情すらも、彼は壊そうとするのか。 何もかもが理解出来なかったし、返された彼の言葉がショックだった。 駄目なのだ、と。 ……その言葉の意味は、もしかすると、つまり…… 「あ、あれはそういう意味だったのか!?」 「今気付いたのかよ!?」 今気付いた。今の今まで、葵はその真意を全く理解出来ていなかった。 「おまっ、お前さあ!鈍すぎるのも限度があるだろ!?なんだよこっちは決死の思いで告白したってのに、どーして欠片も理解してねーんだよあの時俺すっげー傷ついたのにすっげー馬鹿みてーじゃん!」 「い、いやそんな事を言われてもだな、そういう意味に取れと言う方が無茶ではないのか!?」 「無茶じゃねーよどう考えてもそういう意味にしか取れねーだろ何考えてんだこの女は!」 怒気に満ちた声に反論したいが、その為の言葉が見つからない。 アークの言葉はきっと正しいのだろう。例えばマリンやアクアであれば、彼の真意をすぐさま見抜けたのかもしれない。 が、葵には到底無理だった。そもそも誰かが己に恋心を抱くなんて事、絶対に起こり得ないと思っていた。ましてやそれが友達だと思っていたアークだなんて、想像すらも出来なかったのに。 「とにかくっ、そういう事だからな!俺はお前がずっと好きだったし、今もそうだ」 「……っ」 『好き』という言葉に、葵の身体はまたしても固まる。友情や親愛以外の意図を込められたその言葉をぶつけられる時なんて、永遠に来ないと信じていたのに――彼は、躊躇う事なく届けてくる。 恋愛感情が込められた『好き』を、真っ直ぐに。 「別に返事は今すぐじゃなくて構わない。お前、こういう事には疎いし、じっくり考えれば良い。……だけど、絶対に答えを出せ。なるべく早くに」 「む……無茶を言うでないっ」 なるべく早くに、どうやって答えを出せと言うのだ。恋愛なんて自分には一生縁がないと思っていたのに、何をどう考えれば良いのか、まずそこから分からないのに。 「何が無茶なんだよ。こっちは三年も我慢してきたんだから、答えを急かすくらい許せ」 「ああもうっ、おぬしはちっとも変わっておらぬな!傲慢にもほどがあるぞ!」 仕事中に見せる真面目な態度は何処へ消えてしまったのか。三年前と全く変わらぬ自分勝手な言い分に、葵はだんだんと腹が立ってきた。 「傲慢に振る舞う事でお前の行動を制限出来るなら、それもいいかもな」 「はあ!?」 わけの分からない事を言い出したアークに、葵はあからさまに顔をしかめた。制限って、この男は一体何をするつもりなのか。 「そうする事でお前が俺を避けないようになるのなら、いくらでもそうするって言ってんだよ」 葵は言葉に詰まる。何をどう言葉にして、どんな返事をすれば良いのか分からない。頭の中は混乱の極みにある。 「お前、今日はマリンの世話をする時以外は、ずっと俺の隣に居ろよ。また避けるような真似をしたら許さねーからな」 「か、勝手に決めるでないっ」 「いいんだよ、勝手でも。お前に避けられるよりかはよっぽどマシだ。……ああ、それと」 「な、なんじゃ!?」 次はどんな傲慢な言葉を告げられるのか。葵は慄いた。 「さっきも言ったけどさ。……嫌なら嫌って、さっさと言えよ」 ……アークの声は、平常のものと何も変わらないように聞こえた。 「どうせ振られるのならとっとと振られたいし。……期待を持って待ち続けるよりも、そっちの方がよっぽどマシだからな。断るなら早めにしてくれ」 平常な、いつも通りの声音で、何故そんな事を言えるのだろう。 恋愛には疎い葵であるが、失恋が辛いものだという事は知識として理解している。なのに何故、アークは己が振られる未来を望めるのだろう。 葵には理解出来ない。何も。何ひとつ。 アークの言葉も、自分の心も……理解出来る事など、何処にも存在していないように思えた。 まるで無力な幼子のようだ――そう思い、葵は瞳を伏せた。 ……巫女を捨てた自分は、或いはそういう存在なのかもしれない。 アクアの視界が捉えたものは、何かを背負いながらこちらに向かってくる、アークの姿だった。 (……なんでアークがこんな場所にいるの?あいつもちこく?なんで?寝坊?) 顔中に疑問符を浮かべながら足を進めれば、彼の背に乗っている者が誰であるのか、はっきりと理解出来た。 葵だ。 自分が今から騎士院に向かって様子を見に行こうと思っていた人物が、その背に乗っていた。 アクアの困惑はますます深くなる。何故にアークが葵を背負っているのか。足を挫きでもしたのだろうか。 疑問に思いながらも、アクアは息を吸い込む。彼と彼女の名前を呼ぶ為に。 「アークー、あおいー」 お世辞ながらも彼らに聞こえるような声量ではなかったが、大きな声を出す事が苦手なアクアにとってはこれで精一杯だ。 案の定、アークも葵も目に見える反応を示してはくれなかった。やはり声は届かなかったらしい。ならばもう一度。 「アークー、あおいー」 今度は届いたようだ。アークが表情を変える様を、アクアの瞳は確かに映し出した。 やがてふたりはすぐにアクアの元へと辿り着く。しかしアークの足は止まらない。アクアを通り過ぎ、先へと駆けてゆく。 別にアクアはその事を不服には思わなかった。今は式に間に合うよう行動するのが最優先されるべきだし、アークの判断は正しいものだと思った。 アクアも足を踏み出し、アークと葵の後を追う。 「アーク、どうしてこんな所にいるの?あなたもちこくしたの?」 走りながら問いかければ、アークは視線だけをこちらに寄越した。 「ちげーよ。葵が教会に来ないから、騎士院まで様子を見に行ってただけだ。俺はこいつと違って寝坊なんてしてないっての」 「……ねぼう?葵、ねぼうしたの?」 アクアは驚きに目を見開く。もしそれが本当なら、自分の予想は外れていた事になるのだ。 葵はぎゅっと瞳を閉じると、アクアに向かって頭を下げた。 「す、すまぬ……!我が人生一生の不覚じゃ……!」 (あ、ほんとうにねぼうしたのね……) 珍しいと思う。毎日毎日規則正しい生活をしている葵が寝坊するなんて、全く予測出来なかった。 (……ま、この子もにんげんってことよね) 人間ならばたまにはこういう事もある。その『たまの失敗』がマリンという親友の晴れ舞台の日に起こしてしまった事は痛いが、このペースで行けば無事に式に間に合いそうだし、これ以上痛手を被る事もないだろう。アクアは葵を責める事はしないと決める。 「……で、どうして葵はアークにせおわれてるの?けがでもしたの?」 瞬間、葵は傍目からでも理解出来るほどに身を強張らせた。まるで、背負われている事実を今思い出したとでも言いたげに。 対するアークはゆるく首を振る。否定。葵は怪我をしていない。 「こいつさ、ヒールの高い靴を履き慣れてないだろ?」 「まぁ、そうね……」 いつも『下駄』というものを履いている葵は、アロランディア製の靴は騎士服に合わせてあつらわれたブーツしか履いた事がない。ヒールの高い靴なんて、履き慣れている筈がない。 「上手く走れねーみたいでさ、このままにしておいたら式まで間に合わないと思って、背負った」 「ふぅん……」 緊急事態とはいえ、よくもまぁ葵が受け入れたものだ。アークとは付き合いが長いし、彼女は彼を友人だと思っているようだし、それだけ心を許しているという事なのだろうか。 「でも、それならくつをぬいで走ればいいんじゃないかしら……?」 「………」 「………」 アークと葵が揃って沈黙する。その反応を見て、アクアは思う。 ……この子達、その事に全く気付いてなかったのね……、と。 「お、おおお下ろせ!アクア殿の言う通りじゃ!靴を脱げばいつも通りに走れる!何故私は言われるまで気付けなかったのだ〜!」 「あ、おい暴れるなよ危ねぇな!落ちたら本当に怪我するかもしれねぇぞそれでも良いのかよ!」 「よ、良くはない!良くはないがとにかく下ろせ!」 何やら言い争いをはじめたふたりを見ながら、アクアは小さくため息を吐く。 (……わたしがこなくても、このようすならちゃんと式にまにあっていたでしょうね) 無駄足ではあったかもしれないが、それでもここまで来た事を後悔してはいない。アクアは前を見据え、ただ足を動かし続けた。 式の時間は近付いてくる。あともう少しで、新たな『家族』が出来るのだ。 その時を思い、マリンは緊張の息を吐く。 これは夢ではない。現実だ。 ……夢のような幸福を、もうすぐ自分は味わうのだ。 (……アクアさん、まだかなぁ) 絶対に遅刻しないと約束してくれたし、アクアを信じてもいるが、それでもここまで遅いと流石に心配になってしまう。 と、その時ノックの音がマリンの耳に飛び込んできた。 「アクアさん!?」 やはり彼女は約束を守ってくれた。葵を連れて、付き添い人としての役割を果たしに来てくれたのだと思った。 「ザンネ〜ン!ボークデーシター!」 「わあっ!?」 ……が、僅かに開かれた扉の隙間から姿を現したのは、アクアではなかった。というか、そもそも人ですらなかった。 布に覆われた白い顔に、青い帽子。間抜けな印象を与えるその姿を持つモノなど、マリンはたったひとつしか知らない。 「ボ、ボビーさん!」 「私も居ますよ!」 ボビーの隣からシリウスがにょきりと顔を出す。 ボビーが来たのならシリウスが居るのは当然の事である。しかしマリンには何故彼がここに来たのか、その理由が分からなかった。今までも孤児院の子供達やプルートやソロイが挨拶に来てくれたが、式まであと僅かな時間しかないこの時にアクアと葵以外の誰かが訪れるなんて、想像すらもしていなかったのだ。 「シ、シリウス様、一体どうなさったんですか?」 「何って、決まってるだろう?花嫁をさらいに来たのさ!」 「は、はい!?」 爆弾発言に仰天するマリンに近付き、シリウスは唇に弧を描きながら、耳元でそっと囁く。 「……私と一緒に逃げてくれないかい?シュガーさん」 言葉の意味を理解すると同時にマリンの産毛がぞわりと逆立つ。慌てて顔を引き、全力で首を横に振る。振りまくる。 「いいいい、嫌ですよ無理無理!私はブルーさんのお嫁さんになるんですー!」 「ええええー、こんなにビューティフルでエレガントな王子様が頼んでいるのに、君は断るのかい?これほ完璧な玉の輿はないっていうのに」 「断ります!断固拒否です!」 「うーん、つれないなぁ」 シリウスの顔にはいつも通りのにやついた笑みが浮かべられており、マリンは自分がからかわれた事を知る。 「シリウス様〜!こんな時に変な冗談はやめて下さい!すっごく焦っちゃったじゃないですかー!」 「うーん、別に冗談ってわけでもなかったんだけどねぇ」 「そ、それって本気でからかってたって事ですか?ひ、酷いです〜!」 人からよく『からかい甲斐がある奴』と評されるマリンであるが、まさかこんな時にこんな言葉で本気でからかわれるなんて思っていなかった。人生の晴れ舞台に挑む時ですら、自分は他者にからかう対象として見られてしまうのか。 「いや、からかう意図があったわけでは……」 「はい?」 からかう意図がなかったのならば、一体シリウスは先ほどの言葉を、どんな意図を以て告げてきたのか。理解出来ずに首を傾げるマリンを、シリウスは暫くの間見つめていた。 「……いいや、何でもないよ」 「……そうですか?」 小さく呟くシリウスは、何故だかマリンの目にはやけに寂しそうに映った。どうしてそんな顔をするのか、やはり彼女には理解出来ないのだが。 「それにしても……」 言いながら、シリウスは真っ直ぐにマリンを見つめた。上から下へ、じっくりと視線を這わせるその姿に、マリンは少しだけ狼狽えた。 「な、なんですか?」 まさかまたからかう腹づもりなのか。緊張しながら問いかけても、シリウスの返事はない。マリンの身体は次第に強張っていった。 「……いやはや、見事に化けたものですねぇ」 ……やがて嘆息と共にシリウスの唇から飛び出したのは、そんな言葉だった。 「うーん、何処からどう見ても綺麗な花嫁さんだ!庶民代表とでも言うべき村娘さんは、何処に消えてしまったのかな!」 「しょ、庶民代表って……」 マリンはシリウスの言葉に頬をひきつらせた。庶民であった事は事実だし、別に富裕層や貴族になりたいと思ったこともないが、しかしながらそんな風に言われると良い気がしないのも事実である。 「……でも、こんな風に綺麗にお化粧して貰えて、私も嬉しいです」 自分が自分である事を疑うほどに綺麗に飾り付けられて、一番大切な人と共に生きることを誓う。その事が嬉しくて楽しみで少しだけ緊張を覚えてもいて、でもやっぱり嬉しさが勝って。 「……ねぇ、マリン殿」 「はい?」 「君は今、幸せ?」 唐突にな問いかけに、しかしマリンは即座に頷いた。迷いなく、はっきりと肯定した。 「幸せです。これ以上の幸せなんてないんじゃないかって疑うほどで、だけどこれから先はもっともっと幸せになれる筈で、その為に結婚するんですから……幸せですよ、とっても」 ブルーと共に生きて幸せになる為に結婚しようとしている今が、幸せでない筈がない。 シリウスは少しだけ首を傾げると、たった一言「そう」とだけ言った。目を細め、少しだけ口角を上げたその顔は、酷く優しげに見える。 ……普段の彼からは、全く想像出来ない笑顔。 「マリン殿。君はおまじないって信じるかい?」 「おまじない?はい、信じますよ」 小さな頃からドジが多かったマリンは、神父様や年上の孤児達によくおまじないをかけられていた。例えばケガをしないおまじないとか、怪我の痛みが和らぐおまじないとか。それを受ける度に彼女の心は元気を増したし、どんな事だって出来るような勇気が湧いた。 「……そう。じゃあ、私がひとつおまじないをかけてあげよう」 「え」 良いとも悪いとも言わぬ間に、シリウスはレースの手袋に包まれたマリンの手を取ってしまった。困惑と不安に揺れるマリンの瞳を、しかし彼は全く見ようとしなかった。青の瞳を僅かに伏せて、細い手に顔を寄せて…… 「ひゃっ!?」 ……そっと、マリンの手の甲に唇を落とした。 「……どうかお幸せに、私の星」 ……呟かれた言葉は、もしかしたらマリンに聞かせるつもりなんてなかったのかもしれない。 そのくらい小さくて、少しでも風が窓を叩けば消えてしまいそうなほど小さくて、けれど、それでもその言葉は届いてしまった。 純白の衣装に身を包んだ、この国の頂に立つ少女に。 ……シリウス・ウォーレン・ダリスの思い人に。 「………」 マリンは無言だった。無言でシリウスを見つめていた。何かを言うべきなのかもしれなかったが、彼女はその選択肢を選ばなかった。 シリウスが顔を上げる。繋がれた手と手は離れ、彼が浮かべるのはいつものふざけたような笑み。 「幸運のおまじないです!いやぁ、このシリウス・ウォーレン・ダリスが唇を捧げたのですから、君は絶対に幸せになれますとも!不幸になるような事なんて絶対に起こりませんよ!」 「……はい」 おどけるように言葉を吐き出すシリウスに対し、マリンもまた笑った。いつも通りのあたたかでおだやかな笑顔を浮かべた。 「ありがとうございます、シリウス様」 それ以外の言葉なんて不要だった。マリンがシリウスにかけられる言葉なんて他には何も存在しておらず、だから彼女はそれ以上は何も言わない。 「シリウスズルーイ、ボクモチュウシタイヨー!」 「おやおや、全くずるくはないよボビー。これはキスではなくおまじないだからね!ノーカンノーカン!」 「ナラショウガナイネ!」 目の前で漫才を繰り広げられてもなお、苦笑しながらその光景を見つめるだけだった。 「マ、マリン殿ー!すまぬ、大遅刻してしまった……!」 「……いちおうは間に合ったんだし、そんなに気にするひつようもないんじゃない……?」 「アクアさん!葵さん!」 と、その時すさまじい勢いでアクアと葵が部屋に滑り込んできた。ふたりとも全身に汗を流し、葵に至っては何故か足が泥にまみれている。 が、マリンはそんな事には気付かずに……というかむしろ気付いた上で全く気にしていないのかもしれないが……頬を紅潮させてふたりに駆け寄って行く。 「葵さん!ちゃんとドレスを着てきてくれたんですね!嬉しいです〜!とってもお似合いですよっ!」 「そ、そうか……似合っているかはともかく、おぬしが喜んでくれたのなら良かった。うむ」 「アクアさんも、わざわざありがとうございました!おふたりとも間に合って本っ当に良かったです!」 「……げんかいとっぱして走ってきたから、けっこうしんどいけどね……けふっ」 げんなりとした様子で咳き込むアクアに、マリンは慌てた様子で水を差し出す。アクアはそれを無言で受け取ると、喉を鳴らして飲みはじめた。 「……で、じゃ」 一方の葵は咳き込む事なく、じっとりとした瞳である一点を見つめていた。 「何故あやつがこの部屋におるのじゃ?」 「ん?」 ……即ち、シリウスを。 「やだなぁ、葵殿。そんなに見つめられると照れるじゃないか」 「ボクニホレチャッタ〜?」 「そんなわけがあるか!おぬし、まさかまたおかしな事を企んでいるのではないだろうな。マリン殿に何かするつもりであれば、私の剣の錆となって貰うぞ」 眼光鋭く見つめられても、シリウスは少しも怯んだ様子を見せない。むしろ楽しげに目を細めるばかりで、非常に楽しげですらある。 「やだなぁ、葵殿は今帯剣していないじゃないか。それとも、何処かに暗器でも仕込んでいるのかな?」 「ソノカッコウダト、フトモモアタリニナイフヲカクスクライガガセイゼイダヨネー」 「ぐ……っ」 葵は何故か言葉に詰まってしまう。もしかすると、今の自分の格好の事も、帯剣していない事も、すっかり忘れていたのかもしれない。 「……じゃあ、わたしが魔法をうちこんであげるわ」 「アクア殿……!」 横合いから挟まれた淡々とした言葉に、葵は顔を輝かせる。そんな彼女の顔を見上げながら、アクアはいつも通りの無表情で言葉を続ける。 「かし、だからね」 「ああ、分かっておる!ありがとうじゃ、アクア殿!」 「べつに、お礼なんていらないわ。……わたしもシリウスにはイライラしてるし」 「ああああのおふたりとも、ここで魔法をお見舞いするのはやめて欲しいんですけど……!」 恐る恐るといった様子で、マリンが制止の言葉を投げかける。ここで魔法なんて使われたら、ウェディングドレスにどんな被害が及ぶか分かったものではない。もうすぐ式がはじまるのだ、こんな所で無駄な時間を消費するのも避けたい。 「あの、あの、時間ももうあと少ししかないですし、アクアさんも葵さんも、化粧師さんにお化粧して貰ってきて下さい」 「な、なにっ!?」 その言葉に仰天したのは葵である。彼女は常日頃からノーメイクで過ごしているし、そもそも化粧というものをした事がない。騎士としての仕事をこなす事が多い彼女にとって、汗ですぐに流れ落ちるそれを施す事ほど無意味なことはないからだ。 幸いというべきか、彼女の顔立ちはとても整っている。化粧で彩らなくても十分に美しい顔をしているので、その事で文句を言われた事もなかった。 が、今日というこの日は、それを施さなければならないらしい。想像すらもしていなかった現実に、葵は衝撃を受けていた。 「ど、どうしても化粧をせねばならぬのか?」 「どうしてもです!そんなに綺麗な格好をしているんですから、もっともっと綺麗にして貰いましょうよ。葵さんなら私よりももっと綺麗になれると思います、はい!」 ……臆面のない笑顔でそう言われてしまえば、葵には断る事など出来はしない。今日の主役はマリンであり、彼女の願いは最大限叶えるべきだろう。 が、それでも抵抗感があるのは事実であり、葵の気持ちは深く深く沈んでいくのだった。 「……わたしはもうおけしょうして貰ったよ?」 その言葉通り、アクアは葵を探しに行く前に既に化粧を施して貰っていた。今日の主役は勿論マリンで、故に彼女よりも数段地味なものではあるが、それでもアクアの魅力を十分に引き出すような化粧を、既にその顔に塗り込めているのだ。 「いやぁ、アクア殿は化粧直しをして貰った方が良いと思うなぁ。汗ででろっでろになってるよ」 「セッカクノカワイイカオガダイナシダ〜」 「え……」 シリウス(とボビーの)の言葉に、アクアは慌てて鏡を覗き込んだ。 ……なるほど、確かに彼の言葉通り、汗で化粧が崩れに崩れていた。とても見られたものではない。 「……わかったわ。こんなかおをしていたら、式にでられないものね……」 「ああ、じゃあ私が化粧師を呼んできましょう。アクア殿も葵殿も、私をお邪魔に思ってるみたいだしね、そのまま退散させて貰うよ」 「バイバ〜イ」 シリウスが部屋を後にすれば、残されるのは三人娘のみ。必要な準備を終わらせれば、すぐに式の時間がやってくる。 「な、なんだか今更ながらにドキドキしてきました……」 マリンはぎゅっと胸元を握り締める。一生に一度の晴れ舞台。今日という日を長い間待ち望み、今日が過ぎ去ればもう二度と行う事のない、幸福に満ちた儀式。 ……あと20分もしない内に、それがはじまるのだ。 「……だいじょうぶよ、マリン」 アクアは微笑む。大切な親友の不安を溶かす為に、慣れない笑顔を懸命に浮かべる。 「ああ。……私達が、ついているからの」 葵もまた微笑んだ。考えるべき事がたくさんあって、けれども今はマリンのことだけを考えるべきだと知っていたから。 今日はきっと、良い日になる。 |