M.Q.I 20話 後編


「いやぁ、良い式でしたねぇ」
 始まる前には色々とあったものの、なんだかんだでブルーとマリンの式はつつがなく終了した。そして今、ふたりが暮らす家の庭では小さなパーティーが開かれていた。
 しみじみと呟きながら、ヨハンはテーブルに並ぶ料理に視線を滑らせた。これは孤児達が作ったものらしく、どれも形がいびつだったりする。が、味の方は特に問題があるわけではないというか、むしろ素朴な味わいで非常に美味しいので、皆思い思いに皿に取り分けているのだった。
「本当ですね。マリンが結婚する姿なんてはっきり言って想像がつかなかったけど……うん、すごく綺麗だった」
 ヨハンの後を追いながら、ユニシスもまた皿に乗せる料理を吟味してゆく。脳裏に描くは先ほどまで目の前で行われていた、神聖なる儀式の光景だ。
 純白の燕尾服に身を包むブルーの元へ、一見しただけでは彼女である事が信じられないほどに綺麗に着飾られたマリンが、ゆっくりと歩いてゆく。ほんのりと上気した頬に、薄くルージュが引かれた薄紅色の唇に、緊張に満ちた瞳に、皆が見入っていた。勿論、ユニシスも。
 やがて神父様の元へと辿り着けば、彼女達は誓いと共に夫婦となった。
 ユニシスは結婚式なんて今まで一度も出席した事がなかった。ヨハンに助けられてからは彼と共にあちこちを放浪していたし、アロランディアに腰を下ろしてからもまともな人付き合いをしてこなかった。彼を式に呼ぶ人間など、ひとりもいなかったのだ。そのアロランディアを出てからは、放浪の旅に逆戻り。式に呼ばれるほど親しい人が出来る前に土地を離れていたのだから、そんな機会はなくて当然だったのだ。
(……なんか、夢を見てるみたいだったよな)
 眼前で行われた誓いの儀式は、なんだか現実味がなかった。ブルーもマリンも、いつものお気楽で脳天気そうな顔つきとは全く違う、緊張と期待と喜びに満ちた表情を浮かべていた。一度も見た事のないふたりの顔に、衣装に、雰囲気に、ユニシスは完全に呑まれてしまったのだ。
 ユニシスは遠くで孤児達に囲まれているブルーとマリンに視線を向ける。
 陽の光の下で微笑むふたりの顔は、いつもと同じに見えた。マリンに施された化粧は未だ落ちてはおらず、彼女に関しては普段よりもずっとずっと綺麗に見えるが、それだけだった。式の最中に覚えた「あれは本当にブルーとマリンなのか」という疑問は一切浮かんではこない。
(……結婚式って、すごいんだな)
 伊達に『儀式』を名乗ってはいないと思う。それを行う人間の印象を劇的に変えてしまうほどの力を、結婚式は持っているのだと思う。
 そんな事をつらつらと考えながら、ユニシスはチーズと鶏肉とハーブ類が挟まれたサンドイッチを手に取り、
「……ユニもアクアさんも、いつかはあの場所に立つ事になるんですかねぇ」
「ぶっ」
 ……ヨハンの言葉に、危うく取り落としそうになった。
「い、い、いきなり何を言い出すんですか、先生!?」
「だって、あんなに幼かったマリンさんが結婚したんですよ?だったらユニもアクアさんも、すぐにそういう事になるのかな、って」
「なりませんよ!」
 ユニシスはぎゅっと拳を握り締めながら、真っ赤な顔で反論する。そもそも自分はアクアに告白すら出来ていないのだ。結婚式を行うなんて、そんなの段階をすっ飛ばし過ぎている。
 というか幼かったって何だ幼かったって。三年前、ヨハンや自分と出会った頃のマリンは既に15の齢を迎えていた。そんなの、幼いと言われるような歳ではないと思うのに。
(ああ違う!こんな事はどうでも良いんだ!)
 横道に反れそうになる思考をなんとか元に戻すと、ユニシスは口を開く。
「俺達付き合ってもいないんですよ!?結婚なんて出来るわけないじゃないですか!」
「え」
 丸眼鏡の奥の瞳が大きく見開かれる。ユニシスには何故ヨハンがそんな反応をするのか、さっぱり理解出来ない。
「せ、先生は俺達が付き合ってるとでも思ってたんですか!?」
「えええ!?い、いえ、そんな事は全く、想像した事もありませんよ!」
 慌てたように首を横に振るヨハン。その顔には隠しようのない困惑の色が滲み出ている気がした。
「というかですね、どうしてユニとアクアさんが結婚する話になってるんですか?」
 ユニシスは耳を疑う。どうしてって、そんなの理由は明白なのに。
「せ、先生が言ったんでしょう!?俺とアクアもすぐに結婚する事になるのか、って!」
「え、いや、私が言ったのはユニ『も』アクアさんも、であり、ユニ『と』アクアさん、ではないのですか……」
「へ」
 ユニシスは瞳を瞬かせる。ユニ『も』アクアさんも、『も』、『と』ではない、という事はつまり先生は自分の隣にアクアが立つ結婚式とかアクアの隣に自分が立つ結婚式を想像したのではなく、自分の隣に見知らぬ誰かが立つ結婚式とかアクアの隣に見知らぬ誰かが立つ結婚式を想像したわけで、要するに全て自分の早合点だったわけで。
 理解に及べばユニシスは羞恥に頬を染めた。最近は殆ど毎日アクアの事で頭を悩ませているが、しかしだからといってこんな単純な勘違いをするほどとは思っていなかった。
「す、すみません先生!俺、俺、勝手に勘違いして、勝手に怒鳴ったりして……!」
 蜜色の頭を下げ、ユニシスは謝罪の言葉を口にする。
「い、いえいえ。私も少し分かりにくい言い方をしてしまいましたね、申し訳ありません」
 違う、悪いのは自分だ。先生は何も悪くない。……そう言いかけた言葉を、ユニシスはすぐに呑み込んだ。多分、先生は謝られる事を望んではいない。そう思ったから。
「……ですが、ユニとアクアの結婚式ですか……少し見てみたい気がしますね」
「……っ、先生!」
 冗談なんだか本気なんだかいまいち判別がつかない言葉(……おそらく後者の可能性が高いと思われるが)に、ユニシスは慌てたように顔を上げた。その頬は先ほどよりも赤くなっていた。
「アクアさんも花嫁付き添い人として式に関わっていましたし、色々な手順や裏方のお仕事も理解出来たでしょうし、あの子の結婚式は滞りなく進みそうですね」
「……そうですかぁ?」
 アクアの結婚式、という言葉に一瞬だけ動揺しかけるも、続く言葉がユニシスの頭を冷静にさせた。
「あいつ突拍子もない事が好きだし、変な提案やアイディアを盛り込んで、神父様や参列者の度肝を抜きそうな気がするんですけど」
「そ、そんな事は、」
 ヨハンの言葉が不自然に途切れる。少しだけ顔を上向け、眼鏡の奥の瞳が宙を見つめた。
「……あるかもしれませんねぇ」
「でしょう!?]
 同意を得られた事に喜びながら、ユニシスはマッシュポテトを掬い上げる。
「まぁ、ですがそれはアクアさんのお婿さんとなる方が止めれば良いのではないでしょうか。あの子だって、好きな人の頼みでしたら素直に聞くでしょうし」
「……それ、本気で思ってますか?」
「……希望的観測が多分に含まれていますね、はい」
 ははは、とヨハンは渇いた笑い声を上げた。この世の何処かにアクアの暴走を止められる人間が存在している――彼はそんな希望を信じたいのかもしれない。
(しっかし、好きな人の頼みねぇ……)
 例えば、もしも、可能性の話として、先生の言うように自分とアクアが式を上げる事になったとしたら。
 突拍子もないアイディアを出すアクアを、自分は止められるのだろか。
 アクアは、自分に従ってくれるだろうか。
(……って、なんでこんな事を考えてるんだよ、俺は!)
 ユニシスはぶんぶんと頭を振る。先ほどヨハンに言ったように、自分はまだアクアと付き合ってはいないのだ。結婚なんて夢のまた夢である。
(つーか、そもそも結婚したいかどうかも分かんないんだけどさ……)
 結婚、婚姻、夫婦。そんな言葉、自分にとってはまだまだ遠いものだ。ブルーのように燕尾服を着込み、教会に立つ自分の姿なんて、想像すらも出来ない。
 ……だけど。
(……アクアがあのドレスを着たら、どんな感じになるんだろう)
 肌が白く、銀色の髪を持つアクアは、外見だけならばとても儚く見える。そんな彼女が一切の汚れが存在しないウェディングドレスを着込み、綺麗に化粧を施され、ヴェールを被れば、まるで雪の精のように美しくなるのではないか。
 想像の中のアクアが笑う。いつも無表情な彼女が精一杯に浮かべる、微かな笑み。華奢で白い体躯はしかし不健康そうには全く見えず、これが彼女にとっての標準体型なのだと理解出来る。薄い唇が開き、可憐な声が放たれた。
「ユニシス」
「うわあああああああああああ!?」
 突然に隣から聞こえてきた声に驚き、ユニシスは飛び上がった。慌てて声が聞こえてきた方向に振り返れば、怪訝そうな顔をしたアクアが居た。
「……なに、なんでそんなにおどろくの?」
 ごもっともな質問である。しかしながら正直に「ウェディングドレス姿のお前に名前を呼ばれる所を想像していたからだ」などと言える筈もない。ユニシスはもごもごと「なんでもない」とか「驚いて悪かったよ」とか言いながら、震える手でサラダに手を伸ばす。思いっきり不審な態度である事は理解していたが、それ以外にはどうにも出来なかった。
 アクアは怪訝そうな表情を崩す事はなかったが、それでもそれ以上は何も言ってこなかった。
「アクアさん、マリンさんの近くに居なくて大丈夫なんですか?」
 アクアは花嫁付き添い人である。付き添い人の仕事は主に花嫁のお世話をする事なので、ヨハンの疑問は尤もなものだった。こんな場所に居たら、マリンのお世話をする事など物理的に不可能だ。
「だいじょーぶ。マリン本人にじゆうにしてもらってかまいませんって言われたし、しばらくはおやくごめん。パーティーがおわるまで、楽しむことにするわ」
「そうですか。式の最中はお疲れ様でした」
「うん。もっといたわってー」
「はい、アクアさんはとっても頑張りましたよ。良い子ですね」
 ヨハン以外に言われたならば即座に怒りのキックをお見舞いしているであろう台詞であるが、アクアは満足そうに顔を綻ばせている。無骨な手が頭を撫でれば、その顔はますますゆるんでゆく。
(……本っ当、アクアは先生に弱いよな。俺も人の事言えないけどさ)
 三年前ならばアクアを羨ましく思っている所であるが、今の自分はむしろ先生の方を羨ましく思ってしまう。自分も、あんな風にアクアを喜ばせてやれたら良いのに。
「アクアさんは何が食べたいですか?私が取ってきてあげましょう」
「ほんとう?それじゃあね……」
 尚もアクアを甘やかそうとするヨハンにアクアが答えかけたところで、小さな唇は不意に閉ざされてしまった。
 音楽が聞こえてきたのだ。
 様々な楽器が奏でる軽快な音楽。それが聞こえてくる方向へと視線を向ければ、楽団が演奏を開始した事を知る。
 それはアロランディアに古くから伝わる、伝統的な舞踏の音楽だった。とはいっても堅苦しい作法が必要なものではなく、民間人が楽しむ為の気軽な踊りなのだけど。
 マリンの周りに居た孤児達が、楽しげに身体を動かしはじめる。それをきっかけにして、大人達も楽しげにステップを踏み出した。
「……そうだ。わたし、ユニシスをさそいに来たんだった」
「は?」
 孤児達に向けていた視線をアクアに向ければ、彼女はじっとこちらを見上げてきた。
「わたしといっしょに踊ろう?」
 ユニシスは困惑した。何故ここで自分を誘うのか。アクアならばもっと別の人間と踊りたがるのではないか。そんな疑問が拭えない。例えば……
「……先生じゃなくて、良いのかよ」
「うん」
 ……一番踊りたいであろう相手を口にすれば、アクアは即座に否定した。
「先生、けっこうなとしだし、もやしだし。踊れるようなたいりょくはないと思うの……」
 そういう理由かよ、とユニシスは呆れたが、当の本人のヨハンは「アクアさんは私の事がよく分かっていますねぇ」と感心しているので、ますます呆れてしまう。弟子が弟子なら師も師である。
「それに、わたしがいちばん踊りたいあいては、ユニシスだよ」
「え」
「先生じゃなくて、ユニシスとおどりたい」
「……っ」
 ……それは、今のユニシスにとっては一番の殺し文句だった。そんな言葉で誘われてしまえば、返せる答えなどひとつしかないに決まっていた。
「……分かったっ。一緒に踊るよ!」
 照れが勝って随分と大きな声を出してしまったが、アクアは嬉しそうに笑ってくれた。たったそれだけの事でこちらも嬉しくなるのだから、恋心というのは安いものだ。
 半ば自分で自分に呆れながら、ユニシスはアクアの手を取った。
 三年前、この島で暮らしていた頃には繋ぐ機会も多かった小さな手。ヨハン先生のものとは比べものにならないくらいに頼りなくて、どうしてこの手を自分が引かなければならないのか不満に思った事もたくさんある。
 ……それでも、今は。
 今は、この手が一番大切だと思う。小さくて頼りなくて、けれども本当は誰よりも強い力が宿っている手。それを自分が引いてゆく許可を与えてくれるのならば、喜んでそうしようと思う。
「ユニシス、ステップわかる?」
「そんなの、分かるわけないだろ?俺、ダンスなんてやった事ねーもん」
「そ。まぁ大丈夫よ。てきとうにうごけば何とかなるわ。こういうのは楽しんだものがちだもの」
「そういうもんか?」
「そういうものよ。今日の主役ふたりはそういうにんげんでしょう?」
「……そうだな」
 身を翻し、手を取り合って、金と銀が舞い踊る。普段から運動不足気味の魔導士ふたりの動きはぎこちない事この上なく、麗しい外見には全く似合わない、コミカルな踊りを披露していた。
 けれどもそれを馬鹿にする者など、この場には誰ひとり存在しない。楽しげな笑い声だけを響かせながら、あたたかな視線を向けるだけだ。
「ね、ユニシス」
「なんだ?」
 くるりと回転しながら、アクアが声を弾ませる。
「わたし、ダンスってあんまり好きじゃないの」
「はあ!?」
 あっさりとこぼされた衝撃の事実に、ユニシスは耳を疑った。
「ダンス、あんまり好きじゃないの。うんどう、にがてだし」
 菫色の瞳を細めながら告げられた言葉はその表情とは真逆のもので、ユニシスは混乱する。好きではないのならば、何故そんなにも楽しそうな顔をするのか。何故自らダンスに誘ってきたのか。
「でも、ユニシスといっしょだから楽しいよ」
 とん、と軽やかなステップで距離を詰めてくる。心底から浮かべていると思しき、伸びやかな笑顔が眼前に広がる。
「わたし、ユニシスのことが好きだから」
「……!」
 ユニシスは理解した。たった一言の『好き』という言葉。葵ほどではないにせよアクアも自分も恋愛事には疎い方だと思うし、例えばその『好き』が親愛の意味を込めた言葉であると解釈する事もきっと、あり得ないことではなかったのだと思う。
 それでも、ユニシスはそう解釈しなかった。自惚れでも希望的観測でもなく、アクアはたったひとつの意味を込めてその言葉を発したのだと、疑う事なく信じる事が出来た。
 好きな人の言葉だから。
 大好きで大切で、いつの間にかヨハン先生よりも優先させていた人の言葉だから……正しく理解出来たのだと思う。
 頬が赤くなる。今すぐにアクアから目を逸らさなければもっと赤くなると知っていて、けれどもユニシスは真っ直ぐに彼女を見つめ続けた。頬が赤くなる事よりも、気恥ずかしさよりも、アクアを見つめていたいという欲求の方が勝った。
 アクアが踊る。楽しげに、幸せそうな笑顔を浮かべながら飛び跳ねる。
「……き、奇遇だな」
 多分、今の自分は先ほどまでよりもぎこちない動きをしているのだと思う。果たしてダンスと呼べるような動きをしているのかどうかも定かではなく、それでもユニシスは口を開く。今を逃してしまえば、次に伝えられる機会はいつ訪れるのか分かったものではないのだから。
「俺も……俺もお前が好きだよ」
 アクアの瞳が見開かれる。けれどもそれも一瞬の事で、すぐに元の表情へと戻っていった。
「……なんだ」
 伸びやかで楽しげで幸せそうな――満面の笑顔。
「わたしたち、両思いなのね」
 触れ合う指先が気恥ずかしい。
 ドレス姿のアクアは綺麗で、礼服姿の自分を彼女は格好良いと言ってくれた。いつもと違う格好をしていなければ、こんな事はきっと口には出来なかった筈だ。
 非日常の中で告げた日常の延長線上に見つけた気持ちは、最上の結末へと導いてくれたのだろう。
 ユニシスの唇に笑みが刻まれる。身体中から溢れる幸福が、彼に笑顔を浮かべさせた。
 初々しい恋人達は、不器用な足取りで踊り続ける。


「ああ、やっぱり葵さんは飲み込みが早いね。はじめて踊ったなんて、とても思えないよ」
「そ、そうかの?」
 リュートは満面の笑みで頷いてくれるが、葵にはその言葉をいまいち信じる事が出来なかった。
 庭で開かれているパーティー。その中には、勿論日野平葵の姿もあった。マリンが自由に過ごしてくれて良いと言ってくれたので、彼女もまたアクアと同じように新郎新婦の元から離れた。あのまま親友の世話を焼いていたい気持ちもあったのだが、折角の人生に一度の晴れ舞台なのである。少しくらいはふたりきりにさせてあげた方が良いかもしれないと思ったのだ。
 ……まぁ、そんな彼女の思惑は孤児達が木っ端微塵に打ち砕いている最中なのだが。
 それでもマリンもブルーも楽しげで幸せそうな笑顔を浮かべているので、あれはあれで良いのかもしれないけれど。ブルーの方はどうだか知らないがマリンは結構な子供好きだし、彼女の『家族』である孤児達であれば尚更好ましく思える事だろう。彼らに構われる事を本人達が楽しんでいるのなら、自分がとやかく言うべきではないのだ。
 ……が、マリンの側を離れるとなると、重大な問題が浮き上がってくるのも事実である。
 アークだ。
 アークは言った。マリンの世話をする時以外は俺の隣に居ろ、と。また避けるような真似をしたら許さない、と。
 そんなの無理だ。こちらの心臓が持たない。
 彼の気持ちにずっと気付いていなかった事は申し訳ないと思う。しかしだからと言って平気な顔をして彼の隣に居る事なんてとても出来そうにない。己を異性として意識している人間とどう接すれば良いのか、さっぱり分からないのだから。
 そんな事をぐるぐると考えていると、リュートに声をかけられた。彼は直前までアークと共に居たらしいが、そのアークは少し席を外しているらしい。
 葵は安堵した。その思いが分かりやすく表情に出たらしく、リュートに苦笑されてしまった。君達何かあったでしょ、と直球で問われもした。
 答えに窮した所で音楽が鳴り響き――リュートと葵は今、こうして踊りに興じているのだ。
「やっぱり運動神経が良いと、こういう事も簡単に出来ちゃうんだね。羨ましいなぁ」
「う、羨ましいなどと言うがな、おぬしだって運動神経は良い方であろう?」
「僕?まぁ悪くはないと思うけど……アークや葵さんほどじゃないからね」
 アークの名が出た途端、葵は身体を強張らせる。こういう反応が分かりやすいのだろうな、と理解してはいるのだが、自分の意志ではどうにも出来ないのが困りものだ。
「……アークと何があったの?」
「……っ」
 葵は答えに詰まる。正直に答えてしまって良いのか、判断がつかなかった。
 ……正直に答えてしまったが最後、胸にわだかまる全ての思いを口にしてしまう気がして、恐ろしかったのだ。
 日野平葵は、誰かに何かを相談するという事を極力してこなかった人間だ。日野平の当主である彼女は、全てを自分の力で解決しなければならない立場にあった。頼れる者と言えば紅丸以外にはおらず、その彼ですら、少し気を抜いた途端にこの身を食らい、一族を食らい尽くす『敵』でもあったのだ。
 だから、葵には分からない。人に頼るという行為をどう行えば良いのか、根本から理解出来ない。マリンやアクアが当たり前のような顔をして行うそれが、彼女の中では理解の範疇外に存在しているのだ。
 葵が葛藤している事を見て取ったリュートは、殊更に明るい声を出した。
「昔もさ、こんな風に葵さんと踊った事があったよね。もっと堅苦しい、格式張ったダンスだったけど」
「え、あ、ああ……」
 それは、三年前の話だ。
 ……リュートがアークを裏切った、その当日の話だ。
 どう反応すれば良いのか分からず、葵は曖昧な声音で言葉を返した。あの日の事を思い出すという事は、アークのことを思い出す事でもある。流暢な返事をするなんて、彼女にはとても無理だった。
「僕さ、あの日からひとつだけ分かっていた事があるんだ」
「……分かっていた、事?」
 意味が理解出来ず、葵は眉根を寄せてリュートの言葉を繰り返す。
「葵さん、君の気持ちだよ」
「………」
 葵は目を見開いていた。自身ですらも把握出来ないそれを、目の前の男は理解していると言うのか。
 気持ち、気持ち、気持ち。その言葉が指し示すものは、多種多様に渡っていると思う。彼がどの『気持ち』を理解しているのか、葵には推測する事すらも出来なかった。
「ね、葵さん。あの時僕は言ったよね」
「な、何をじゃ?」
 問えばリュートはこちらの手を取ってきた。彼が踏むステップが、あの時の堅苦しくて格式張ったものへと唐突に変化する。
「アークの側に居てくれ、って」
「……っ」
 楽団が奏でる音楽はあの時とはまるで曲調が違う。全く音楽に合っていないステップを踏みながら、しかしリュートの動きは全く淀む事がない。何が運動神経が良くて羨ましい、だ。自分の方がよっぽどすごい事をしている癖に――葵の脳裏は、彼の言葉とは無関係な事を考えはじめる。
 要するにこれは現実逃避なのだろう。考えたくない事を考えない為に、向き合う事が恐ろしい事に向き合わない為に、どうでも良い事に意識を向けているのだ。
「君達は恋人にならなくちゃ。……そう言った事、覚えてるよね?」
「お、覚えているが……」
 いきなりあんな突拍子もない事を言われたのだ、忘れられるわけがない。
 ……よくよく考えてみれば、あの時のリュートはアークの自分への思いを理解していたのかもしれない。彼の思いが誰に向き、何を欲していたのか、幼馴染であるリュートには全てお見通しだったのかもしれない。
 だからこそあんな事を自分に言ってきたのか。裏切りを働く己の代わりに、日野平葵というアーク・ハリントンの思い人に、彼を支えて欲しいと願ったのか。
「僕はね、ダリスで暮らしていた三年の間ずっと、葵さんがその通りにしてくれたんだって信じていたんだ」
「………」
 葵にはその言葉に答える事が出来ない。何を言えば良いのか分からなかった。
 そして、リュートもまた答えを待つ事はしなかった。
「だから、びっくりしたんだ。アロランディアに帰国して、はじめてアークに会った時。……葵さんに振られたって聞いて、すごくびっくりした」
 葵は何も答えない。答えられない。
「だって、僕はね、」
 リュートは踊る。優雅にステップを踏みながら、そっと葵に囁きかける。
「君の気持ちが何処に在るのか、理解していたつもりでいたから」
 葵はそっと視線を上げた。三年前はさほど変わらなかった背丈が、今ではリュートの方が少しだけ高くなっている。葡萄酒の色を宿した瞳は、光の加減によっては血のように見える事もある。今葵が目にしている色は、まさしく血の如き赤だった。
「葵さん。答えはきっと、もう出ているんじゃないかな」
 ……記憶の中の誰かを思い起こさせる、紅だった。
「あの断絶の日に、既に」
 ……君は、アークの側に居る事を選んだでしょう?
 秘め事のように囁かれた言葉は、葵の胸にずしりと落ちた。その意味を考える事は、今の彼女にとっては大変な勇気と覚悟を必要とすることで、けれどもそれでも考えなければならないと思う。
 アークの為に。
 ……自分の為に。
「葵!」
 楽しげな笑い声と音楽を縫うようにして、呼び声はその名の持ち主に叩きつけられた。驚きのあまり動きを止めれば、すぐに声の主がこちらへとやってきた。
 その顔を憤怒に染めた、アーク・ハリントンが。
「……怒らせちゃったみたいだね?」
 相変わらず勝手だなぁ、こんな事くらいで怒らなくても良いのに、と呟くリュートの唇には、確かな笑みが刻まれていた。
 葵は咄嗟にリュートの手を離した。自分でも何故そんな行動をしたのか分からないが、勝手に身体が動いていたのだ。
 リュートの瞳に寂しげな色がよぎった。その様に葵は動揺するが、それも一瞬の事だった。彼の瞳によぎった色はすぐさま消えてしまう。
 リュートに何かを問う間もなく、葵の手はアークに掴まれた。
「お前な!なんでリュートと踊ってるんだよ!」
 相も変わらぬ理不尽な怒り。何度それをぶつけられてもその理由に辿り着く事が出来ないことの多い葵である。今回もまた、アークが何故怒っているのか理解する事は出来なかった。
「な、なんでと言われても……踊りたかったから、としか答えられぬ」
 語調の強さに戸惑いつつもそう答えれば、アークの眉はますます吊り上がってしまう。
「俺の気持ちを知っててそういう事するか?普通」
「はあ?」
 何故責め立てるような口調でこんな事を言われなければならないのか。不愉快で不可解な怒りに、葵は顔を歪める。
「わ、私が誰と踊ろうと自由ではないか。何故おぬしに責められなければならぬのだ」
「俺がお前の事を好きだからだよ!」
「……っ」
 思いがけず大きな声で返された答えに、葵は容易く怯んだ。アークの声は周りで踊っていた人達の耳にも届いてしまったようで、無遠慮な好奇の視線がこちらに集う。羞恥に染まる葵の頬を、リュートは複雑な感情が入り混じった瞳で見つめていた。
「……ちょっとー、こんな公衆のめんぜんでちわげんかなんかしないでよ……」
 と、踊りの輪の中に居たアクアが抗議の声を上げた。共に踊っていたユニシスが制止の声を投げかけるが、彼女には言う事を聞くつもりは全くないようだ。彼の方には見向きもせずに、はっきりと言い放つ。
「わたしたち、今いちゃいちゃしてるんだから、じゃましないで」
「……っ、アクア!」
 いちゃいちゃ、という言葉にアークもリュートも葵も目を丸くする。怒鳴りつけたユニシスが怒りの表情を浮かべているのならば、いつもの冗談なのだと解釈し、別段驚く事もなかったのだと思う。
 しかしそのユニシスが今浮かべている表情は、怒りではなく羞恥である。先ほどまで葵が浮かべていた表情と同じ種類のものなのだ。
 アークは悟る。それなりの恋愛経験を誇る彼は、すぐさまユニシスの表情の意味を理解してしまった。
「……え、なに、お前らいつの間にそういう関係になったの?」
「え、嘘、そういう事なの!?」
 アークの言葉にリュートもすぐに悟ったらしい。驚きに見開かれた瞳で、ますます顔を赤くする金の少年といつも通りの飄々とした態度を崩さない銀の少女を交互に見つめる。
「……な、なんじゃ?どういう事なのだ?」
 ……ただひとり、葵だけは全く理解出来ていなかったのだが。
 アークとリュートは呆れた表情で顔を見合わせた。分かっていた事であるが、恋愛関連における葵の鈍さは底なしだ。
「わたしとユニシス、両思いなの。だからいちゃいちゃしてるの」
「は……」
 葵は瞳を瞬かせる。流石の彼女もそこまではっきり言われればきちんと理解出来るらしい。端正な顔に衝撃が広がっていった。
「だから邪魔しないで。ちわげんかはよそでやってちょうだい」
「……っ、あーもーアクア!そんな事わざわざ言い触らさなくても良いだろう!?本っ当デリカシーの欠片もない奴だな!ほら、あっち行くぞ!」
「あ」
 ユニシスは真っ赤な顔でアクアの手を掴むと、葵達に背を向けて走って行ってしまった。途中でシリウスに声をかけられ、何かを言い返している姿が確認出来る。
 残されたのは騎士院の元名物トリオ。好奇の目は数を増やしており、居心地が悪い事この上なかった。
 最初に動いたのはアークだった。掴んだままの葵の手を引き、この場から立ち去ろうとしたのだ。
「お、おいアーク!?何処へ行く気じゃ!?」
「人の目がない場所。こんな所に居たらまともに話も出来やしない」
「し、しかしリュートは!?リュートを置いて行くつもりか!?」
 アークの背に僅かに力がこもる気配がした。首だけをゆっくりと動かすと、彼は鋭い瞳で幼馴染を見る。
「……こいつ、借りてくぞ」
「そんな事、僕に許可を取る必要はないんじゃない?」
「……そうだな」
 アークは視線を元に戻す。それ以上は何も言わなかったし、リュートもまた彼に声をかける事はしなかった。
「またね、葵さん」
 リュートが最後に発したのは、そんな言葉だった。


「アーク、アーク!」
 幾度葵が名を呼ぼうと、彼は一度も振り返ってはくれなかった。無言の背中が止まったのは、人波から随分離れた場所までやって来た頃だった。
 ようやく手が解放され、アークがこちらに振り返る。その顔には、先ほどと変わらぬ怒りの表情が乗せられていた。
「な、何故そんなに怒った顔をしておるのじゃ」
「お前な……この期に及んでまだそういう事を聞くわけ?理由なんて、さっきも言っただろ」
「………」
 葵は沈黙する。頭の中が真っ白になる。
 お前が好きだから。それが、彼が口にした怒りの理由だ。
 しかしながら葵にはその因果関係が全く理解出来ない。好きだからリュートと踊った事を怒っている。『好き』と『リュートと踊った事』と『怒り』が、どのように絡み合っているのか、欠片すらも理解出来る気がしなかった。
 アークはひとつ、ため息を吐く。青とも緑ともつかない色を宿した瞳で、半ば睨みつけるように葵に視線を向ける。
「お前って本っ当に面倒臭い女だよな」
「し、失敬な奴じゃな!」
 何故にいきなり罵られなければならないのか。葵は流石に怒りを覚えた。謂われのない怒りをぶつけられ、わけの分からない事で罵られる。これで怒り返すな、と言う方が無茶だと思った。
 しかしアークの方も怯む様子はない。鼻を鳴らし、苛立ったように頭をかきむしる。
「事実だろ?ユニシスとアクアの関係を一発で理解出来ない女の、何処が面倒臭くないんだっつーの。鈍すぎ、面倒臭すぎ」
 葵は言葉に詰まる。アークもリュートも、『両思い』という言葉が出てくる前から彼らの関係に思い至っていたようだし、鈍いという言葉は当たっているのだろう。そんな自分を好いているアークが『面倒臭い』と思うのも当然なのかもしれない。だがしかし、黙ってそんな言葉を受け入れるほど自分は素直ではなかった。
「そ、それはそうかもしれぬが……それが私という人間なのだから、仕方なかろう!?」
「開き直りやがった……」
 その声音に呆れが含まれている事に気付けないほど、葵はアークとの付き合いは短くない。数多の言い争いと衝突を経て、彼の人柄も気性も知り尽くしてきたつもりでいる。
 ……だが、もしかすると『つもり』でいただけで、本当のところは何も知ろうとはしていなかったのかもしれない。
 いつか日本へ帰るから、と。
 ……いつか別れる事が決まっているから。たったそれだけの理由で、自分はこの国で一番長く側に居た彼の事すらも、全く理解する気がなかったのかもしれない。
 表面的な付き合いだけをしてきたつもりはない。互いの胸の内を晒し合い、本音の言葉でぶつかり合った事は一度や二度ではないのだ。生身の感情は互いを知る為に必要不可欠なもので、けれども互いを『知りたい』と思えなければ、それは無意味なものと化してしまう。
 ……自分は、無意味にしたのかもしれない。
 アークが自分を知りたいと思う気持ちも、マリンが、アクアが自分を知りたいと思う気持ちも、全て無意味にしてきたのかもしれない。
 故郷に心を奪われて、故郷だけを思ってきたのならば――その可能性を否定する事は、出来ないのだ。
「葵?」
 不自然に沈黙するこちらを心配したのか、アークが怪訝そうに名前を呼んでくる。
 葵。日野平葵。
 七姫。
「……故郷では、」
「は?」
 脳裏に思い浮かぶは懐かしき故郷。日本の姿。日野平葵が生まれ育った場所。
「故郷では、葵と呼ばれる事は稀だった」
 アークはあからさまに顔を歪めた。分かりやすい。彼はいつも、自分が日本の話をはじめると不愉快そうな顔をする。出会ったばかりの頃はむしろ積極的に聞き出してきたのに、時が経つにつれてこんな反応を示す事が多くなってきた。それを理解していたから、自分もまた彼の前で故郷の話をするのを避けてきたのだ。
 ……けれど、それでも口にする。
「皆私の事は七姫とか、使用人や里の者は姫様とか、そう呼んだ」
 アークが自分を好きだというのなら……これは、避けては通れない事だから。
 ……日野平葵の基盤は、日本で培われてきたのだから。
「妖に名を取られぬ為にも、それは必要な事だった。ずっと共に居た紅丸も……私の本当の名を口にしたことは、なかった」
 ……そうだ。自分は、一度だって紅丸に名を呼ばれた事はなかった。呼ばれたが最後、自分は彼に食われていただろう。
 それでも、彼は呼んだ。
 ソロイ・ブラーエは名を呼んだ。低い声で、自分を呼んだ。『七姫』ではなく、『葵殿』と。
 ……そう呼ばれても、食われる事はなかった。
 自分は今もふたつの足で地面を踏み締め、生きている。
 それは、もしかすると奇跡にも等しい出来事なのかもしれない。どれだけ名を呼ばれても、彼は自分を害さない。
 人は、人を食らわないものだから。
「のぅ、アーク」
「……何だよ」
 少しだけ拗ねたような声に、葵は苦笑した。ああ本当に、この男は自らの感情に何処までも忠実だ。
「私はきっと、『七姫』であった事を生涯忘れることは出来ぬだろう」
「………」
「……故郷を忘れる事は、永劫に出来はしない」
 ……ソロイ・ブラーエが『紅丸』を捨て『日本』を忘れたように、自分が『七姫』を捨て『日本』を忘れる事は絶対に出来ないのだ。
 それを忘れるという事は、過去を捨て去るということで。
 過去を捨て去るという事は、巫女である自分を捨て去るということで。
「……俺が忘れろって言っても、無駄なんだな?」
「……ああ」
 ……巫女でない自分は、きっと無価値なものだから。
 だから捨てられない。どうしても。懐かしき日本の面影を、忘れたくないと願う。
 ……けれど。
「……アロランディアを愛する事は、出来るのかもしれない」
「え……」
 『紅丸』が己を捨て、人の姿を取ってまで守りたいと願ったもの。青き空と海に囲まれた、美しきはじまりの地。
「この地を日本と同じくらいに愛する事は、出来るのかもしれない」
 いつか『紅丸』は死ぬ。人を食らう事も、日野平の血を摂取する事すらも拒んだ彼は、いつか『ソロイ・ブラーエ』として果てるのだろう。
 ……彼の代わりに、自分がこの地を守る事が出来るのならば。
「時間はかかるかもしれない。けれど私は……そうしたいと思うから」
「葵……」
 日本が好きだ。彼の地に住まう人々がどれだけ自分を恐れていても、自分は彼らが好きだった。守るべきものを好きになれなければ、それはたちまち苦行と化してしまう事を知っていたから。
 だから好きだった。好きでなければいけなかった。
 帰りたい、と思う。
 帰れない、と思う。
 自分はきっと、生涯そう思い続けるのだろう。何度も何度も彼の地を夢に見て、何度も何度も帰れぬ現実を思い知り、嘆くのだ。
 それでもきっと、その頻度を下げる事は出来る筈で。
 ……この地に住まう人々を、真の意味で知りたいと思えるようになる筈で。
「なぁ、アーク」
 あおい、と。
 数え切れないほど、彼はその名を呼んでくれた。もしかしたら日本に居た頃に呼ばれた数よりも多く、その声で自分の名を口にしてくれたのかもしれない。
 だから呼ぼう。自分もまた、彼の名前を。
 たったひとつの、彼の名前を。
「私はきっと、おぬしの思いにすぐには答えを出せぬと思う」
 絶対に、なるべく早くに答えをくれと言われた。彼が苦しんできた年月を思えば、それは当然の権利なのかもしれない。けれど、自分にはそんな事は不可能なのだ。
 アークの事はずっと友達だと思ってきたし、恋だってしたことがない。そんなものは自分とは無関係なものだと……巫女とは無関係なものだと、思い込んできたから。
 何が恋で何が愛か。それを見極める事すらも、今は出来そうにないのだ。
 ……それでも。
「待ってくれるか。いつになるかも分からぬ答えを、おぬしは待ってくれるか」
 答えを出したいと思う。
 日野平葵を、七姫以外の存在として求めてくれたアークの気持ちに、いつかは答えたい。受け入れるにせよ拒絶するにせよ、答える事が義務だと思うから。
 アークは瞳を閉じる。形の良い唇が刻んだものは、確かな笑みで。
「……待つよ」
 ……静かに、そう言ってくれた。
「アーク……」
「いつか絶対に答えを出してくれるのなら、俺は待てるよ。いくらだって」
 鈍いお前がそこまで言ってくれているんだ。なら、待つしかないだろう?――そう告げるアークの顔には期待と喜びと、隠しきれない少しの落胆の色が宿っていた。
「あんまり遅くなったら、急かす事はするかもしんねーけどな」
「な、なにぃ!?」
「冗談だって、冗談」
 ……アークがこうして変わらぬ笑顔を向けてくれる事は、自分が今も生きていることと同じくらいの奇跡なのかもしれない。
 日本に心を奪われている自分を……アロランディアの人間に真の意味で向き合わなかった自分を、それでも好きだと言ってくれる。長い間彼の気持ちに気付けなかったのに、それよりも長くなるかもしれない時間を、待ち続けると言ってくれる。

 帰りたい、と思う。
 帰れない、と思う。
 帰れなくとも構わない、とは思いたくない。

(……それでも、覚悟は決めよう)
 アロランディア。異国の地の人々。自分を思ってくれている人達と向き合う覚悟を、そろそろ決めなければならない。
 そうする事で、巫女としての自分は消え去るのかもしれない。それはとても恐ろしい事で、けれどきっと、残るものはある筈だから。
 ……『巫女』として生きた証が、何かひと欠片だけでも残ると信じたいから。
 だから葵は笑った。大切な友人に対して、心からの笑顔を向けた。
 日野平葵のアロランディアでの人生は、これからはじまるのだ。


 己の伴侶となる少女は、とても綺麗だった。
 真っ白なドレスに身を包み、こちらへと歩み寄ってくる彼女の姿は、今まで見てきたどんなものよりも美しく思えた。心臓が甘く高鳴って、自分が彼女に恋をしている事を思い知る。
 ケッコンシキ、というものをする意味が、自分にはよく分からなかった。好きになったのならそのまま一緒に暮らせば良いし、子供が欲しくなったのなら作れば良い。生き物は子孫を残す為に生きているのだし、それが自然の摂理というものだ。わけの分からない儀式をする必要性が、一体何処にあるというのか。
 そう思っていながらも結婚式を行う気になったのは、彼女がそれを望んでいたからだ。これからは人の中で暮らしていくのだから人のルールを守る必要性もあるのだし、と深く考えずに決めた部分がある事も否定しない。
 ……けれど、思い知った。
 結婚式の必要性。未来を決める為の儀式。その必要性が、今のブルーにはとてもよく理解出来ていた。
 結婚式とは、幸福を倍増させる為に行うものだ。
 ……覚悟を決める為に行うものだ。
 人には高い知性がある。考える力というものはある意味厄介で、生きる為に必要な事以外のことで思い悩んでしまう事もあるのだ。
 そうして悩んだ結果、婚姻関係を解消する事もあるかもしれない。或いはパートナーとの考え方が異なった場合、衝突する事もあるかもしれない。
 それでも結婚する覚悟があるのか。
 結婚式とは、それを問う為に行うのだと思った。
 自分の答えは決まっていた。覚悟も何も、マリン以外の人間と結婚するつもりなどなかったし、彼女以外の人間を好きになる事もないと言い切れる。
 彼女は自分にとって、唯一の人なのだ。
 ……マリンにとっての自分も、きっとそうだ。
 そうでなければ、彼女はこんなにも幸せそうな笑顔を浮かべてはいない筈だから。
「マリン」
「はい」
 名を呼べば、彼女はすぐに返事をしてくれる。綺麗で可愛くて、とても強い心を持った、生涯を共にするひと。
 孤児達に囲まれながら、ブルーは自然と笑みを浮かべていた。
「幸せだね」
「はい!」
 マリンの指にはめられた青い指輪。かつて自分の中に在った力が、今は彼女の元に在る。
(……僕は、捨てるんじゃないよ)
 世界に漂う何か。自分を求めてくれていたもの達に、ブルーは心の中でそっと語りかける。
(僕は君達を捨てるわけじゃない。人は醜くて残酷で愚かな生き物だって、僕は今でも思っている)
 ……世界を傷つけた種を、どうして許す事が出来ようか。
(……それでも、未来は分からないから)
 未来永劫、醜くて残酷で愚かな生き物で在り続けるとは言い切れない。
 人は成長出来るかもしれない。地の女神に慈しまれ、空の女神に期待をかけられた種なのだ。それに応える義務が、彼らにはあると思う。
 ……そして、彼女はそれを体言してくれたから。
 暗く冷たいあの青の洞窟に、自らの力で辿り着いてくれたから。
(僕は信じるよ)
 そっと、マリンの手を握る。小さくてあたたかな、大好きな人の手の平を。
(人が、この星の一員として成長してくれる事を)
 ぎゅっと。
 彼女が手を握り返してくれる。確かな反応に、ブルーは何故だか泣きたくなった。
(……ねぇ、君。僕はずっと、君が滅びを呼び込んだのだと思っていたよ。……だけど、違ったんだね)
 美しい金色の少女。はじめて自分の前に現れた、『半分』以外の誰か。
 彼女が運んでくれたのは、きっと――
(……幸せ、だったんだね)
 ふたりきりの世界はそれはそれで幸せだけれど、でも、好きな人が増えればもっともっと大きな幸せが生まれる。
 例えばマリン、例えば葵、例えばプルート、例えばユニシス。
 今自分達を取り囲んでいる、孤児達も。
 ……彼らと共に居られて、幸せだと思うから。
 ブルーは感謝した。『彼女』と出会ってからはじめて、心の底からの感謝を捧げた。
(……ありがとう、エーベ)
 神が消え、人が満ちる世界。
 その中で、自分もまた生きてゆくのだ。

 ――人として、最愛の人の隣を歩いてゆこう。

もどろ 帰ろ 進も